ゴールデン・ドロップ
――エキヴォケーションが増えていく
確かにあの男はそう言った。そして”ラプラスのデモン”
僕の認識……
小さな電子音でふと我に返った。
僕は研究室の応接スペースにおかれたソファーに座ってる。
小さな流しの隅においてあるケトルが、水が沸騰したことを知らせている。
望さんはケトルで沸かしたてのお湯をガラス製の透明なティーポッドに注いでいく。小さな湯気が立ち上り、殺風景なこの部屋に微かなカモミールの匂いが満ちてくる。
研究室の扉を開けてすぐ左手には、本棚に囲まれた小さな応接スペースがあって、そこには、ちょと低めのテーブルが置いてある。そして2つのソファーが向かい合わせで配置されている。
この研究室をわざわざ訪ねてくるような、もの好きはそれほど多くない。応接スペースと言っても、このソファーは僕たちがタスクの合間にいつもの紅茶を飲む、いわば休憩スペースのようなもの。
望さんは、テーブルにティーポッドとその隣に砂時計を置き、ソファに腰かけた。
くびれたガラス管の中を青い砂がサラサラと落ちていく。
「もう少しでできるからね。少し落ち着いたかな?」
この研究室は僕たち二人しか所属していないからいつも静かだ。いや正確には事務員の佐竹さんがいるから、ここの配属は3名なんだけど、もうとっくに6時を回って、佐竹さんは帰ってしまったようだ。
砂時計の砂が全て落ちてから、ほんの少しだけ待つ。3分よりやや長め。でも長くしすぎると紅茶は苦みが増してしまうそうだ。頃合いを見て、望さんはティーポットの軽く揺らす。リーフに注ぎ込まれたお湯の対流が促進され、葉の成分が良く抽出されるのだと言う。
「ラプラスのデモンか……」
望さんはそう言ってティーカップにカモミールティーを注ぐ。
「望さん、ラプラスってあの数学者のラプラスのことですよね」
出来上がった紅茶は最後の一滴が肝要なんだそうな。それはゴールデン・ドロップと呼ばれるらしい。
「うん、たぶん。ピエール シモン ラプラス。フランスの数学者だよね。私よりも城崎君の方が詳しんじゃない?統計学や確率論は苦手だったからなぁ。その男の人は確かにそう言ったんだよね?」
ティーカップの横には、門脇先生がくれたチョコレートが置かれている。いつもくれるチョコレートのはず。でも僕にとってその味は、いつもと同じかもしれないし、そうでないかもしれない。
「確かにそう言いました。あ、紅茶、頂きます」
僕はティーカップの取っ手を持ち、入れたての紅茶を飲む。カモミールの空気がふわっと体を包んでいく。これはいつもと変わらない同じ味。不思議なんだ。
「ラプラスの悪魔、たぶんそうだと思う」
望さんは紅茶にミルクを少しだけ入れながらそう言った。ティーカップとステンレス製のスプーンが微かにぶつかり合う音がする。
「悪魔……ですか」
「うん、悪魔。ラプラスの悪魔は全てを知っているの。物理学の授業を覚えている?ニュートン力学によれば、ある物体の今現在の位置、それから外力とが正確に分かれば、その物体の運動が全て決定することになる。そうね。例えば、風にまう桜の花びらの位置が特定できたとして、重力加速度、空気抵抗、風向き、風力あらゆる物理量が計測できるのだとしたら、10秒後の桜の花びらがどの位置にいるか、正確に計算することができるということになるよね。もしこの世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在するとしたら、どうなると思う?」
この世界の自然法則により、今現在の手持ちのデータで未来が規定されるのだとしたら未来だけでなく過去も規定できるはず。
「その知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も過去同様に全て見えている……と言うことですか」
ある物体が10秒後どの座標に存在するのかが物理法則により正確に算出できるのであれば、10秒前の座標も同様に措定可能だと言える。つまり時間軸は対称性を持っていることに他ならない。
「そう、その知性がラプラスの悪魔」
未来は現在の状態によって既に決まっている。未来も過去も全て知っている知性体、あるいは観測者。それはかつて神と呼ばれたものかもしれない。
自然法則があらゆる実在のあり方を規定していくという考え方は、決定論的世界観を濃厚に描き出す。手持ちのデータで未来も過去も措定できるという事は、この宇宙の歴史全体を決定できることになり、運命は地球が存在する以前に決定されていることになる。世界誕生の瞬間にすべてが規定されるのだとしたら僕らに「自由」はないのかもしれない。
「でも量子力学においては運動量と座標は同時に決定できない、つまり不確定性が付きまとうわけで、観測者としてのラプラスの悪魔は存在できないように思うのですが」
「そうね。世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができないということが量子力学によって明らかにされた今、ラプラスの悪魔は存在しえない。でも決定論が否定されたわけではないかもしれないわね」
今悩んでいることも、将来において悩むことも、過去の悩んだ記憶でさえ、僕たちが生まれる前からあらかじめ決定されているのだとしたら、そこにあるのは運命という名の決定論的世界。
「それにしてもお父さん、いつもこれだよね」
望さんはチョコレートを少しだけかじると、ソファーから立ち上がった。研究室の窓を開けると少しひんやりした風が入ってくる。
この窓からは、ゆりかもめの特殊街路が見える。まるで模型のように走行音が極度に抑えられたその列車は、臨海副都心の夜景に近未来的なアクセントを加える。
「でも私たちの研究って、ある意味ではラプラスの悪魔を作ろうとしている、そうじゃない?」
この世界に存在するあらゆる情報、いや無機質な記号と言うべきか。そうした記号から自身の目的に即した意味を構成し、自律的に思考、そして行動につなげることができる
少子高齢化が進む日本では、生産年齢人口の減少と、超高齢者の増加に伴い、医療、福祉、介護分野での人材不足が深刻な問題となっている。数年前、東京都では試験的にヒューマノイド、つまり人型アンドロイドを介護、福祉分野で導入していくプロジェクトを立ち上げた。
とは言え、現在のアンドロイドは特殊整形技術により外見は人そっくりではあるものの、感情的反応に関しては未だ十分な代物とは言えない。機械から人間への類似度は直線的に増加するわけではないのだ。人間への類似性が近づくにつれて、アンドロイドに対してある種の嫌悪感を抱くポイントがある。これが「不気味の谷」と呼ばれる現象だ。人間に近いロボットは、人間にとってひどく奇妙に感じられ、親近感を持てないことがある。こうした不気味の谷を乗り越える研究プロジェクトの中核を担っているのがこの産業技術総合研究所だ。
僕たちの仕事は、アンドロイドにアヴィダシステムを搭載することで、自律した思考プロセス、いうなれば自分が駆動するに必要な意味と目的を機械に宿すシステム構築の実現を模索している。このシステムを搭載することで、アンドロイドの感情や思考は人間とほぼ変わらなくなるという計算上のデータが既に得られている。
「あらゆる情報からこの世界の真の在り様を認識できる主体を作り出す、そういうことなんですかね。僕たちの作っているものって」
「ええ、そう。きっとね。それはカントの言う
望さんは高校時代、哲学科志望だったらしい。たまにカントとかラカンとか、そんな哲学者の名前と、彼らの独特な世界観を比喩に使うのだけど、僕にはいまいち理解できなかったりする。
「カント……ですか」
「ああ、もうこんな時間。城崎君はきっと疲れているんだよ。少し休んだほうがいい」
「そうですね。ちょっと疲れているのかもしれません」
「来週は学会があるから、体調整えて。君が筆頭演者だからね」
僕たちの研究はもう実用化の段階まで来ている。来週の学会発表で注目を集めることができれば、システムの本格的な実用化に向けて動き出せるかもしれない。
僕たちはティーカップを片付けた後、パソコンをシャットダウンして研究室を出た。
望さんは産業技術総合研究所から徒歩5分のマンションに住んでいる。
そして僕は豊洲。
「でも今日の出来事は次の診察の時、お父さんにちゃんと伝えた方がいい」
駅の入り口で、別れ際に望さんが言った。
僕は軽く会釈をして駅の改札に向かうエスカレーターに乗った。
世界の誕生から常にすでに規定されている単線的な時間軸。そこに自由がないということを、どこかで感じながらも、自由に生きなければならないこと要請されることが生きにくさの本質。僕はそう思ったりする。でも世界は本当に単線的なんだろうか。
――基準世界へようこそ
あの男の言葉がどうしても頭から離れない。
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