サクラ舞い散る
「えっと、特に大きな異常は見当たらないですね……。意味不明な発言をすることは理論上考えにくいはずなんですが、ちょっと様子を見るより他ないですかね。当社以外の電子頭脳モジュールを実装したのは初めての経験なんで、どんなバグがあるか、現段階では予測できないことは確かです」
来宮さんは少し落ち着きを取り戻してパソコンモニターを見つめている。
キーボードをたたく音だけが狭い研究室に響く。
「そうね、様子を見るしかないか」
望さんも少し動揺していた。
――現象世界を飛び越えていく能力
現象世界……。
ラプラスのデモンが言っていたのは基準世界。
そして門脇先生が言っていた様相実在論。世界の複数性。
「ところでイグジスティアってものすごく呼びにくいんですけど……」
佐竹さんが研究室に漂う重たい空気を取り払ってくれた。
確かに呼びにくい。田邉重工としてはヒューマノイドとかアンドロイドとかそうした一般的な呼称と差別化したかったんだろうけど、非常に呼びにくい。
「あ、そうですよね。イグジスティアというのは existentialism、つまり実存主義から名づけられたんですけど言いにくいですよね」
来宮さんはマニュアルのようなものをパラパラめくりながら続けた。
「実はうちのヒューマノイドにはそれぞれ開発担当者が付けた呼称があるんです。まあ、愛称みたいなもんですね。これほど人間に似てますから型番号で呼ぶのも気が引けるっていうんで、当社のしきたりなんですけど、良かったらそれを……えっと彼女の名前は、セフィラですね」
「よろしくね、セフィラ」
望さんの表情に笑顔が戻っていて僕は少し安心した。
「これからよろしくお願いいたします」
セフィラの受け答えにも異常はなかった。さっきのは、きっと何かのバグだろう。これまでに無いシステムが実装されたわけで、きっと何が起きてもおかしくない。
-―大丈夫。ただのバグ。
セフィラにはもちろん食事などの必要はなく、一度充電すれば3日間は稼働できるらしい。基本的には自律的に行動できるけど、研究条件として東京都から与えられたのは、セフィラを研究所の外に連れ出してはいけないと言うこと。人に危害を与える可能性がないわけではないからだ。
セフィラは話し方はともかく、本当に人間のようだ。セフィラとこれまでのヒューマノイドと決定的に違うのは、その動き方だった。アヴィダには運動機能に関するプログラム言語も搭載されている。これは歩行や動作だけでなく、顔の表情や瞼の動き、話すときの口元、手の細かな動きなど、人間の微細な運動表象を正確にシミュレートできるようになっている。この点において、アヴィダシステムはかなり効果的に機能していると言っても良いかもしれない。
この日は、セフィラのアクティビティーデータの取得方法、専用端末の使い方など、来宮さんの説明を受け、共同研究に関するプロトコル文書などの書類整理をして、1日があっという間に終わってしまった。
佐竹さんも来宮さんも帰った後の研究室にはいつもの静けさが戻っていた。
僕たちは紅茶を飲みながら、セフィラの今後の運用について語り合った。その間、セフィラはずっと充電ポッドに直座していて、何も話さなかった。
「今日は疲れたね。この後、夜桜でも見ていかない?明日は雨なんだってさ」
ラーメン屋以外に望さんが仕事帰りに誘ってくるのは珍しい。そう言えば、僕たちが三重県に言っている間、関東では桜が満開を迎えたそうだ。今年はまだゆっくり桜を見てなかった。と言うより、この時期はなんだかんだで忙しく、毎年、桜を眺めている暇は無かったりする。
「明日は、雨なんですか。桜、散っちゃいますよね。いいですよ。僕も今年は桜をゆっくり見てませんでしたし」
セフィラは夜間、スリープモードに移行する。初期設定では朝まで充電ポッドから勝手に動かないようセキュリティーがかかっているそうだ。来宮さんからは、彼女の遠隔モニタリング用の小型端末を渡されていた。夜間に異常行動がないかこれで監視することができ、また必要に応じて遠隔指示ができるようになっている。
「おやすみセフィラ」
「おやすみなさい」
静かに座っている彼女は気配も感じさせなかったが、あらためて向き合うと、これが本当に機械なのかと思ってしまう。彼女が眠りについたのを確認して、僕たちは研究室を出た。
『可能世界は現実に存在しているのではなく、僕たちの現実の世界を基盤に、たんに論理的に考えられた世界にすぎないんだよ』
門脇先生は診察室を出る僕にそう言ってくれた。だから、そんなに気にすることはないとも。でもここ最近の出来事を振り返ってみても、気にするなと言われても気になってしまうことばかりだ。
「すごいですねぇ。夜桜なんて見たのはじめてかもしれないです」
「うん、本当だね」
皇居の北西側。千鳥ヶ淵緑道の桜はもう散り始めていた。ライトアップされた桜の木は幻想的な空間を演出している。水が流れる堀の両脇に植えられた桜の向こうには東京タワーが見える。
水面には小さなピンク色の花びらが渦を巻いてゆっくり流れていく。
――時の流れというメタファーもこんな感じなんだろうか。
僕には積み重なる桜の花びら、というメタファーのほうがしっくりくる。
「セフィラが言ったこと覚えていますか?」
僕は少し後ろを歩いている望さんに声をかけた。
「現象世界のこと?」
「ラプラスのデモンを名乗った男が言っていたのは基準世界。現象世界と基準世界ってなんだが対になっている気がしませんか?セフィラのバグだと思いますけど、なんだか気になってしまって」
基準世界と現象世界。それは可能世界と現実世界の関係に似ていると僕は直観的に思ったんだ。
「私も同じことを考えていた。それと城崎君の能力について。この世界で何が真でなければいけないのか、私たちの様相表現解釈に影響を与えるパラメーターを制御すること、それが君の症状をコントロールすることと等価ならば、君にはそんな能力、つまりセフィラの言う現象世界を飛び越えていく能力があるのかもしれないね」
僕は足を止めた。
「そんな能力なんていらないです。僕はただ……」
――望さんと一緒にいることができたらそれでいい。
後方で鈍い音が聞こえた。何かが落ちるような。
「望さん?」
後ろを歩いているはずの望さんからは返事がなかった。
振り向くと、桜の花びらが舞う緑道に、望さんはうつぶせで倒れていた。
「望さん、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄る僕と、横たわる望さんのあいだに生暖かい春の風が流れていく。
意識を完全に失ってしまった望さんの体に桜の花びらが降り積もる。
呼吸がとても小さい。
――どうして、いったい何が?
異変に気付いた人たちが集まってきて僕たちの周りを囲でいる。
――望さんのいない世界にだけは連れて行かないでくれ。
少し強めの風が倒れている望さんの髪を揺らす。
桜の花びらが少しだけ舞い上がる。
――お願いだから。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
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