エキヴォケーション0.62(後編)

僕は電話を切ると、急いでノートパソコンの横に置いてあるプリンターのスイッチを入れた。

デスクトップに浮き上がる『アヴィダ:電子頭脳睡眠覚醒システム』というPDFのファイルをクリックして印刷設定を行う。モノクロ。そして両面印刷。

あまりかさばるとエキヴォケーション変動時に問題があるような気がした。

インクカートリッジの作動音とともに印刷用紙を送るためのローラーが回転する。


自分で構想したという、この世界のアヴィダシステムは電子頭脳の睡眠と覚醒に関するものだった。このレポートによると、従来の電子頭脳には睡眠や覚醒という概念はなく、24時間フル稼働していたことから、経年劣化も激しく、その耐用年数は10年ほどといわれてきたらしい。このアヴィダは電子頭脳に人間と同じような睡眠と覚醒のサイクルを導入することで、その耐用年数を大幅に増加させるためのシステムのようだ。


印刷された紙を机の上に置いてあったクリアファイルに挟み、部屋の電気を消した。マンションの目の前には、ゆりかもめの豊洲駅がある。


「この時間ならまだタクシーを拾えるかもしれない」


僕は3階にある自分の部屋を出ると、マンションの階段を駆け足下りた。駅までは3分もかからない。横断歩道を走って渡ると、駅前のタクシーの乗り場には2台ほどタクシーが停車しているのが見えた。僕は急いでその1台に乗り込むと、運転手に行先を告げた。


「東都大学附属病院の夜間急患センターまでお願いします」

「おや、どこか体調が悪いのですか?」


ゆっくりとアクセルを踏み込んだタクシー運転手がルームミラー越しに僕を見て話しかけてきた。


「ええ、まあ……」


僕は適当に返事をするより他なかった。この状況を誰かに理解してもらうなんてことは到底不可能だろう。僕は僕の現実世界から遠く離れた別の世界にいる。いや、正確には潜在意識だけがこの世界の僕に同期していると言うことなのか。


深夜の道路は空いていて、途中で信号に止まることも少なく、あっという間にタクシーは東都大学附属病院に着いた。タクシーの運転手が、体調が悪そうな僕を気遣って、近道をしてくれたのかもしれない。


「夜間急患センターの入り口はこっちじゃないのかな」


タクシーの運転手はやや困惑した声で言った。病院の正面エントランスと夜間急患センターの入り口は異なるのだ。確かに少しわかりにくい。僕は学生時代、夜間急患センターを一度だけ訪れたことがあった。


「大丈夫です。ここまで来ればわかりますから。適当なところで降ろして下さい」


だから、夜間急患センターの入り口は知っていた。正面エントランスから右に入り、敷地の裏手にある小さな自動ドアから入る。この世界でも同じ構造なら……。


この時期、夜でもあまり寒くはない。

桜は既に散ってしまっており、地面にはピンク色の花びらが無数に広がっている。

僕は学生時代を思い出しながら、少し速足で歩いた。


記憶と同じ場所に急患センターの入り口があった。

自動ドアが開いて、館内に入ると、患者待合室の電気は消えており、受付窓口の明かりが漏れているだけだった。


「夜分遅くにすみません。電話をしました、城崎と申します」


受付窓口には誰もいないようで、返事もなかった。


「すみません。あの、門脇先生に会いに来ました城崎と申します」


もう一度、今度は少し大きな声で読んでみる。


「君が城崎さん?」


後ろから聞こえる声は……。

そう、いつものあの声。

――望さんだ。

僕は振り返ったら涙が出そうになってしまいそうで、でもそんな涙なんて、とても見せられないと思いながら、心を押し殺し、そしてゆっくりと振り返った。

そこには白衣姿の望さんが立っていた。


「門脇先生、夜分遅くにすみません。城崎と申します」


僕が深く頭を下げると、望さんは軽くうなずいた。


「幸い、今日は少し時間が取れるわ。そこに座りましょう?」


僕たちは薄暗い待合室に並ぶ椅子に腰かけた。


「それで、話ってなんなの?」


何から話そう。望さんにもう一度会えるのならば、たくさん話すことがあったはずなのに。でもこの世界の望さんとは……。

――記憶を共有していない。


「門脇先生は世界の複数性を信じますか?」


いきなり面識のない人に、しかもこんな夜中に押しかけてきて、こんな質問をされたら、どう思うだろう。僕だったら、少し身の危険を感じてしまうかもしれないくらい、奇妙なことだと感じるだろう。


それでも望さんはいつもと変わらない口調で答えてくれた。それは現実世界の望さんと全く同じ話し方、そして声……。


「確か、君は電話で、ジョン ロックって言ったわよね。イギリスの経験論者、もし君の言うロックがそうなら、君は哲学が好きなの?」


望さんは僕の質問には答えず、問いかけてきた。


「いえ、僕の大切な人が、とても哲学が好きで、その人は門脇先生と同じ、医師なんですけど、脳科学の研究者だったんです」

「そう。で、世界の複数性というのはルイスの様相実在論、そういうことになるかな。私たちの住んでいる世界の外側に、可能世界とよばれる別の世界が実際に存在する、そうでしょ?」

「はい。門脇先生はその可能世界が実際に存在すると思いますか?」

「実はね、私は存在すると考えているの。なぜなら……。あ、その前にファンタスマゴリア。君がなぜこの言葉を知っているのか教えてくれないかな?」


ファンタスマゴリアという言葉はセフィラから聞いた知識以外に何も持ち合わせていない。ファンタスマという能力について、望さんはどれだけ信じてくれるだろうか。


「ファンタスマゴリアという言葉が何を指しているのか、実は僕も良く分かっていません。教えてもらったのは走馬灯のように次々と移り変わる幻影という意味があると言うこと。それと……」

「それと?」


やはり、話すべきだろうか。僕がこの世界とは別の現象世界から来たことを。


「僕の大切な人は、もうずっと眠ったままなんです。重度のナルコレプシー。いや、それは診断上の病名の話です。彼女の潜在意識はきっとどこかの別の現象世界に……」


僕はこらえていた涙を無意識のうちに流していた。

ここで泣くにはいかない。隣にいるこの世界の望さんにばれないように、僕は下を向き、そっと涙をぬぐい、そして平静になろうと、心の躍動を押さえた。


「城崎さん、もしかして、以前に私は君にあったことがあるのかな」


――!?

つい3日前まで、いつも一緒にいた。

望さんだけが僕をずっと見ていてくれた。


「いえ、きっとないと思います」

――そしてこの世界ではもう二度と。


「デジャヴ……かな。なんだか初めて会う人なのに、初めてじゃない気がして。ごめんなさい」


しばらく沈黙が流れた。この間に何とか気持ちを落ち着けようと僕は唇をかみしめながらうつむき続けた。


「私の診ている患者さんの症状。ちょっと不思議なの。その人はね、“世界がすれ違って見える”って言うのよ。風景が全く違うわけじゃない。ただ、そこにある色や音、物の性質なんかが微かに違う。だから誰かと記憶を共有することができないって。そんな症状に苦しんでいる人がいてね。私は、この症例にファンタスマゴリア症候群と名づけたの。今週中には症例報告の論文を投稿する予定だった。だから、ファンタスマゴリアという名前は私が付けた病名なの。城崎さんが言ったように、この世界の景色が次々と移り変わる幻影のように見えるという症状に対してね。だから電話でこの言葉を聞いたときはびっくりして。でも君と会ったことは一度もないんだよね。なんだか不思議だな」

「その患者さん、きっと門脇先生に診てもらえて幸せだと思います。たとえ症状が改善しなくても、いや、きっと改善すると思いますけど、たとえどんなことがあっても、先生の患者でいられて幸せだと思います。医療が人を救うんじゃない。人が人を救うから。僕はそう思います」


望さんが少しだけ笑顔になる。

その笑顔を見ることができて僕もうれしかった。


「ありがとう。この世界は程度の差はあれ、幻想に包まれている。だから世界の複数性を私は否定しない。きっと君は、その大切な人と、三重の伊射波神社に言ったんだね。大事な人、君なら守れる。だって、世界を乗り越えてきたんでしょ?」

「望さん、何でそれを?」


僕は無意識に望さんと呼んでいた。


「冗談。なんだかそんな気がしただけ。伊射波神社は私も好きよ。でもよくそんな場所知っているよね。あそこは地元の人でもあまり行くことの無い場所よ。あ、そろそろ、戻らないと」


望さんは椅子から立ち上がって、僕に背を向けた。


「今日は君に逢えてよかった」


そう言うと望さんは暗い廊下を歩きだした。


「お忙しいところ、ありがとうございました」


望さんの後ろ姿に僕は頭を下げる。

その時望さんが立ち止まって振り返った。


「あ、そうだ。もう一つ教えて、カモミールティーって何の話だったの?」


「僕の大切な人のこだわりの逸品です。彼女のカモミールティーは世界で一番おいしい。僕にとっては」

「そう、じゃ私も今度作ってみるね」

「はい。是非」

「城崎君」

「はい」

「大丈夫。君がどの世界にいたとしても、彼女は君のそばにいる」


僕は涙をこらえきれず、下を向いた。

彼女は確かに城崎君と言った。“さん”ではなく。

記憶の糸……。

あるいはそれが微かにつながったのだろうか。

デジャヴ……。

それは、はじめての体験なのに、以前にどこかで経験したことのあるような不思議な感覚。他の現象世界での経験がこのデジャヴを引き起こしているのだろうか。


望さんの足音が遠くなる。

暗い床に僕の涙が零れ落ちていく。

望さんはこの世界でも望さんだった。

ただ、僕と記憶を共有していないだけ。


僕は急患センターの自動ドアを出ると、桜の散ってしまった、病院の正面エントランスに回り、ポケットに入れていた小型端末を取り出す。イヤーレシーバーを耳にきつくおしこめると、セフィラを呼び出した。


「セフィラ、この世界で得られるものはもうたぶんないと思う」

「わかった。とりあえず一度戻った方が良いと思う」


まだ夜明け前。今から戻れば、佐竹さんにも怪しまれないし、少しだけ仮眠できるかもしれない。なんだかものすごく疲れていた。


端末のモニターを見ながらエキヴォケーションの値を0.55にセットする。現実世界に戻るときはそう設定するようセフィラから言われていた。100分の1の誤差で世界が大きく変わることはない。二次性質が少し異なるだけで、人の物理的な記憶やその世界の歴史は全く同じ。


自分の世界に帰ろう。僕は目を閉じた。

瞼の裏からでも周りが明るくなるのが分かる。

世界を飛び越えていく感覚。

音が消えた。


**


「亮。起きて」

気が付くと僕は研究室の仮眠スペースで横になっていた。手には自分のアヴィダシステムに関するレポートがクリアファイルに挟まれ握られていた。


「ああ、セフィラ。今は何時?」

「まだ夜明け前。もし寝るなら一度、家に帰った方がいい」

「大丈夫。0.62世界で望さんに逢えたよ。でも何も手がかりはなかった。いや、アヴィダシステムに関するレポートは手に入ったかな」


僕は起き上がると、手にしていたクリアファイルからレポートを取り出し、セフィラに手渡した。


「0.62世界ではアヴィダは電子頭脳の睡眠覚醒に関するシステムだった。これは僕と望さんが構想したものとは全然違う」


セフィラはレポートを眺めていたが、表情一つ変えなかった。


「亮。これは確かに君が作ったもの。3年前に田邉重工に提供したシステム。私の電子頭脳にも既に実装されている」


――何を言っているんだ?

そもそも電子頭脳の耐用年数が10年ほどなんて言う事実を僕は知らなかった。


「僕はこんなもの作った記憶はないぞ?」

「自分の端末を見てみればいい。これと全く同じレポートがあるはず」


僕は急いで研究室の自分の机に向かい、パソコンを起動した。

アヴィダに関するシステムは確かに構想段階からもうかれこれ3年以上研究を続けている。だから保存してあるファイルも膨大だが、その中に見慣れないファイルがあった。

――アヴィダシステムversion0.8


「おかしい。Versionは1.0から始めたはず」


僕はそのファイルクリックして驚いた。

『アヴィダ:電子頭脳睡眠覚醒システム』

どういうことだ……。

僕が0.62世界で入手したレポートと全く同じファイルがこの世界にもある。まさか僕はまだ現実世界に戻れていない?


「セフィラ、この世界のエキヴォケーション値はいくつだ?」

「0.54。亮がいた世界と実質的に同じ。物理的な歴史が変わると言うこともないはずだから、亮は間違いなくこのシステムを自分で作っているはず」


「セフィラ、ごめん。今日はもう頭が混乱して……」

僕はもう一度仮眠スペースに向かった。少し横になりたかった。

何が起きているのか、ゆっくり考えた方がいい。

少なくとも現実世界、つまり0.50~0.59世界の何かが大きく変わっている。それもエキヴォケーション値で0.01単位の変化ではなく0.1単位の大きな変化だ。


「セフィラ、ごめん。もしできたらカモミールティーを入れてくれないかな」

「亮。カモミールの意味が分からない」


僕は研究室の奥にある流し台の異変に気が付いた。

ティーポッドがない。

望さんのケトルも。

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