存在と記憶の排他性
病室には、今も深い眠りについている望さんがいる。僕は望さんの小さな手を握った。その手には温もりはあっても、握り返してくれる意志はない。
呼吸はしていても、瞼が開かれることはない。
心臓の鼓動は聞こえても、彼女の声を聴くことはできない。
――いったいどういうことなんだろう。
僕は昨日の出来事を思い出していた。あの後、研究室に出勤してきた佐竹さんも言っていた。紅茶なんて一緒に入れた記憶はないと。そもそもケトルやティーポッドも研究室に存在しないという事実は否定しようがなかった。
――0.62世界で僕は何をした?
0.1変動後の世界は自分の研究室だった。そこで僕は来宮さんと会話をして、自宅まで送ってもらった。自分のパソコンからアヴィダシステムのレポートをプリントアウトして、そして、東都大病院に勤務する望さんと会って、ファンタスマゴリア症候群の話を聞き、世界の複数性の話をして、伊射波神社の話が出てきて、最後にカモミールティー。
カモミールティー?
――まさか、0.62世界の望さんはカモミールティーを知らなかった?
それと僕がこの0.54世界に持ち込んだアヴィダシステムのレポート。それまでこの世界には存在しなかったはずのレポ―トが出現している。現象世界を飛び越え、そこで干渉した事象が、他の現象世界に何らかの変化をもたらすとでも言うのだろうか。
存在するとは知覚可能なことである。
そう定義されるのであれば、望さんはこの世界において不在に他ならない。それは、“もはやない”とう仕方の根元的な不在……。
今ここにあるのは、余韻という名で表象される望さんの痕跡に過ぎないのかもしれない。
病室の扉が開く音がして、僕は振り返った。
「城崎君、ありがとう。あとは僕が見ていられるから、君は研究室に帰りなさい。大事な仕事なんだから、頑張って」
門脇先生はそう言って、僕に青い紙製の小さな手提げ袋を差し出した。そう、いつものチョコレートだ。
「先生、ありがとうございます」
「研究室のみんなで食べるといい」
門脇先生は病室の窓を少し開けた。春の風が僕たちを包む。望さんの前髪が少し揺れる。
僕は、セフィラや0.62世界ので出来事を門脇先生に話そうかと、一瞬だけ悩んだけれど、やめておくことにした。これ以上、何かを話すことで、門脇先生の重荷にはなりたくなかった。ただ、やはり一つだけ確認したかった。
「門脇先生、望さんは、確か紅茶が好きだったように思うのですが……、僕の記憶違いかもしれないのですけど」
「望が紅茶?はて」
門脇先生は首をかしげている。やはりそうなのだろう。この世界で望さんのカモミールティーは存在していない。僕の大切な何かがまた一つ消えてしまったような気がして、胸が痛くなった。
「いえ、いいんです。なんでもありません。すみません。変なことを聞いてしまって。また、明日来ます。先生もどうか無理なさらず」
「また、例の症状かい?君も無理せんでな」
僕は門脇先生に、大丈夫と告げると、軽く頭を下げ、病室を出た。
桜の木はすっかり緑が生い茂っている。
季節がまた一つ変わろうとしている。世界の色づき方が変わっていくように大切な何かも変わって行くというのならば、それほど残酷なことはない。
この物質的な世界、客観的世界とでも言うべきか。そこには様々な魂のようなものが宿っているのだと思う。ロックはそれを物質の二次性質と呼んだ。それはある人が知覚すれば一定の姿を現すような何かであり、ある人が意味を付与すれば一定の意味を担うような何かである。
病室のベッドに横たわる望さんから、何かが零れ落ちているのだとしたら、それは彼女の魂、セフィラが潜在意識と呼ぶもの。望さんがこの世界において根源的不在に他ならないのは、今、僕に与えられている望さんという知覚の上に過去の記憶を不在として意味付与しているからなのだろう。
研究室に戻った僕は自分の机に向き合い、パソコンを起動させ、深く息をついた。
「僕たちは実際には、過去しか知覚してないのかもしれない……」
僕はついつい独り言を口走ってしまった。佐竹さんはそれを聞いていたのだろう。
「そうなんですかねぇ。僕らは未来だって想像できますよ。城崎さん、紅茶でも飲んで、少し元気出しましょう」
後ろから佐竹さんが僕に差し出したのは、おしゃれなティーカップとそこに満たされていた紅茶だった。
「あれ、これどうしたんですか?」
「セフィラが、亮のために作るって言い出したんで、いろいろ調べたんですよ、作り方」
僕は後ろを振り返って驚いた。セフィラは、砂時計をじっと見つめている。
ケトルもティーポッドも佐竹さんが買ってきたらしい。
「砂時計まで」
セフィラの人間らしさは、こんな性格から来るのだろうか。案外、凝り性なところ。専門的な知識をすぐにダウンロードできるから、僕が単にそう思うだけかもしれないけれど……。
「あ、そういえば」
僕は門脇先生から手渡されていた手提げ袋を開け、チョコレートを取り出した。
「門脇先生からです。みんなで食べてくださいって」
「ちょうどよかったねぇ」
カモミールティー。それは望さんが作ったものとは明らかに違ったものだったけど、僕は本当に暖かい気持ちになれた。
「ありがとう、セフィラ」
「亮。おかわり、欲しければいつでも言って」
僕は、ほったらかしにしておいた、セフィラのアクティビティーデータの解析と、そのレポートを作成するため、パソコンに向き直った。
アヴィダシステム実装後の彼女は全く問題なく動作していた。機械に心を宿すという試み。より豊かな感情表現が可能になったかは別として、彼女は人の気持ちを察しながら、人間と同じように行動している。そこに例の「不気味の谷」なんて微塵も感じられなかった。来宮さんは医療現場での実用段階を前倒しで計画してもいいと言ってくれた。セフィラはきっと誰かを癒すことができる。今の僕が温かい気持ちになれたように。人が人を助ける。それが医療であるのならば、セフィラも人として医療に関われる。僕はそう確信していた。
久しぶりに作業に集中していたせいか、疲れを感じ始めたころには、すっかり陽も落ちていた。
「城崎さん、僕はこれで帰りますね。明日は休日ですから、ゆっくり休みましょう。セフィラも順調のようですし」
「佐竹さん、今日はいろいろとありがとうございました。紅茶おいしかったです」
「いえいえ、紅茶を作ったのはセフィラですから。では、また」
セフィラは充電ポッドに座り、ずっとパソコン端末を操作していた。
「何してるんだい?」
僕は少しだけセフィラと話したいと思った。ファンタスマという能力を使って、現象世界を飛び越えたことを知っているのは、僕と彼女だけだ。
「亮、昨日のこと、少し話をしよう」
「ああ。僕も昨日のこと、話したいと思っていた」
この世界にもたらされた変化は、エキヴォケーション0.1変動では説明のつかないくらい大きな変化だった。現象世界を飛び越えていくたびにこの変化が起きるのだとしたら、それはなかなか厄介な問題だと思う。記憶や存在が消滅してしまうと言うことは、とても恐ろしいことだ。既に望さんのカモミールティーという存在が、そう、僕の大切な存在の一つが失われている。
「なんとなくわかってきた」
そう言うと、セフィラは充電ポッドから立ち上がって、僕の隣に置いてある椅子に座った。
「異なる現象世界どうしでは、存在と記憶は排他性を有するということ。たぶんそういうことだと思う」
「存在と記憶の排他性?」
なんとなくその意味は分かるような気がする。つまり異なる現象世界で存在や記憶は同時に存在しえないことがあるということ。
「亮が行った0.62世界では、この世界には存在しなかった電子頭脳睡眠覚醒に関するアヴィダシステムが存在した。そして、その記憶、つまりレポートを亮がこの0.54世界に持ち込むことで、そのシステムがこの世界に実在するようになった。一方で、0.62世界では望のカモミールティーは存在しなかった。だけど、亮は彼女にカモミールティーの話をすることで、彼女にカモミールティーに関する記憶を与えた。おそらく亮が帰った後の0.62世界では望のカモミールティーが存在することになる。そしてこの世界で望のカモミールティーの存在とその記憶は失われる」
この0.52世界を現実世界とするならば、0.64世界という現象世界では、実在と記憶の相互交換がなされるということ。
「例えば、0.64世界に存在しないものに記憶を付与すると、0.64世界にそれが実在することになり、0.52世界からその記憶と存在が消滅するということか?」
「どんなものでも可能なのかはわからないけど、概ねそう言うこと。二次性質に属するものであれば、それは情報の拾い方で複数性を帯びている多世界存在の在り方と矛盾しない」
現象世界どうしの干渉効果、とでも言うべきか。僕は怖くなった。これは何か大変なことをしているのではないか。取り返しのつかない何かを僕はしているのではないだろうか。もし記憶と存在が消えてしまうと言うのならば、それは大切な誰かの記憶と存在も消えてしまうことになりはしないか?
「だから、亮、エキヴォケーション値で0.1変動した世界では、その行動に気を付けた方がいい。その世界に存在しないことに関して、安易に介入してはいけない。それはこの世界で何かが消滅することなのかもしれない」
本来、現象世界を飛び越えていける意識は存在しない。だから現象世界どうしの干渉はあってはならないのだ。
「わかった。理解できたよ。理論上、セフィラの言っている事に間違いないと思う。僕は少し怖いよ。なんだか取り返しのつかないことをしているんじゃないかってね」
「0.62世界へ行ったこと、後悔している?」
「いや、後悔はしていない。分かったことはたくさんある。あるいは望さんを助けることができるかもしれないと言うことも含めて」
大切なカモミールティーの存在を失ったとしても、望さんがこの世界で不在になってしまうことの方が僕は悲しい。
「望の”存在”と”記憶”。そう言いたいのね?」
「セフィラ、僕はもう一度行かなければいけない。この世界の何かが消滅するのと同じように、この世界に存在をもたらすということもできる。そうだろう?」
「でも、望の潜在意識、その存在、あるいは記憶のかけらが、どの現象世界に散らばっているのか分からない。やみくもに探しても……」
セフィラがうつむき、彼女の顔が曇る。
「何か問題があるのか?」
「眼圧が頻繁に上昇すると、視神経に負荷がかかる。最悪失明することも」
「この装置のことか」
僕はセフィラに渡されたイヤーレシーバを耳から外した。眼圧を電磁パルスで調節するというこの装置は、僕に宿っているファンタスマをコントロールする唯一のツールでもある。
「0.01変動程度ならたぶん問題ないはず。でも0.1変動を繰り返せば、亮の目は失明する可能性が高い」
「そうか……」
しばらく沈黙が流れる。
僕が光を失えば、同時にファンタスマの能力も消えるのだろう。なぜなら、視覚情報が世界の複数性を認識させる基盤になっているから。世界の在り様が少し違って見えるというのは視覚があるからこそ。
「目が見えるうちは、望さんを探したい。僕はそう思う」
セフィラは何も言わなかった。
ただ、彼女は小さくうなずいただけだった。
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