ラプラスのデモン

「データの整理、やっておくかな」


門脇先生から預かった青い手提げ袋を片手に、僕は職場に戻るため、新橋駅へと向かった。 


産業技術総合研究所。僕はこの施設で人工知能に関する研究をしている。

この研究所にはいくつものタスクフォースがあって、かなり大きな施設なのだけど、僕が所属しているのは脳情報工学研究室という、所内でも奥まったところにある小さな研究室。部屋にはパソコンとプリンターがあるくらいで、研究室といっても最新の実験装置のようなものがあるわけではない。


博士課程を終了後、どこかの企業に就職しようかとも考えた。国立大学の工学研究科博士後期課程修了という学歴は、決して就職に不利なものではなかったけれど、自分の病気のこともあって、やっぱり会社員として仕事をしていく自信はなかった。


『来月から、うちの研究室に来たら?ちょうど人手が足りなくて。城崎くん、専門は情報工学なんでしょ?』


望さんから連絡をもらったのは、ちょうど就職先を悩んでいたころだった。

門脇望かどわきのぞみ。そう、門脇先生の娘である彼女は、脳情報工学研究室の主任研究員であり、立場上は僕の上司にあたる。そして僕の大学時代の先輩であり、また唯一友人と呼べる人。


とりわけ人工知能の研究がしたいわけではなかった。ただ、無機質な情報に対して、それに意味を付与する解釈者としての電子頭脳、そういった話はとても興味深かった。ソフトウエア開発は専門だったし、特に情報の解釈プロセスというのは学位論文のメインテーマでもあった。だから少しでも望さんの役に立つことができたらいい。そう思ったんだ。


学生時代、僕は工学部だったけど、望さんは医学部だった。彼女は医師免許取得後、初期研修を受け、その後に渡米した。彼女はカルフォルニア大学バークレー校で脳神経科学を専攻し、帰国後は父と同じ臨床医の道へは進まず、研究者として産業技術総合研究所に所属している。


望さんの生きているスピートに僕はいつでも追いつけない。彼女はいつも僕の前を歩いている。でも、いつでも僕の前に存在しているからなんだろうか、誰かの振る舞いが、その声が、その視線が、共有しているはずの過去の記憶が、昨日と少しだけずれてしまうあの感覚を、彼女に対して感じたことはこれまで一度もなかった。彼女とは記憶を共有できる。これはとても不思議なことだったし、彼女と一緒にいることで、自分が自分でいられる、そんな気がした。


僕は、誰かと過ごした過去の時間を、もう一度一緒に歩くことができない。同じ景色を、同じ場所を、僕は誰かと共有することができない。ただ一人、望さんを除いて。

――誰かの存在、ただそれだけで人は生きていける。


『きっと城崎くんは私に恋をしているからだよ』


いつだったか、彼女は冗談でそんなことを言っていたけど、僕にとって彼女が特別な存在だということは間違いない。それが恋どうかはまた別の問題なのだけど。


「少し寒いな……」

新橋駅のホームに出ると、外は日が暮れていた。

まだ寒さの残る4月。桜は来週あたり満開だろうか。


東京臨海新交通臨海線は、その名の通り東京臨海副都心を走る新交通システム。通称ゆりかもめ。その特殊街路は全長15キロメートルで、新橋から台場を経由して豊洲まで16の駅を結ぶ。


この列車が無人運転をしていることを僕は最近知った。列車の運転を自動化する運転保安システムにより管理されているのだという。


僕は列車に乗り込むと、座席に座り、車窓から東京の夜景を眺めた。

レインボーブリッジの向こう側に見える東京タワーが夜空に赤く浮かび上がっている。臨海副都心の高架を走るこの列車の車窓は、東京の夜景を魅力的に映し出してくれる。


産業技術総合研究所は、新橋から豊洲のちょうど中間点あたり、テレコムセンター駅の目の前にある。僕は列車を降りると自動改札を抜け、駅の出口につながる長いエスカレータ-に乗った。


この瞬間、僕はまた、あの感覚に襲われたんだ。

――来る。

世界がすれ違う瞬間が……


一瞬にして目の前の景色が明るくなる。その照度に耐えきれなくなり瞼を閉じると、音がゆっくり消えていく。沢山の人が行き交っているはずなのに、彼ら彼女らの足音すら聞こえない。自分の呼吸が心拍数とともに、どんどん早くなっていくのが分かる。冷や汗が出そうな感覚と、腹の底からわきあがる不安感に思わず目を開けると、世界の在り様がさっきと微妙に違うんだ。


「おかしい。いつもと違う。いつもより色がない」

微妙に違う世界の微妙さが、定量的にコトバで言い表せるのなら、この日は明らかに微妙ではなくだった。そう明確に違う世界。それでも何がどう違うのかコトバにできない。だからそれは本来的な明確性を有してはいないのだけど。


僕はエスカレーターの手すりに寄りかかるようにして、呼吸を落ち着かせようとした。周囲にいる沢山の人たちは、まるで僕が存在しないかのように誰も気にも留めない。

――世界からまた見捨てられていく。


足元のステップが駅の出口に近づいていることに気づいた僕は、ふらつく足取りで駅の外にでると、膝に手をつき、地面をにらみながら、粗い呼吸を整えた。


――誰?

その時、僕は確かな視線を感じて、顔をあげた。

目の前に男性が立っている。駅前を行き交う人たちが、僕に全く気を留めていないにもかかわらず、その男はまっすぐ僕を見ている。ややうつむき加減で、少しだけ上目で、そして口元が緩んでいる。

――笑っている?

彼はゆっくり僕に近づいてくる。表情を変えず、相変わらず不敵な笑みを浮かべながら。ぶつかりそうなくらい僕に接近すると、彼は僕のすぐ横を抜けていった。

彼は僕とすれ違いざまに小さな声で、でも確かにこういった。


「ようこそ、基準世界Standardized Worldへ」


――基準世界?

「だ、誰……」

後ろを振り向き、ようやく出せた声で僕は問いかけた。

彼の足が止まり、そして彼が振り返る。


「ラプラスのデモン。君の認識はまだこの世界に耐えられないようだ。エキヴォケーションが増えていく」


そういって彼は前を向いて歩きだした。


「おい……待ってくれ」

僕の声が聞こえているのか、それとも無視しているのか、彼が止まることはなかった。そして僕は再度あの感覚に襲われ目を閉じた。立て続けにこの感覚に襲われたのは多分、この時が初めてだったように思う。


――落ち着け、おかしいのは病気のせいだ。そう、脳内の神経伝達物質が、僕の意志とは無関係に受容体に結合し始めている。ただそれだけだ。人の認識というものが実体としてあるわけではないけど、それは幻想でもない。生物学的システム全体が生み出す仕方、つまり組織化のされ方なんだ。個別に見れば、それは化学物質とその反応に過ぎない、そうだろう?


目を開けると、あの男の姿は完全に消えていた。

僕たちの目の前に広がる世界は、決して自由な仕方で存在しない。それでも生きるしかないのが人だろう。

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