-Nozomino world-

診察室とチョコレート

「先生、左利きでしたっけ?」


最近ではどんなに小規模な医療機関であっても電子カルテが当たり前の時代なのに、この診療所ではいまだに紙の診療録が使われている。


「ああ、左利きだよ」


はじめてここを受診した時、僕は大学生だったから、もう10年近くたつのだろうか。僕をずっと診察してきた心療内科医の門脇先生は、ボールペンを左手に握り、診療録に僕の症状を書いている。門脇先生は患者が話した言葉を全て文字で記録するんだと言っていた。だから診察時間はいつも長くなる。

門脇先生は診療録を書き終ると、それをしばらく眺めていた。


城崎しろさき君、大体のことは分かったつもりだ。で、最近は例の症状が頻繁に起きていると言うことになるのかな。今の左利き、右利きの話もそうなのかい?」


時は流れるという。過ぎ去っていく過去はまるで尾を引くようにして、今現在に少しだけ、その痕跡を残している。

――そうでないと僕たちは音楽を楽しむことはできない。

以前、門脇先生はそんなふうに説明してくれたことがあった。確かにそうだな、と思う。音と音の間をつなぐ何かがないと、音楽は音声記号の羅列になってしまうからだ。


「大丈夫です。いつものことですから」


しかし、僕には「時は流れる」というメタファーが理解できない。僕にとって、過去というものは自分の関心が切り出した過ぎ去った時間、その断片が何層にも積み重なったもの、そうとしか思えないんだ。


「私は今も、昔も左利きだよ。なんなら……写真があったかな」


門脇先生は自分の机の引き出しを開けようとした。


「先生、いいんです。写真を見たところで、結局何も変わりませんから。僕の記憶によれば先生は右利きだったように思います。ただそれだけで、それ以上でも、それ以下でもないんです」


世界がすれ違っていくと言う感覚。世界が昨日とほんの少しだけ違って見える。この症状に僕が気付いたのは高校時代だった。はじめはただの記憶違い、つまり勘違いだと思っていた。でも大学に入学した頃から症状はひどくなって、風景や物だけでなく、人の振る舞いですら毎日違った存在に感じられるようになってしまった。誰かと記憶を共有できないということ。自分が何者なのかわからなくなるということ、これほど恐ろしいことはなかった。


毎日が苦しくなって、生きていくことの辛さに耐えきれなくなったとき、僕はこの診療所を受診した。


――統合失調症かな。

門脇先生は僕にそういった。別に幻聴や幻視が感じられるわけではなかった。いや、世界が少しだけ違って見えると言うのはやはり幻視に属するのだろうか。


今僕が見ている世界と、過去に撮影した写真や動画を比較すれば、あるいは誰かにこの異常さが分かってもらえるかもしれない。当然ながら僕はそう考えた。でも確かに記録したはずの写真や動画も、あらためてみると撮影した時とは違って見えた。だからきっと僕の頭がおかしいのだろうとずっと思ってきたし、この異常な世界の見え方を、僕は”自分がおかしいせいだ”という仕方で説明するよりほかなかった。


「門脇先生、一つ聞いてもいいですか?」

「なんだい?珍しいじゃないか。君から質問するなんて」


門脇先生は、ゆっくり僕の方に顔を向け、メガネを外した。


「僕以外にも、こういった症状を持っている人はいるんでしょうか」

「さあ。精神疾患というものはね、なにか一つの症状が多くの人に共通して現れると言うよりは、様々な症状が、人によっていろいろな仕方で現れてくる、ということなんだよ。だからうつ病とか、統合失調症なんて言ったって、みんながみんな同じ症状を抱えているわけではないんだ」


先生の答えはあらかじめ予想できた。そもそも精神疾患ってやつは、主観的感情に食い込んでくる得体のしれない異常さだ。客観的に疾患そのものを定義するなんてこと自体が難しい。頭では分かっている。自分がおかしいのだと言うこと。それが故に、湧き上がる焦燥感にどう向き合えばよいのか分からない。毎日がたまらなく苦しい。


「君が感じている症状を、他の誰かも感じているかもしれないし、あるいはそうではないかもしれない。こればっかりは誰にもわからんのだよ。他人の気持ちをだれも理解することなんてできないようにね」


こんな僕だから人付き合いはとても苦手だ。他人とわずかににずれてしまった記憶は、ともに時間を過ごすことに対する困難さを露呈する。誰かとの距離感をうまくつかめない。だから友人と呼べる人はほとんどいない。


「あるいは離人症。そう、離人症という現象がある。ただ、城崎君の場合は違うと思うがね。

「離人症……ですか」

「離人症を患う多くの人は、今の自分がかつての自分とは違って、まったく異質な状態になってしまったと感じられるらしい。まるで夢の中のようで、夢か現実かわからない感じがするなんて言う人もいる。過去と現在が重なっていて、世界に奥行きを感じることができない。そんな症状を感じている人たちがいることは事実だ。でも君の場合はおそらく違う」


ここ最近、世界がすれ違っていくその瞬間を垣間見る頻度が週に何回もあった。世界から見放されている自分は、いったい何者なんだろうか。なんとなく精神的に追い詰められていくのがわかる。


「前回と同じ薬を出しておきますから、また来月に」

「ありがとうございました」


薬を飲んだところで何かが変わるわけじゃない。そう医療が誰かを救うわけじゃないんだ。でも、たぶん門脇先生がいなかったら、僕はとうに壊れてしまっていただろう。


「あ、城崎君、これから職場に戻るのかい?これ、のぞみに渡しておいてくれないだろうか」


診察室を出ようとした僕を呼び止め、門脇先生は、青い紙製の小さな手提げ袋を差し出した。中身は分かっている。いつものチョコレートだ。


「二人で食べるといい」


腕時計を確認すると午後6時を回っていた。

僕は職場に戻る気はなかったのだけど、家に帰っても特にやることはない。仕事以外に趣味と呼べるような趣味もなかった。


「ありがとうございます。先生、また来月に」


記憶のかけらが現在の一部を構成しているのだとしたら、少なくとも世界の感じ方に影響を与えるのだとしたら、僕にとっての過去という実態は、他人のそれとは少しだけ違うのだろう。他者と記憶が共有できないとはそういうことなのではないか……


――城崎君はたまに透明になってしまうようで……君は今どこにいるの?

望さんは、以前、僕にそんなことを言ったことがある。

誰かと記憶がわずかにずれてしまうという違和感を覚える中で、彼女の存在は僕にとって特別だった。




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