エキヴォケーション0.46
林に囲まれたやや小高い場所。
木々の切れ目から垣間見える海からこの場所が高台であることが分かる。
そして微かな波の音……。
海の香を含んだ風が、僕の髪を揺らしている。
――ここは。
僕はセフィラに頼み、無理を承知でエキヴォケーション0.1変動を試みた。
ファンタスマ発動にあたり、0.2以上の変動は危険すぎると止められ、そうならば0.54世界と言う名の現実世界から、マイナス0.1変動した現象世界で、望さんに関する手がかりを少しでも集めようと思った。
本来、イグジスティアの遠隔監視用である小型端末をポケットから取り出すと、そのモニターを確認した。
「0.46.エキヴォケーションの変動は成功したみたいだけど……。この場所は……」
僕のいた現実世界とは全く異なる現象世界。
でも、ここには見覚えがあった。
――忘れるはずない。
僕は後ろを振り返った。
そう、神社の拝殿。ここは
陽が傾き始めている。
春の空は灰色の日が多いのだけれど、ここから見ることができる空は青と、そして高度の低い太陽から放たれる赤みを帯びた光が混ざり合い、幻想的なコントラストを生み出していた。
僕は波の音が聞こえる方へ、ゆっくりと参道を下って行った。
この先を下りてゆけば、海に向かって立つ小さな鳥居があるはず。
あの日は津市での学会発表の翌日だった。
望さんはどうしてもこの神社に行きたいと言っていたことを、今でも鮮明に覚えている。
そういえば、0.62世界の望さんもこの場所を知っていた。
『きっと君は、その大切な人と、三重の伊射波神社に言ったんだね。大事な人、君なら守れる。だって、世界を乗り越えてきたんでしょ?』
僕が世界を超えてきたことも。いや、それは事実として本当に知っていたのかどうか、今となっては良く分からない。
ただ、この場所は地元の人でもあまり訪れることはないと言う。
確かに参道を歩いていても、誰ともすれ違うことなく、ただ波の音と、風が木の葉を揺らす音しか聞こえない。
石段が見えてきた。
これを下りた先に鳥居がある。
苔むした石段は気を付けないと足を滑らしてしまいそうだ。
陽が傾いてきたせいで、足元が暗い。
僕は慎重に足を運びながら石段を下りて行った。
やがて、海の水平線と重なるように小さな鳥居が見えてくる。
その鳥居の先には海面が優しく波っている。
――いや、人影?
こちらからは、逆光になっていて、良く分からないのだけれど、確かに人影が見える。
たそがれ時に浮き上がるシルエット。
それだけで僕には誰だか分かる。
でもなぜこの場所に。
「望さん……」
沖合からこちらに向かって、ゆっくりと風が届く。
波の音が近いくらいに鳥居に近づくと、彼女がずっと僕を見つめていたことが分かった。
陽の光は、その波長を増し、さらに赤みを帯びていく。
「城崎君。ここに来れば、また君に逢えると思ったよ」
――この世界の望さんは僕を知っている。
逆光の影で良く見えなかったけれど、彼女の瞳からは確かに涙が流れていた。
彼女の頬を伝う一筋の涙に、陽の光が反射する。
「城崎君。君がどの世界にいたとしても、私はそばにいる」
望さん……。
「だから心配しないで」
鳥居のすぐ向こう側にいる望さんが、
すぐ近くにいるはずの望さんが、
なんだかとても遠くにいるように感じた。
僕は鳥居をくぐり、彼女の目の前に立った。
そういえば、こんなに近くで彼女を見たことはなかったかもしれない。
「城崎君、ありがとう」
彼女の瞳から涙があふれているのは、今、はっきりとわかる。
――なぜ、泣いているの?
上手く声が出せない。どうしてだろう……。
『その世界に存在しないことに関して、安易に介入してはいけない』
ふと、セフィラの言葉が頭をよぎる。
望さんが泣いている理由を知ることで、現実世界の何かが消滅してしまうかもしれない。僕は何も言わず、ただ彼女を抱きしめた。
「どうして……。どうして、消えてしまったの?」
望さんの声から悲しみの思いがにじみ出ているのが分かる
消えてしまった……。
僕の存在が、この世界から消えている?
この世界に僕はもう存在していないのか。
つまり、それは……。
「幸せだったよ、君に逢えて。ありがとう。何度言っても言い尽くせないくらいに。ありがとう」
「僕は、この世界に……いない?」
問いかけずにはいられなかった。その答えを聞くことは許されないことなのかもしれない。ただ、このままこの世界で何一つ手がかりをつかめないのだとしたら、現実世界の望さんも救えないじゃないか。世界に存在しないことの意味というものを、不在という仕方で捉えるとき、今、ここで彼女の目に映っているであろう、僕の存在とは何か。その存在論的な根拠をつかむことができれば、あるいは……。
「うん、君は死んでしまったから」
――僕はこの世界で既に死んでいる。
ならば、僕の存在はこの世界にあってはならないのだと直感した。さもなければ、きっと0.54世界で、僕の存在そのものが消えてしまうのだろう。それでも、望さんとこうしていられるのであれば、僕はそれでもいい、そんなふうに思えるくらい、彼女のそばにいたいとも思った。この世界がたとえ幻想であっても。
「もう夢の時間は終わり。そうでしょう?」
望さんは、小声でそういうと、僕から離れた。
そして僕に背を向け、赤く染まっていく水平線を眺めている。
「陽が沈む前に。お別れは……この場所がいい」
「望さん、僕は……」
沖合から吹く風は、少しだけ冷たい空気を孕みながら、僕たちの間を吹き抜けていく。
そんな風の音にまぎれて、耳の中で微かなノイズが聞こえる。
『亮、それ以上は危険。すぐに戻って』
イヤーレシーバーから、微かにセフィラの声が聞こえる。
「僕は、望さんが……」
途中から自分の声が消えていくのが分かった。
身体から色が抜け、透明になっていくように、僕の存在がこの世界で希薄になる。まるで風景に溶け込んでいきそうな感覚。
セフィラが強制的にエキヴォケーション値を設定し直しているんだろう。
――そう、それでいい。望さん、あなたのことが好きです。たまらなく。この場所での記憶をいつまでも。さようなら望さん。
人はいつか透明になる。そうなのかもしれない。忘れたくない記憶、想い。
たとえ消えてしまったとしても、大切な誰かの存在を僕は忘れたくない。
それが悲しく、冷たいものであったとしても。
波の音が少しだけ大きくなる。
水平線に太陽が隠れると、空は一気に赤紫色になった。
流れる雲には赤い光が反射し、藍色の空に溶けていく。
**
「亮。危ないところだった。君の存在がこの世界から消えてしまうかもしれない。忘れないで、君が助けるのは、この世界の望」
目を開けると、そこはもとの研究室だった。
セフィラは今まで聞いたことの無いような大きな声で話している。
彼女は少し怒っているのだ。
「ごめん。心配……かけた、よな」
「うん」
0.46世界での出来事は一瞬だったように思う。
だから現実世界への大きな変化はないはず。
でも伊射波神社。あの場所はいったい……。
望さんと、どういう関係があるのだろうか。
神社の歴史や言い伝え……。
セフィラなら何かわかるかもしれない。
「セフィラ、少し調べてほしいことがあるんだけど大丈夫かい?」
この日は休日だったから、研究室には僕たちしかいない。
佐竹さんが出勤しない日をあえて選んだからだ。
本当はもう少しゆっくり手がかりを探した方けど、もう仕方のないことだ。
現状でわかることを少しずつ整理していくしかない。
「大丈夫。何を調べればよい?」
彼女の電子頭脳に接続されているのは、特殊なネットワーク回線。通常のインターネット検索はもとより、研究者が使う専門的な情報検索システムにもアクセス可能だ。特に学術的な情報を取得することに特化している。彼女なら、神社の歴史や由来に関する情報は瞬時にダウンロードできる。
「三重県鳥羽市にある伊射波神社について教えてほしいんだ。神社の歴史とか、言い伝えとか、それにまつわる話なら何でもいい」
セフィラが首をかしげる。
「亮、三重県の鳥羽市にそんな名前の神社は存在しない。場所は間違いない?過去にもそのような名前の神社があったという記録はない……。いえ、日本に伊射波神社という神社は存在しない」
「おい、そんなはずは……。いや、待て」
――まさか!?
僕は急いで自分のパソコン端末で伊射波神社を検索した。
検索結果は明らかだった。
「1件も、1件もヒットしない……。こんなことが」
僕は震える手で地図アプリケーションを起動させる。
三重県鳥羽市。そう安楽島町加布良古崎。その場所は確かに地図上では存在した。
海に突き出た森の広がる岬。
ただ木々が生い茂るだけのその場所に、神社の影を見つけることはできなかった。
「伊射波神社、そういう場所があったんだね」
「大切な思い出が、また一つ消えてしまった」
現実世界は取り返しのつかないかたちで、絶え間なく変化していく。過去の事象でさえも。それが現象世界での事象に干渉することの代償。
ある一つの世界は本当に決定論的在り方をしているのだろうか。複雑に絡まった因果の流れ。本来、人はそれを制御できない。それは運命と呼ばれるものに他ならないから。でも、僕はその運命に抗っている。それが僕たちの未来に何をもたらすのか分からないまま……。
「でも、消えたものだけじゃないはず」
この世界にもたらされたもの。セフィラの言う通り、今はその存在が大切な何かであることを信じるより他ない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます