アヴィダ実装
「なるほど、それでその、ラプラスのデモンと名乗った謎の男は、君の症状について、精神疾患ではなく、能力と言ったんだねぇ」
門脇先生は難しい顔をして僕の話を聞いている。診療録には、僕が今まで話した会話の内容がびっしり書かれていて、真っ黒だ。先生は、僕の話に相槌を打ちながらも決して文字を書く右手を止めない。
「で、城崎君は、世界の見え方が違ってくる現象を、この世界に存在する情報の受け取り方の問題、つまり君の認識のあり方の問題なのではないか、そんな風に考えているというわけだね?」
ラプラスのデモンを名乗る男と出会って以来、僕に起こるこの奇妙な現象が、本当に病気なのだろうかと考えるようになった。『世界の見え方をコントロールすることができるのなら、それは一つの能力と言ってもいいかもしれない』たしか、望さんはそういった。この世界に存在するあらゆる情報の流れの汲み取り方をコントロールする。
――でも何によって?
「先生、この世界は、あらかじめすべてが定まっている、というような単線的なものなのでしょうか」
「決定論的世界ということかね。城崎君のいう単線的とはどういうことだい?」
門脇先生の難しい表情が幾分和らいだ。
相変わらず診療録を書く手は止めないのだけれど。
「すべての人にとっての唯一の現実世界があって、過去も未来もあらかじめ運命的に定められている、そんな世界に僕たちは生きているということです」
ラプラスのデモンは過去も、未来も、この世界のあらゆる出来事を全て知っている。宿命、そんなものがあるのなら、僕たちに自由意志はあらかじめ存在しない。
「それはおそらく……そう、決定論的世界に関してはいろいろと議論の余地もあるかもしれないけれど、唯一の現実世界を生きているというのは、きわめて常識的な考え方と言えるね。ただ、精神科医や哲学者の中には世界の複数性について論じている人も多い。パラレルワールドという言葉を聞いたことがあるだろう。まあ、そんな世界があるかどうかは別としても、可能世界という考え方は世界の複数性を擁護するうえで有望視されている」
もし僕が何かをしたら、世界はこうなったであろう、というような可能世界。それはけっして想像上の世界ではなく、現実世界の近くに実際に存在するのではないか、と僕は感じる。
そう感じるのは、僕がアヴィダを設計したことも多きな要因だったのだ思う。アヴィダを使ったコンピューターシミュレーションでは、情報の把握の仕方、つまり世界の認識の仕方は無数に存在することを明らかにしていた。一つの情報記号を取ってみても、そこには何通りもの解釈が存在し、様々な意味や目的を付与し、複数の観点から世界を把握することができることが示されている。
「様相実在論ですか……」
「良く知っているじゃないか。望の影響かな?あの子は医学よりも哲学が好きだったからね。ルイスの様相実在論によれば、我々の住んでいる世界の外側に、可能世界とよばれる別の世界が実際に存在するという。まあ、私も詳しいことは知らんがね」
アヴィダを人間の脳に置き換えて考えてみると、現実世界が全ての可能世界の中で最善のものであるという信念は、ただの幻想なのではないかとさえ思う。本来、すべての可能世界は等価であるはず。ならば現実世界だけ真なる世界と確信するその根拠、あるいは可能世界の中からただ一つの現実世界を選び出すその仕方はなんだろうか。現実世界の周りに存在する無数の可能世界。そんな可能世界を渡り歩くことこそが、僕の前に立ち現れる奇妙な現象の本質なのかもしれない。
****
「城崎先生、おはようございます。お邪魔しています」
研究室の扉を開けると、先日学会で声をかけてくれた、来宮さんが来ていた。
田邉重工株式会社との共同研究プロジェクトは、東京都の承認も得られ、実際のヒューマノイドに僕らが作ったアヴィダシステムの実装許可が下りたのだ。
「これがそのヒューマノイドですか。人間と見分けがつかないですが、これ本当にアンドロイドなんですか?」
扉を開けてすぐ左にあった応接スペースは、テーブルもソファーもきれいに片づけられていて、変わりに巨大な椅子のような機械が置かれている。ヒューマノイド専用の充電ポッドだ。そして充電ポッドに着座しているのは女性型のヒューマノイド。その見た目は人間そのものだった。
「当社ではイグジスティアと呼んでいる人型アンドロイド、つまりヒューマノイドで、現在開発されている機体の中では、最も人間に近いと言われているんですよ。特にこの機体はアヴィダシステム実装にあたり、電子頭脳を最適化している特別仕様です。では、これから起動してみますね」
来宮さんは、充電ポットのわきに備え付けられているパソコン端末を操作し始めた。
イグジスティアのひじ掛け部分に備え付けられた小型のモニターが青く点灯し、が正常機動したことを伝えている。そして、しばらくすると彼女の瞼が開き、大きな瞳で僕たちを見つめた。
「無事に起動しましたね。何も問題なしです」
「おーい、わかるかなぁ」
望さんが彼女の顔の前で手を振ると、イグジスティアは口を開いた
「門脇望、脳情報工学研究室主任研究員。専攻は脳科学」
口の動かし方、表情筋の動きなど、そのしぐさに大きな違和感はなかった。通常のヒューマノイドはやはりは会話をするときに、特有の不気味さを感じるのだが、イグジスティアからはそのような印象は受けない。ただ、その発話はやや機械的だった。
「なんだか少し機械的な話し方ですねぇ」
僕の隣で様子を見ていた事務員の佐竹さんは少しがっかりした様子だった。
「いえいえ、これまでのヒューマノイドに比べたら、全く違和感はありませんよ。それに、そもそもこのイグジスティアは人間性獲得のためにある程度、学習や経験が必要なんです。なので、しばらくはこの研究室で、皆さんと共に過ごしてもらうことになります。もちろん保守管理はうちで行いますのでご安心ください」
僕はイグジスティアの顔を覗き込んだ。アヴィダは、人の顔を認識すると、ネットワーク経由で住民登録データベースにアクセスし、人物の基本情報を獲得する。それだけではなく、対象人物の表情や話し方、そして服装や髪形、さらにソーシャルメディアの使用状況なども確認し、その人の性格や趣味、思考様式、体調や感情まで予測する。あらゆる情報を電子頭脳に具現化することで、コミュニケーションレベルを人と同等、いやそれ以上のクオリティに保つことを目的としたシステムなんだ。
「僕のことも、わかるかな?」
僕はイグジスティアに手を振る。すると彼女はさっきよりなめらかな口調で声を発した。
「城崎亮。君には、現象世界を飛び越えていく能力が存在する」
――現象世界?飛び越える?
僕は来宮さんと望さんの顔を交互に見た。二人とも驚きの表情を隠せない。
来宮さんは、すぐにパソコン端末を操作し、電子頭脳の演算データを解析しはじめた。
「それは、どういうこと?」
望さんが少し動揺した声で問いかけた。
「エラー。質問の意味がよく分かりません」
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