世界の構造とファンタスマ(前編)
僕は完全に言葉を失ってしまった。
カモミールの匂いが微かに漂う研究室の中で、沈黙が流れる。
鼓動する僕の心臓から発生する振動が、体全身に波のように押し寄せ、そして頭の中が真っ白になっていく。
――基準世界と現象世界
やはりこの二つの世界には関連があったのだ。ラプラスのデモンと名乗った男の存在は僕が生み出した幻想なんかではない。彼もまた確かに実在するのだ。
「厳密には亮のファンタスマはかなり特殊。エキヴォケーション0.1の壁を超えることができるから」
セフィラは紅茶をカップに注ぎ終ると、僕の隣の椅子に座った。
――エキヴォケーション。
それは僕が大学院時代に受講した「情報理論特論」という授業で出てきた、ある哲学者の概念だ。途中で失われた情報量、その曖昧度のこと。ファンタスマという言葉が何を意味するのかよく分からないけれど、エキヴォケーションといったいどんな関係があるというのだ。
鼓動の高鳴りを抑え込もうとして、僕は深呼吸をすると、紅茶に口を付けた。
「セフィラ。少し説明してほしい。ファンタスマとか、エキヴォケーションという言葉の意味が僕には良く分からない。いや、正確にはエキヴォケーションという言葉は知っている。ただ、それがこの現象となんの関連があるのか……。そしてそれ以上にわからないのは、なぜ君がそんなことを知っているかなんだ」
セフィラがこちらに顔を向ける。
空いている窓から、暖かい風が入ってきて、セフィラの前髪を軽くなびかせた。
「世界に満ち溢れている情報、それに色を付けていくこと。それを可能にするのが
外の特殊街路を走るゆりかもめの駆動音が微かに聞こえる。
陽もすっかり落ち、帰宅を急ぐ人たちが行き交う、そんな時間。
「望さんがファンタスマと呼んだって、それはどういうことだい?」
「彼女は世界の認識の在り様について、自分の理論をこのアヴィダを通して、検証しようとした。そしてそれは概ね成功したと言える。世界を把握するその仕方について、望の構想は間違っていなかった。ファンタスマゴリア……走馬灯のように次々と移り変わる幻影の意味するこの言葉から、こ彼女は能力をファンタスマと呼んだ」
アヴィダシステムの開発に着手する前、この研究室で、僕は望さんとシステムの構想について随分たくさんの話をした。人間の認識構造をヒューマノイドの電子頭脳で正確に再現するためにはどうしたらよいか。脳科学者でもあり医師でもあり、そして哲学にも精通していた彼女は、認識システム構築に当たり、この世界を2つの性質に分けることを提案した。
――まだこの研究が構想段階だったころだ。
『ちょっと難しいこと言うようだけど大丈夫?世界のあり方っていうのは、特定のパースペクティブからみた風景を実在として、その他の知覚風景を心の側に配置すると言う作業によって成立しているの』
望さんはいつも僕の理解度を確認しながら話を丁寧に進めてくれた。
『私たちの目の前にある知覚風景を構成している物体には、はじめから意味がこびりついているとみなすこと、そういう仕方で私たちは世界を認識しているのよ。でも見上げた空がもともと青いわけではなくて、それは青という意味を付与していることに過ぎない』
望さんによれば、この世界に存在するあらゆる事物は一次性質と二次性質に分けられるという。いや、これは正確には望さんが言ったわけではなく、ジョン・ロックという哲学者が「人間治世論」という書物の中で述べたことらしい。
『つまり、一次性質とは、事物特有の性質のこと。そして二次性質とは色や音、味といったものを知覚させる物質の能力のこと。これは分かりやすいでしょ?』
そう、一次性質とは、物質の形のように物体に固有の性質であって、その物体から取り去ることのできないような性質のことを意味する。一方で二次性質とは、色や音、味のようなものだ。だから僕は世界がすれ違うたびにコーヒーの味が変わってしまう。世界がすれ違うとは世界を構成している二次性質の感じられ方が変わってしまうと言うこと……。
「亮、お茶、もう少し飲みますか?」
僕はふと我に返る。
この研究室に残っているのは望さんとの思い出ばかりだ。
大きな喪失と、心の中からはじけ飛びそうな悲しみの塊を僕はどこにおしこめて良いかわからない。
望さんはセフィラにアヴィダが実装される前から、ファンタスマについて自分の理論を温めていたのだろう。
今はセフィラが入れてくれる紅茶が、僕をこの世界につなぎとめていた。
「ありがとう。もらうよ。セフィラ?もう少し説明してほしい。
「うん」
セフィラはうなずくと、ケトルに水をいれ、お湯を沸かし始めた。
「セフィラは物体の一次性質、二次性質に関する情報をどれだけ知っている?」
「ジョン・ロック『人間治世論』アヴィダは世界の認識の在り方に関して、このロックの認識論をモデルに作られている」
無機質な情報の流れから、有意味な情報の流れを汲みとり、そこに意味や目的、価値を付与してく。そんな特殊な演算処理を行うシステムを僕は作った。ただ、望さんは開発にあたって、とても有益な助言をしてくれたし、その構想の多くはこのシステムに実装されている。だから、実際のシステムはほぼ望さんの構想したものと言っても良いかもしれない。
「エキヴォケーションというのは、つまり、その二次性質を認識する能力の値と言う理解でまちがえないか?」
セフィラは黙ってうなずいた。
『この世界が本当の世界だなんて、どうしていえるんだろう。それは幻想に過ぎないのかもしれない、そんなふうにも考えられる。だから世界の見え方をコントロールすることができるのなら、それは一つの能力と言ってもいいかもしれない』望さんはそう言った。世界の見え方をコントロールする能力、ファンタスマ。そして何によってコントロールするか……。
――エキヴォケーション値
無限のパースペクティブから取捨選択する情報量の程度。
「概ねそう。そしてエキヴォケーション値は0~1で定義される。エキヴォケーション0の世界が基準世界。つまり基準世界に存在するのは物体の一次性質のみ」
セフィラの答えは僕の予想を裏切らなかった。
――基準世界へようこそ
ラプラスのデモンの声が頭の中で再生される。
確かに色が薄い。いや色は確かにあるのだけど、色そのものの存在が極めて薄いというか…そう、あれが基準世界。
「エキヴォケーションが上がっていく……。それは基準世界という一次性質だけの世界から、色や味のような二次性質が付与されていくという事か?」
基準世界、そこに存在するのはあらゆる二次性質的なものが取り去られた後に残る物体の存在のみが許された世界、おそらくそういうことだろう?
「二次性質の付与のされ方はエキヴォケーション値によって変動し、その数だけ世界は複数性を帯びる。こうした複数存在する世界は現象世界と呼ばれる。人間はただ一つの現象世界、それを現実世界というだけれど、そこでの記憶しか保持できない。だから複数の現象世界を超えて記憶を保持できる人は君たち意外にいないんだ」
知覚とは真の世界像を認識する能力ではなく、結局のところ意味を付与する作業のことに他ならない。複数存在する現象世界に対して、ただ一つの現実世界を生きることは、他の現象世界を可能世界として排除する。排除された世界は、その存在論的根拠を失い、現実しない世界に貶められる。『我々の住んでいる世界の外側に、可能世界とよばれる別の世界が実際に存在するという』 門脇先生の言葉が頭をよぎる。現象世界の複数性は一般的にはパラレルワールドとか可能世界と呼ばれるのだろう。
沸かしたお湯をティーポッドに注がれる音が聞こえる。
「ファンタスマという能力は、複数の現象世界で、記憶を保持し続けることができる能力。ただし亮のファンタスマはとても強力なの」
「それはどいうこだい?」
砂時計がひっくり返され、3分間のカウントが始まる。
透明なガラス製のティーポッドの中では湯に浸されたリーフが対流によってゆっくりと動き出す。
「亮はこれまでエキヴォケーション値でいうと0.5から0.6の世界を移動していたの。世界の在り様が変化しているのではなく、君は記憶を保持したまま、エキヴォケーションの異なる現象世界を移動していたということ……」
僕はこの現象を精神疾患だと思ってきた。そうしなければこの異常事態に対して、自分をどう根拠づければ良いのか分からなかったからだ。自分を見失う感覚、世界から見捨てられる感覚、それほど怖いものはない。
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