-Phenomenon world-
移り変わる幻影
望さんは、僕たちの母校である東都大学附属病院へ搬送された。高度救命救急センターでは命の別状はないと判断され、彼女は脳神経内科病棟へそのまま入院となった。
あれから三日たつ。研究室は佐竹さんに留守番を頼み、僕は望さんの病室へ通った。
研究どころではなかった。
病室のベッドに横たわる望さんの姿はまるで寝ているようだった。実際のところ、脳波や検査値にも異常はなく、意識消失の原因は不明とのことで、今日は先ほどまで精密検査が行われていた。
――僕は無力だ。
こうして、何もできずに君の前で立ち尽くすだけ。
そうして時間だけが過ぎてゆく。
病室の扉があき、門脇先生が入ってきた。これまで主治医の医師から精密検査の結果と、今後の治療方針について説明を受けていたのだ。家族しか話を聞くことができないという理由で、僕は説明を聞くことができず、病室で門脇先生の帰りを待っていた。
「城崎君、結局のところ、望の状態は良く分からないと言った方が良いかもしれない。現状では、命には別状はないとのことだが、今後、意識が戻るのか、あるいは戻らないのか、全く予測できないというのが主治医の結論だよ」
門脇先生は肩を落とし、疲れた表情で、微かにため息をついた。よろけるような足取りで、病室の隅にある折り畳み式のパイプ椅子を、望さんが眠るベッドのわきに持ってくると、先生はそこに腰を下ろした。
「望さんはいったい、どうして……」
門脇先生は僕の顔を見上げると、診察室の時と同じように静かに話し始めた。
「脳髄液検査の結果を見せてもらった。オレキシン濃度が検出限界以下、というよりもまったく検出されなかった。これがどういうことわかるかい?」
オレキシン。それは神経ペプチドの一種だ。オレキシンは、脳内の情動、報酬系およびエネルギー恒常性の調節系と相互作用しながら睡眠、そして覚醒を調節している。端的に言えば、オレキシンは覚醒を維持する機能を有するということ。オレキシンが望さんの体内から消失しているのだとしたら、それは覚醒を維持するための機能の一部が失われたことを意味している。
「覚醒機能の障害、つまり望さんはナルコレプシーだとでも言うんですか?」
僕は自分の声の大きさに自分で驚いた。感情がどうしても漏れてしまう。
門脇先生は驚きもせず、そして静かにうなずいた。
ナルコレプシー、睡眠発作を主体とするこの脳疾患は、日中において場所や状況を選ばず強い眠気に襲われる。通常、睡眠発作は一過性であり、また適切な治療を受けることで、日常生活に支障を来さない程度まで回復できるとも言われている。その原因は未だ不明な部分も多いのだけど、自己免疫疾患が関与しているのではないかとも言われている。つまり、自分の免疫機能により、オレキシン神経の後天的な破壊が原因ではないかと……。
そんな理論はともかく、望さんは、もう3日間も眠り続けている事実をどう受け止めたらよいのか、自分の頭では処理しきれない。少なくともナルコレプシーという病名でかたずけられるほど、今の状態は単純ではないはずだ。
「私もナルコレプシーなんて病名に納得しているわけじゃないんだ。これでも医者の端くれだからね。ただ、現状ではそうとしか考えられん、ということだそうだ。いつ覚醒するかは誰にもわからん」
ベッドのわきに取り付けられた
機械であるセフィラが、目と呼ばれる採光装置と、高速情報処理演算を可能にした高性能電子頭脳で世界を把握し、それを5か国語で言語表現しながら行動できるのに対して、人間である望さんは、呼吸器系、循環器系は自律的に駆動しているものの、話すことも、食事をすることも、動くことも、そして目を開けることもできない。
――人として生きるとはどういうことなのだろうか。
この世界がまだ色づきを失わないのならば、どうか彼女を助けてほしい。僕にできるのはそう願うことだけだった。
望さんのいない研究室にいるだけで、胸が苦しくなる。不安と焦燥が入りまじり、胃の底から不快な何かがこみ上げてきそうな発作に何度も襲われる。
「佐竹さん、今日はもう大丈夫です。こんな時間までありがとうございました」
望さんが入院している病院から研究室に戻ると、退勤時間を過ぎても留守番を快く引き受けてくれた佐竹さんが待っていてくれた。
「望さん、早く意識が戻ると良いね」
「ありがとうございます。ご心配をおかけしてすみません」
「セフィラの様子に変わったところはなかったよ。話し方も、ここに来た当時とは違って、本当に人間みたいになった。今日は一緒に紅茶を入れてみたんだ。望さんがやっていたようにね。そうしたら、本当においしくできた。うん、まあ、あんまり無理しないで。誰のせいでもないよ。じゃ、また明日」
佐竹さんが帰ると、研究室はひっそりとしてしまった。
セフィラはただ窓の外をじっと眺めている。
「あそこを走っているのがゆりかもめだよ」
臨海副都心の夜景を眺める彼女に僕は話しかけると、セフィラは振り向いた。
表情が豊かとは言えない彼女は、どちらかといえば無表情でいることの方が多いのだけど、それはそれで、人間らしさを浮きだたせているようにも思える。
「亮。紅茶、飲みますか?」
彼女は僕と望さんのことを名前で呼ぶ。来宮さんいわく、イグジスティアが人間を名前で呼ぶのは珍しいことらしい。
「あ、今日、佐竹さんと作ったんだよな。うん、もらうよ。ありがとう」
望さんはよく紅茶を入れてくれた。いつものカモミールティー。僕は砂糖もミルクも入れずそのまま飲むけど、彼女は少しだけミルクを入れる。
アヴィダを構想した頃、紅茶を飲みながら二人で良く話し合った。今はセフィラの充電ポッドが置かれているあの場所で。
応接スペースがなくなってしまったため、今は、研究室の奥にある小さな流し台の横に、折り畳み式の椅子が置かれているだけの狭い休憩スペースになってしまった。
僕はその椅子に腰を下ろす。隣ではセフィラが沸かしたお湯をテーポッドに注いでいる。
――あれ、砂時計?
リーフをお湯に浸す時間にこだわるのは、この研究室では望さんだけだ。
「セフィラ、紅茶の作り方、誰に教わったの?」
「望に。亮は紅茶が好きだからって」
いつの間に、そんなことしていたんだろうか。カップに注がれた紅茶は、確かにいつもと同じ紅茶だった。味も、香りも。
――いつもと同じ味?何かがおかしい。
紅茶やコーヒーは特にそうだ。味覚というような不確定要素が大きい食品や飲料の場合、世界の見え方が少し違ってしまうだけで、その味は顕著に変化する。
世界が違うことの確証を頭に刻み込まれるだけで、僕の心は擦り減っていく。だから僕は喫茶店が苦手だったし、望さんが入れてくれた紅茶以外には飲まないようにしていた。
「セフィラ、君はなぜ、僕と同じ世界にいる?」
僕はあらためて気が付いた。セフィラも、ここに搬入されて以来、何かが少しだけ変わると言うこともなく、常にセフィラであり、僕は彼女と記憶を共有している。望さんとおんなじだ。彼女と僕は同じ世界に居続けている。
「望の潜在意識はこの世界から消えてしまった。だから彼女は眠り続けている」
セフィラは僕の質問に答える代りに望の名前を口にした。頭の整理が追い付かない僕をまるで無視するかのように彼女は話を続ける。
「次々と移り変わる幻影。望はいつも君の世界に追い付こうとしていた。ファンタスマ、それが君たちの能力」
――君たち?そして、ファンタスマとは何だ?
「私は、基準世界に流れる情報をもとに、あらゆる現象世界を垣間見ることができるし、どの現象世界にも実際に存在することができる。そしてそれをコントロールすることもできる。だから亮と同じ世界にいることができる」
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