エキヴォケーション0.62(前編)

一瞬にして音が消え、目の前が真っ白な光に包まれる。

世界がすれ違う瞬間、いや、これは世界を飛び越える瞬間。

あまりの眩しさに僕は目を閉じる。眼圧が一過性に上昇すると言っていたが、僕の視神経は問題ないのだろうか。現象世界を移動するというのはどういうことなのか、ちょっと未だに良く理解できていないところがある。


このままエキヴォケーション0.1の壁を超えると、それ以前の僕の存在はどうなってしまうのだろうか。エキヴォケーション値を変動させているという、このイヤーレシーバーと僕の手の中にある小さな端末装置。これは現象世界を飛び越えて持ち込めるものなんだろうか。


いろいろな疑問が頭をよぎる。

――そもそもセフィラは信用できるのか。

そんなことを考えながらも、ようやくあたりが普通の明るさに戻る。


音が徐々に戻り始める。パソコンのキーボードをたたいている音。

――でも誰が?セフィラか。

イヤーレシーバーは耳にはまっているようだ。どうやら一緒に世界を超えることができたらしい。エキヴォケーション0.1の壁を乗り越えたのだとしたら……。

――いや、まて。現象世界を超えることができるのは僕の意識だけじゃないのか?


視界が少しずつ戻る感覚。パソコン端末が置いてあって、本棚に囲まれた応接スペースがあって、奥に小さな流し台がある。そう、ここは、産業技術総合研究所の脳情報工学研究室に間違いない。僕は握りしめていたイグジスティア専用の遠隔モニタリング端末をズボンのポケットにしまう。


ただ、この研究室は、僕がいた世界とは明らかに異なっている。いつも流し台に置いてあるはずの望さんのケトルはない。それにセフィラの充電ポッドもセフィラもいない。応接スペースが確かに存在しているから。そして、奇妙なことに、パソコンを操作しているのは来宮さんだった。彼は椅子に深く腰掛け、モニターを睨めつけながら、せわしなくキーボードを叩いている。


「城崎さん、どうかしました?」


呆然と立ち尽くしている僕に、来宮さんが手を止め話しかけてきた。


「望さん……。望さんは?」


来宮さんは、まるで不審人物を見るかのように、僕の顔から足先まで見回すと、軽くため息をつきながらこちらに向き直った。


「望さんって誰ですか?城崎さん、最近仕事ばっかりだったから、ちょっと疲れているんでしょう?もう10時回ってますから、今夜は帰った方がいいですよ」


――望さんを知らない?

三重の学会会場でも、田邊重工との共同プロジェクトの打ち合わせの時にも、そしてセフィラ搬入の時にも、何度か顔を合わせているはず……。


「門脇望、ここの主任研究員の門脇望は、今どうしていますか?」


来宮さんは口をぽかんと開けたまま、椅子から立ち上がった。


「本当に大丈夫ですか?ここの主任研究員は城崎さん、あなたじゃないですか?僕は田邊重工からの出向。この研究室には二人しかいないんですから、その望さんと言う方はいませんよ」


来宮さんは僕に近づくと、僕の肩を軽くたたいた。


「それはそうと、アヴィダシステムはもう少しで完成です。最終プログラミングが今ようやく終わりました。これも城崎さんの構想がなかったら実現しませんでしたよ」


――アヴィダが完成していない?

『エキヴォケーション値が10分の1、つまり0.1単位で変わると、現象世界は大きく変わってしまう』セフィラはそう言っていた。エキヴォケーション0.1を超えた世界は、僕が現実世界と思っていた世界とはまるで異なるパラレルワールド。


「アヴィダは……まだ、完成していない、ということですか。じゃ、セフィラに、いやイグジスティアにも実装されていない、ということなんですか……」


世界の複数性を理論上では理解していても、今その現実に直面して、僕は血の気が引いていくのが分かる。本当に存在した可能世界。世界が少しだけ違って見えるくらいな可能世界ではなく、これは本物のパラレルワールド。


「何をとぼけたこと言ってるんですか?セフィラとか望さんとか、ああ、本当にやばいですよ、城崎さん。今日は僕が送りますから、もう帰りましょう。少し休んだほうがいい」


何もかもが違う世界に僕はめまいを覚えそうになる。

望さんはそもそもこの世界に存在するのだろうか。

存在するとして、どこに?

会えたとしてどうすればいい?


来宮さんは、研究室を適当に片づけると、僕が住んでいる豊洲のマンションまで車で送ってくれた。夜の闇に包まれる臨海副都心の風景はそれほど大きな変化が無いように見えた。


「ゆっくり休んでくださいね。あまり無理しないように」


来宮さんはそういうと、まだ少しやり残したことがある、と言って研究所に戻っていった。時刻はもう11時になる。

僕は部屋の電気をつけ、台所からコップを一つ持ってくると、水道の蛇口をひねり、水を一気に飲んだ。

洗面台に行き、自分を鏡で見る。いつもと変わらない僕がそこに映っている。部屋の様子、家具の配置、机の上。やや散らかっているが、これは昨日の僕の部屋と同じだ。


僕はポケットに入れておいた小型端末を取り出した。モニターには0.62という数字が表示されている。

――これがエキヴォケーション値なのか。

世界の風景に大きな違いはないけれど、その中身はまるで違う。

僕は机の上に無造作におかれた自分のノートパソコンを起動させた。


「何かヒントがあるかもしれない。もし僕がアヴィダを構想したとしたら、僕はこのパソコンに何か残しているはず」


OSが起動し、パスワード入力画面になる。一瞬、パスワードが違っていたらどうしようと不安になったが、問題なかった。


「あった……」


“アヴィダシステム”というファイルがデスクトップに張り付けられている。しかし、そのファイルをクリックして僕は驚愕した。中にはいくつかのテキストファイルがあったが、そのタイトルの奇妙さに吐き気を覚える。

『アヴィダ:電子頭脳睡眠覚醒システム』

――この世界のアヴィダは望さんと僕が構想したものではない。


その時、耳の中で微かな声が聞こえた。

すっかり忘れていた、イヤーレシーバーの存在。

セフィラの声が懐かしかった。


「亮、聞こえている?」

「ああ、でも、とても声が遠いい」


ノイズがひどく、セフィラの声はかろうじて聞こえる状態だった。


「異なる現象世界で通話ができていること自体が奇跡。そちらの世界はエキヴォケーション値0.62の世界。0.1の壁は越えたから、たぶん全く違う世界が広がっているはず」


こちらの状況は正直なところ訳が分からない。なんて説明すればいいんだろう。この世界の異なり具合を説明するだけで途方もない時間がかかりそうだ。


「セフィラ、一つだけ教えてくれ。セフィラのいる世界、つまり元の世界で、僕はどうなっている?」


僕はどうしても気になっていた。現象世界を100分の1単位で移動していた時、ここまで大きな世界の変化は起きなかった。だから、それぞれの世界にいる僕は僕のままでいられたのだと思う。だけど、0.1を超えると、それは完全なパラレルワールド。元の世界にいた僕がそのまま存在しているとは考えにくいという直感があった。


「寝ている。たぶん望とおんなじ状態なんだと思う」


――やっぱり。

現象世界を超えるというのは潜在意識が、他の現象世界の自分の身体に同期すること。あるいはそういうことなのかもしれない。望さんの場合も……。


「ありがとう。なんだかこの経験だけで少しわかってきたような気がする」

「亮、そんなことより時間がない。たぶん亮がこっちの世界に戻らない限り、このまま覚醒することはないと思う。この時間帯だったのが幸い。朝になって、佐竹さんが研究室に来るまでにはこちらに戻らないと、いろいろまずいことに……。何とか時間稼ぎはしてみるけど……。タイムリミットは12時間くらいだと思って」


セフィラの困った顔を想像すると、なんだかおかしかくて、僕は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「この世界では望さんは研究員じゃないし、アヴィダシステムも完成していない。そもそもアヴィダの機能が僕の世界の物とはまるで違うようだ。望さんがどこで何をしているのかもわからないよ」


正直どうしてよいか全くわからなかった。


「そのアヴィダシステムについては今調べている余裕がない。それよりも望さんを探した方がいい。そこでインターネットは使える?彼女の才能ならば、どんな仕事をしていようが、きっと門脇望の名前で所属が検索されるくらいの業績を残しているはず」


「そうか。ありがとうセフィラ。あ、でも結婚していたら苗字が変わっていて……」

「気になるの?」

「いや」


僕は検索エンジンの望さんの名前を入れ検索を実行した。セフィラの言ったとおりいくつかのサイトが検索結果に表示されたが、検索トップに出たのは東都大学附属病院だった。


『東都大学附属病院精神科 医師 門脇望』


「セフィラ、東都大病院の精神科に勤務している。望さんはこの世界でも医師になっていたんだ」

「今から会いに行かないと時間がない」

「今!?深夜だぞ?」

「当直しているかもしれない。病院に電話してみて」

「でもなんて言うんだ?」

「そんなのわからない。自分で考えて」


セフィラは唐突に通信を切ってしまった。確かに時間はなかった。このまま現実世界に戻るわけにいかないことも良く分かっていた。

僕は検索された病院ホームページの夜間救急センターへ電話をかけた。


「はい、東都大学病院夜間急患センターです」


病院の受付スタッフだろうか。こんな深夜でも丁寧な話し方だった。


「すみません、僕は産業技術総合研究所の脳情報工学研究室の城崎と申します。精神科の門脇望先生との共同研究プロジェクトの件で緊急の連絡です。携帯がつながらないようでしたので、こちらに電話しました。急ぎ取り次いでほしいのですが」

「えっと……。少々、お待ちください」


保留音に切り替わる。受話器の向こう側の声は明らかに動揺していた様子だった。きっと怪しい人物だと思われたに違いない。でも、もしこの話が本当なら、取り次がないわけにはいかない、と考えたのだろうか。とにかく、ここで電話を切られなくて良かった。


保留音が切れると、懐かしい声がした。


「もしもし、門脇です」


もう何年も聞いていない気がした。つい3日前まで、沢山の会話をしてきたのに、この声がずいぶんと遠くの存在であることを僕は知っている。


「望さん……」

「あの、いたずら、でしょうか。私は今研究をしている立場ではないのですが」


ここで切られてはいけない。僕は正直にこの状況を話そうと思った。望さんならきっとわかってくれるはずだと、そういう確信があった。


「あ、いえ。夜分遅くに大変申し訳ございません。産業技術総合研究所、脳情報工学研究室の城崎亮と申します。協同研究プロジェクトのことは、門脇先生に取り次いでいただくための口実でした。本当にすみません。実は先生にこれから会って、どうしても話したいことがあります。こんなことは無理だと承知してます。でも、どうか、どうかお願いです」


「これからって、あなた今何時だと思っているの?一体何の用件なんですか?アポイントなら明日以降あらためてとっていただければ……」

「用件は……伊射波神社、カモミールティー、ジョン ロック、ファンタスマゴリア……えっとそれから……」


僕は夢中で望さんに関して思いつく単語を並べた。すべてが異なる世界だったとしたら、たぶん、この世界の望さんの記憶には存在しない言葉たちなのかもしれない。でも僕は賭けていた。セフィラの言っていた「記憶の糸」に。


その人にとっての意味や価値が、とても希薄なものであったとしても、世界にとっては何がしかの意味や価値がある。微かな記憶のかけらが、この世界に彩りを加えるのだとするならば、色彩鮮やかな世界を想い、微かな記憶の存在に手を伸ばしたい。


「城崎さん、って言いましたよね?分かりました。病院に着いたら受付で私を呼び出してください」

「あ、会っていただけるのでしょうか?」

「その代り、教えてください。なぜあなたがファンタスマゴリアという言葉を知っているのかについて」


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