エキヴォケーション

星崎ゆうき

-Prologue-

プロローグ

僕は日々違う世界を生きているように感じることがある。

昨日と同じ景色のはずなのに、僕が感じる風景はいつもと少しだけ違っている。

どこが違うのかと問われると、うまく答えられないのだけど……

でも、確かに風景の色合いや、街並み、そして人の流れも、友人の声やしぐさも、昨日とほんのわずかに違うんだ。


最初は、僕の記憶や認識が曖昧だからだと思っていた。

でも確かに何かがちがう。

ただ、君だけはいつもと全く同じ君だった。少なくとも僕にはそう感じられたんだ。そしてこれからもそんな君がずっと近くにいるのだと僕は思っていた。


――君は世界がすれ違うその瞬間を見たことがあるかい?


この世界は情報で満ち溢れている。言語記号だけでない。空が灰色に曇ること、それはやがて雨が降ることを示唆する情報でもある。あるいは、砂浜に打ち寄せる波は、月が重力を持っていることを示す情報だと言えるかもしれない。


そうした情報を認識し、意味に変換することを僕たちは当たり前のようにやってのけるけど、認識されたこの世界の意味が「ほんとう」だという確信をなぜ持てるのだろうか。


「この世界は程度の差はあれ、幻想に包まれているんだよ」

いつだったか君が教えてくれた。

あの時、幻想という言葉を聞いて、僕は学生時代を思い出した。


僕は大学を卒業後、特に就職する当てもなく、そのまま大学院へ進学し、情報工学を専攻した。どの授業もそれほど面白いものではなかったけれど、修士課程に在籍していた時に聴講した講義はとても印象的だった。


それは「情報理論特論」というある種の哲学的な専門科目だった。初日の講義は今でも僕の記憶に鮮やかさを残している。


『君が通信路を介して何らかの信号を受け取ったとったとしよう。その時、送信側では、本当はどんな情報が送られていたのだろうか。そう考えてみるといい』


春の暖かさに包まれた教室と、桜の花びらを乗せた風の匂い。この時期はいつだって眠気に襲われる。ただ、この時の話に僕は引き込まれた。その理由は今もよくわからないのだけど。


『つまり途中で失われた情報量、あるいは”あいまい度”のことをエキヴォケーションと呼びます』


ドレツキという哲学者は、情報の意味を保つエキヴォケーションという量を定義し、ただの情報の流れという無機質な世界に、有機的な意味を付与する手段を与えた。


『良いですか、みなさん情報というものを“知的生命体による解釈の努力に依存し、したがって、知的生命体の存在に依存するもの”とみなすことは、常識的な考え方のように思いますけど、それは違うと僕は思うんです』


情報は解釈者とは独立して存在する。

古びた階段教室の教壇で、あの教授はそういった。

――誰だったっけ。名前を思い出せない。


僕はあの時の授業を担当していた教授の名前も思い出せないのだけど、この時の話を今でも割と鮮明に思い出せる。

情報源から得ることのできる世界の意味は、人の個別の関心に依存していることを示唆しているということ。僕たちの目の前に広がる世界というのは、つまるところ人の関心が編み上げた一つの幻想にすぎないのだということ。


「この世界が本当の世界だなんて、それは幻想に過ぎない」

君はそうも言っていた。


世界に意味があるのだとしたら、今、僕たちの目の前に存在している世界から発せられる意味が、真の世界の見え方だといったい誰が証明できるのかって……

真の世界の存在が、僕自身の確信に存するものだというのならば、そのことを客観的に証明することなどできないのかもしれない。


「君の存在はいつも少しだけ遠いよ。僕にとってはね」

「――そうかもしれない。でもそれはこの世界の在り様だから仕方ないの」


僕と君のあいだに広がる距離を少しでも縮めようと、必死に歩くのだけど、君はいつも少しだけ先へ行ってしまう。


君の生きているスピードに僕は追いつけなかった。

世界はいつだって君を連れて僕の目の前を通り過ぎていく。

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