鳥居の向こうで
正常と異常の境界線。そんな線がこの世界のどこかに独立して存在するわけではない。異常という概念は人の認識そのものが生み出した構成物に過ぎず、異常というレッテルを貼るのは、マジョリティの意志であり、また社会からの要請だろう。
精神疾患か、特殊な能力か。その線引きもまた曖昧であり、極めて認識論的な問題と言えるのかもしれない。しかし、少なくとも僕は、この現象に苦しめられていることは間違いなく、それは僕にとつては異常事態であり、決して能力などではないと思う。
「城崎君、聞いてる?」
三重県と言えば伊勢海老や松坂牛などがすぐに頭に浮かぶのだけど、僕たちが食べている夕食は、いたって普通のラーメンだ。
「明日は行きたいところがあるから一緒に来てね」
望さんは鳥羽にある小さな神社に行きたいそうだ。三重県の神社と言えば伊勢神宮が有名なのだが、望さんはどうしてもその神社に行きたいと言う。なんでも海に向かって鳥居が立っていらしい。広島県は宮島の厳島神社のような風景なんだろうか。このあたりは小さな島々が点在し、リアス式海岸になっている地区が多い。かつては海上交通が盛んだったのだろう。その守り神としての社なのかもしれない。
「あ、わかりました。それは大丈夫なんですけど、三重まで来て、なんでラーメン……なんですか」
「私が好きだから。ラーメン」
テーブルの隅にあるコショウを取ると、ラーメンにさっと振りかける。
コショウをかけたところで見栄えが変わるわけでもない。いたって普通のラーメンだ。
「かけますか?」
僕は望さんのラーメンにも少しコショウを振りかける。
流行りのこってり系スープではなく、澄んだしょうゆベースのスープ。
そう、いたって普通のラーメンだ。
ラーメンの味はともかく、僕は自分の作った電子頭脳モジュール、アヴィダの実効性にあまり自信がなかった。これを実装したところで、ヒューマノイドに搭載されてる電子頭脳が大幅にスペックアップするわけではない。ただ、無機質な記号、つまりこの世界に存在する情報の流れから、意味や目的を見出し、そこに自ら価値を付与しながら行動するようになるというだけの話。それで人間らしさなるものが本当に獲得できるのだろうか。
――そもそも人間らしさってなんだ?
「望さん、本当に機械に心が宿ると思いますか?」
「そのためのデータを取ってきたんじゃない。それに、今度は本物のヒューマノイドに実装できるかもしれない。そうすればきっとわかる。でも、機械に心が宿ると言うのは、私ちょっと違うと思うんだ」
「ちょっと違う?」
望さんの意外な答えに僕は少し驚いた。
ラーメンからは相変わらず湯気が立ち上る。
麺は細麺、やや硬め。いたって……
「私たちは大脳の存在を不思議に思うことはあまりないでしょう。でも、その大脳に宿っているように考えている心の存在を不思議に感じる」
僕たちは自然法則の存在を不思議に思うのではなく、それに従わない現象に違和感を覚える。人は実在を不思議に思うのではなく、実在からはみ出した不在にこそ関心を向けるのかもしれない。多くの場合「異常」なものとして。
「だから機械に心を宿すわけじゃなくて、心の原型はあらかじめ世界に、情報の流れの中に存在するんだと思うよ。城崎君が作ったアヴィダは、その情報の流れの中に存在する心の原型から、人が心と感じるようなものをつかみ取ることができる、そんなイメージかな。これまでにない発想と言うか、私は単純にすごいなぁ、と思っているんだ。これは城崎君にしか作れない。だからきっと大丈夫だよ」
「ありがとうございます。なんだか自分ではそんな風に考えたこと無かったんですけど、そう言われるとそうかもしれませんね」
認識主体の関心に応じて切り取られた世界像。それは無限のパースペクティブを有する。言い換えれば、世界を見る位置に呼応した、多数の「観点」は世界の複数性を示唆すると言うことに、この時の僕はまだ気づいていなかった。
翌朝、僕たちは学会会場を後にすると、津駅から近鉄名古屋線に乗り、鳥羽で降りた。
「さてと、ここから確かバスに乗るんだったけど」
駅を出てすぐの場所に三重交通のバスセンターがあり、バス停がいくつか並んでいる。
「来たことあるんですか?」
「うん、もう10年くらい前にね。たしか
バス停に備え付けられた時刻表を確認すると1日5本しかバスが出ていないことが分かった。過疎化と車社会がもたらすのは、こうした公共交通機関の衰退。都会から離れ、地方へ行けばいくほど、古き良き列車やバス路線は消えていく。
「あと5分で来ますね。良いタイミングでした。これを逃すと3時間待ちです」
僕たちが行こうとしている
道も空いていたせいか、鳥羽駅バス停から終点の安楽島バス停までは比較的短時間でついてしまった。バスの乗客もほとんどいなく、1日5本でも多い方なのかもしれない。バス停を降りても、周りには何もなかった。ただ伊射波神社へと通じる細い道があるだけ。
「ここから40分くらいかな」
山道とほぼ変わらない、細い道路(いやむしろ獣道と言った方がよいかもしれない)をしばらく歩いていくと、両脇の森がいきなり開けて、海が見えた。
「海、見えましたね。ちょっと波の音、聞いていきませんか」
「うん、少し休もうか」
15分ほどしか歩いていないのだけど、ずっと登り坂だったせいか、少しだけ息が上がっていた。
「お茶飲む?」
どうやら望さんは朝から紅茶を作り、水筒に入れて持ち歩いていたらしい。
なんだか子供の遠足みたいで僕は少しおかしかった。
「ありがとうございます。いただきます」
波は思ったよりも穏やかだった。春は灰色の空の日が多いのだけど、この日の空はとても青くて、いくつかの小さな雲の流れがその景観にアクセントを加えている。
「昨日また会ったんです」
僕はエレベータ-の中で起きた奇妙な現象について、望さんに伝えておこうと思った。
波の音がゆっくりと、そして静かに聞こえる。
「ラプラスの悪魔、彼にまた会ったの?」
普通の人だったら僕の話をまともに信じてはくれない。たいていの人は僕の頭がおかしいと思うだろう。でも、望さんはいつもと変わらない穏やかさで、僕の話を聞いてくれる。
「彼は、世界が変わって見えるこの現象を、彼は精神疾患ではなく、僕の能力だと言ったんです」
そして僕には大切な人は救えないと。
――大切な人。
「能力か。あるいは君のその症状が、自分でコントロールできるのなら、それは確かに能力かもしれない。アヴィダを見ていると、この世界だけがほんとうの世界なのかなって思うんだ。世界の把握の仕方、世界に対する認識の在り様なんて無限に存在する。この世界が本当の世界だなんて、どうしていえるんだろう。それは幻想に過ぎないのかもしれない、そんなふうにも考えられる。だから世界の見え方をコントロールすることができるのなら、それは一つの能力と言ってもいいかもしれない」
世界の見え方をコントロールする……
この世界に存在するあらゆる情報の流れの汲み取り方をコントロールするということ。
その量的パラメーター。無限のパースペクティブから取捨選択する情報量の程度。
「エキヴォケーション……」
ラプラスの悪魔は言った。
――君の認識はまだこの世界に耐えられないようだ。エキヴォケーションが増えていく
「エキヴォケーション?」
「あ、いえ、なんでもないです。そろそろ行きましょうか」
海岸線沿いをしばらく歩くと、鳥居が見えてきた。僕たちの進行方向からは鳥居の真横のが見えていたから、最初は電柱が立っているのかと思った。本当に海に向かって建てられている。かつては船でこの神社に参拝したらしい。
「この鳥居、とても素敵でしょう?」
広島の厳島神社に比べたらその規模ははるかに小さいけれど、とても幻想的な風景だった。僕たちは海水すれすれの場所から鳥居の正面に回り、神社の参道を進んだ。鳥居の先はやや急な石段が積み上げられており、その奥に拝殿があるようだ。苔むした石段はところどころかけていて、気を付けないとつまずいてしまいそうになる。石段をすべて上ると、さらにそこから山道が続く。
伊射波神社の拝殿は木造の小屋で覆われて、その奥に本殿が見える。参拝を終えると僕は外の景色が見たくて、拝殿を出た。
「何をお願いしたの?」
後ろから望さんの声が聞こえる。
――大切な人を見失いませんように。
大切な人と一緒にいることができたら、それだけでいい。
「望さん、僕はたまに怖くなる時があるんです。世界に見捨てられていく、そんな感覚がいつもあります。僕のことを誰も知らない世界に一人で落ちていく、誰の記憶ともすれ違ってしまう、そんな世界で生きることが、たまらなく怖くなるんです」
望さんが近づいてくる足音が聞こえる。
背中にぬくもりを感じる。
望さんが後ろから抱きしめてくれる。
「大丈夫。君がどの世界にいたとしても、私はそばにいる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます