-Indeterminism world-
偶然と言う名の必然への抗い
「それで、最近は変わりないのかい?」
門脇先生の声はいつも通りだったけれど、少し、やつれ顔をしていた。
望さんの病室と診療所を往復する毎日。あまり寝ていないのかもしれない。
ファンタスマのコントロール装置の存在。その安心感からか、最近では例の症状に苦しめられているという感覚はあまり無かった。イヤーレシーバーはずっと装着しているわけではなかったし、時に世界はすれ違っていくのだけど、0.1変動を経験してしまうと、0.01変動による世界の移り変わりは、ごく微細な変化のように思えた。
今日は、僕があまり話さないせいか、先生の手元にある診療録には空欄が目立つ。
「いつもの薬は出しておくよ。少しずつ、良い方向に向かっていくと良いね」
「はい。これも先生のおかげです。本当にありがとうございます」
僕は椅子から立ち上がると、門脇先生に軽く頭を下げ、診察室から出ようとした。
「城崎君。望が涙を流したらしい」
涙……。
――そうか。おそらく……あの時の涙。
「目を開いたわけじゃないんだ。だけど、瞼の隙間から、頬を伝って確かに涙が流れていた。脳波には変わりないよ。相変わらず望は眠りについている。いつ目覚めるか、誰にもわからんそうだ」
君の涙をこの世界に取り戻したことが、いったい何を意味しているのだろう。
それは君を苦しめている涙だろうか。
それとも君を悲しませている涙だろうか。
それとも……。
「いろいろなことが良い方向に向かうよう、僕も祈っています」
僕はそう言って門脇先生の診療所を後にした。
この世界から消えゆくものと、残りゆくものにどんな違いがあるのだろう。悲しみや苦しみは、その当事者や事象が消えてゆくことで、モラルと言う枠組みが解体され、ノンモラルが許容される。世界が一つ消えるとはそういうことだ。
予期した未来に不在のもの、それを今、この瞬間に知覚せざるを得ない時、僕たちは過去の幻影を呼び戻す。描いた未来がそのまま目の前にあるのなら、僕たちはそれほど多くを悩まなくていい。
――記憶ってやつは色づいたり、色あせたり厄介なやつだな。
東京の地下、数十メートル。真っ暗闇を高速で走る列車の車内で、僕は窓の外を見つめる。地下鉄線路の立体構造を支える分厚いコンクリートの世界は、列車の窓ガラスに顔を近づけないと、車内の明かりによる反射光でさえぎられてしまう。等間隔で過ぎ去っていく地下鉄トンネル内をわずかに照らす蛍光灯の光。過ぎ行く明かりを僕はぼんやり眺めることしかできなかった。
列車から降り、地下鉄駅構内の階段を駆け足で上ると、背中から汗が噴き出す。
街はすっかり初夏の陽気となっていた。
地上へ出ると、空は相変わらず灰色で、薄く伸ばした雲がのっぺり張り付いているようだ。
曇り空のわりにはとても眩しい。地下道から地上に出たせいだろうか。
「いや、おかしい。この感じ……」
街を歩く人は誰も僕に気を留めない。
景色がますます灰色になる。
少しずつ音が消えていく。
――そう、この感じ。
「ようこそ、基準世界へ」
いつの間にか、目の前に一人の男が立っている。
――ラプラスのデモン。
「私はこれ以上の現象世界干渉を認めることはできないのだよ」
顔の表情一つ変えずに彼はそういった。
「お前は何者なんだ?」
「監視者だよ。運命のね。それは永久に交差してはならないものだ」
ラプラスのデモンはさらに僕に近づいてくる。
僕はポケットに入れてある端末を確認した。
エキボケーション値0.00。ここは確かに基準世界。
「僕は運命なんてものは信じない」
「それはあらかじめ決定されている。信じる信じないという問題じゃないんだよ。誰も運命に抗えない。否、抗うことはあってはならないんだ」
この世界を解釈するにあたり、最後に使う道具が脳なのだとしたら、いわゆる正常な脳が生み出す景色が世界の在り様だと思うほかないだろう。しかし、正常な脳とは何か?
正常だと決定付けるのは誰なのか?
この世界は誰かの創作かもしれない。そんなふうに考えたことはないだろうか?
この世界を創作したのが誰かの善意である保証はどこにあるのか?
僕らが見ているこの景色は誰かの悪意かもしれない、そう思う事もまたできるだろう?
僕はそんな景色を見ていたいわけじゃないんだ。
「人がどの現象世界に存在しているか、それは偶然的に決定されることなのかもしれない。でもその偶然が、なにがしかの必然性を帯びているのだとしたら、僕はそれに抗う。大切な人を取り戻すために」
ラプラスの悪魔によって作られた世界像など僕は信じない。
「教えてやろう。あらゆる世界は理由なく存在し、またしたがって、あらゆる世界は実際に理由なく他のものに生成する能力をひめている 」
それが存在と記憶の排他性ということだろう。わかっている。痛いほどに。
「君には門脇望を救えない。絶対に」
「何かを守ることは同時に何かを傷つける。何かに価値を見出すことは、同時に何かの価値を切り捨てる。それがこの世界構造の本質なんだろう?そんなことは分かっている。でも……、でも、それでも闇と向き合う事でしか、光を取り戻すことができないという事も僕は知っている。希望は絶望の対局にあるわけじゃない!」
絶望の中から垣間見える光こそ希望であり、それは苦しみの一部なのだ。
「事象干渉することで、現実世界になにがしかの“蓋”をすることはできても、“歴史”を変えることにはならない。必ずもたらされるものと、そして失うものがあるからだ。それはお前も分かっているだろう?」
「何一つ結論されないのだとしても、僕はこの世界に望さんを取り戻す」
「どうしても行くというのか?」
僕は黙ってうなずいた。
「定められた運命に抗う……か。面白い人間だ。私はラプラスのデモン、それが意味するところは理解しているか?」
「逆に問う。すべてを知っているとでも言いたいのか?」
男は何も言わずにうなずいた。
僕は話し続ける。感情が言葉になり、言葉が力になるのが分かる。
「ラプラスの悪魔など存在しない。決定論は証明できないからだ。少なくとも僕たち人間にとっては。宇宙の初期状態とすべての自然法則を知れば、その知識に基づき未来を予言できる。そして実際、何もかも予言通りに起きるならば、決定論は正しいのかもしれない。しかし、そんなこと僕たちには分かり様がない。ある出来事が起きても、それが必然的に起きたのか偶然なのか原理的に判別できないのであれば、この世界に必然なんてもの存在しない」
永久に交差することのない運命。ただ不確定的要素で繋がっただけの僕たちだったのかもしれない。揺らぎが繋いだ二人の世界はいつも不安定で儚く。ならば儚い世界に希望を抱き進むより他ないだろう?
「よかろう。望の居場所を教えてやる。ただそれと引き換えに何が消滅するか、それはお前にもわかっているはずだ。それでも良ければ、教えてやる。望は0.99世界。この現象世界の果てを彷徨っている」
男は僕に小さな錠剤のようなものを手渡してきた。
「こいつを使うといい。現象世界の果てへの切符だ。こいつを飲みこめば、君のエキヴォケーション値が一気に変動する。ただ、1時間だけだ。それ以上の干渉は許さない」
世界に少しずつ色が戻る。
そしてラプラスのデモンの影は相対的に透明になっていく。
「ただ、一つだけ言っておこう。結局、君は誰も救ったことにならない。儚さというものは、いずれ最終的に実現されるであろう非存在の可能性を示すものなのだ」
彼はその声だけを残し、現実世界から消えた。
手には1粒の錠剤が残されていた。
――最終的に実現されるであろう非存在の可能性
それはやはり必然的なものなのだろうか……。
僕たちは必然性にとらわれているようで、しかしまた偶然的な世界を歩んでいるはずだ。様々な偶然性を僕たちは必然性と思い込んでいる。こうしなければならない理由なんて存在しない。むしろ理由の無さが、この世界の偶然性を成立させていると、僕はそう思う。
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