世界の構造とファンタスマ(後編)

セフィラが言うには今、僕らが現実だと思ってる世界はエキヴォケーション値でいうと0.5から0.6の間にあるらしい。ちなみにエキヴォケーション値が人間の認識に対して有意な影響を示すために100分の1以上の差異が存在しないといけない。したがって、この0.5から0.6の間には、0.50、0.51、0.52……0.59と、10個の現象世界が存在することになる。そして普通の人間はその間の数値のどれかひとつの世界を、唯一の現実世界として生きている。


「望にもファンタスマがある。そしてその能力の理論的解明をしようと、アヴィダを構想し、君に起こっている現象の実態に近づこうとした」


僕は何も知らなかった。僕はいつも数歩先を走っている望さんに追い付けないと思っていた。でも、彼女はいつだって僕を追いかけ、そして探してくれていたんだ。

――大丈夫。君がどの世界にいたとしても、私はそばにいる。


「ただし、望のファンタスマは亮ほど強いものじゃない」

「ファンタスマの強さのいったい何が問題なんだい?」

「ファンタスマの能力の強さは移動できる現象世界に制限をもたらすの。望のファンタスマで移動できる現象世界は、エキヴォケーション値で換算すると0.5から0.6の範囲。君がさまよっていた世界の間を、望も追いかけていたことになる。本来は……」


セフィラが口ごもった。ここまで淡々と説明してくれただけに、少し意外だった。

ティーカップに注がれた、いつもと同じ紅茶から静かに湯気が立ち上る。


「ここから先は私も良く分からない。ただ、望の潜在意識はこの世界に存在しないことは確か」

「ということは、望さんの潜在意識は僕たちとは全く別の現象世界に存在すると言うことなのか?」


望さんが眠り続けている原因と、この世界から消えた潜在意識の関係についてはセフィラも良く分からないらしい。ただ、別の世界の望さんに合えば、あるいは何か手がかりのようなものが見つかるかもしれない。


「エキヴォケーション値が10分の1、つまり0.1単位で変わると、現象世界は大きく変わってしまう。だから、別の現象世界にはそもそも望は存在しないかもしれないし、この望の潜在意識がどの世界に存在しているのかもはっきりわからない。でも、亮、あなたにはエキヴォケーション0.1単位の壁を超える能力がある」


しばらく沈黙が流れた。

僕は椅子から立ち上がり、窓の外に広がる臨海副都心の夜景を眺めた。

高層ビルにともる灯は徐々に消えかけている。

この街が眠りにつこうとしているんだ。


「望を助けたい?」


後ろでセフィラの声が聞こえる。僕は振りむくと、セフィラも椅子から立ち上がり、僕の目の前に立った。


「もちろんだよ。彼女を救いたい」


望さんの存在しない世界なんてありえない。

これまでずっと僕を探し続けてくれた彼女を、今度は僕が必ず見つける。


「現象世界のどこかに存在する望にもう一度逢う事ができれば、あるいは望みを眠りから覚ますことができるかもしれない」


そういって、セフィラはイグジスティア専用の遠隔モニタリング端末と小型のイヤーレシーバーを僕に手渡した。

端末は先日、来宮さんから渡された夜間の異常行動監視のための遠隔モニタリング用の小型端末だ。


「それと、このイヤーレシーバーを付けて」


僕はセフィラに言われるがまま、手渡されたイヤーレシーバーを耳に装着する。小型のイヤホンのようなもので、一応音声マイクも装着されているようだ。


「私に搭載されているアヴィダもエキヴォケーション0.1の壁は越えられない。でもこの端末あがれば、現象世界を超えて私とコンタクトできる。私がエスコートする。望を探そう」

「でもどうやって、エキボケーション値を変動させればいいんだ?」

「世界がすれ違う瞬間、君には何が起きていた?」


僕はその瞬間が来る、あの奇妙な感覚を思い出していた。

そう、急に視界がゆがんだり、目の前が真っ白になるほど明るくなったり……。目を閉じて、再び目を開けると、そこにはこれまでと少しだけ違った世界が広がっている。


「眼圧が上昇するの。採光口である水晶体が歪み、眼球を構成する硝子体の面積が変化する。その時、視神経が受けとる情報のエキヴォケーション値が変化する。そのイヤーレシーバーは内部から発生するある種の電磁波で、眼圧を調整することができる。つまりエキヴォケーション値をこちらで設定することができるということ。だから君がこのイヤーレシーバーを付けている限り、発作的に世界が変わることもないし、君はむしろファンタスマを自分の意志で使うことができる」

「でも、こんなものいったい誰が」

「私にだって情報工学や脳科学に関する専門知識はインストールされている」


セフィラはやや不満そうに答えた。そういえばこの3日、セフィラの管理は佐竹さんに任せっぱなしだった。彼女は彼女なりに望の意志を実現しようと努力していたのかもしれない。あらゆる情報を入手できる電子頭脳を持つがゆえに、彼女は望さんの状態も誰も教えなくとも全て理解しているのだ。僕や佐竹さんの気持ちも痛いほどに理解している。


「アヴィダのシミュレーション実験が成功してから基幹システムは既に望の手によって完成していたから作業自体は楽だった。それに来宮隆が持ってきた遠隔監視用の端末との相性も良かったし。望がどれほど君を助けたかったかが今は良く分かる」

「セフィラ、勝手に改造してしまった?ということかな?」


真面目に話しているセフィラが少しおかしかった。


作り話のような僕の話を、望さんは真面目に聞いてくれるだけでなく、科学的に検証しようとしていた。そして既にそのシステム設計までおこなっていたなんて……。

望さんの生きるスピードに今度こそ僕は追いつかなければならない。

君にもう一度会うために。


「あらかじめ言っておくけど、どの世界に望の潜在意識が存在するか私にはわからない。だから根気よく探す必要がある。でも、それぞれの現象世界は微かな記憶でつながっているから、手がかりさえつかめれば、あとは記憶の糸をたどれば良いかもしれない」

「記憶の糸?どういうこと?」

「それは自分で確かめてみて。それと、エキヴォケーション値の設定はこちらからしかできない」


セフィラは自分の充電ポットのおいてある場所へ歩いていき、そこに腰かけると、備え付けられているパソコン端末を起動させた。


「ソフトウェアも自分で作ったの?」

けなしているの?」

「あ、いやそういうつもりじゃ……」


彼女は意外にもプライドが高いらしい。でも、それ以上に人の心の痛みがわかるのだろう。この短時間で、望の思い、そして僕の思い、ここまでしてくれたセフィラに今は感謝しかない。


「準備はいい?」

「ああ、いつでも」


エキヴォケーション0.1の壁を超えて。

僕は君を探しに行く。

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