まるいサンドイッチ

鳥山留加

まるいサンドイッチ

 姉ちゃん、会いに行っていいかな。

 七つ年下の弟は、受話器の向こうでそう言った。

 弟が会いに来るので、電車で四十分の都心まで出向いて、新しい服を買った。それから新しい化粧品も。ついでに雑誌に載っていた有名サロンで髪を切ってきた。それから久しぶりにエステに立ち寄って身体を磨いてきた。何もそこまでする必要はないと人は言うかもしれないが、これは姉の威厳に関わることなのである。手抜きは許されない。断じて許されない。

 私をそこまで突き動かす理由はいったい何なのかと問われれば、答えはひとつ。弟に対抗するためだ。

 弟とは何者か。弟とは敵である。敵は生まれながらにして強烈な存在感と魅力を持っている。一方私は、敵の存在感と魅力の百分の一にも満たない自分のそれを増やすことに人生の大半を費やしてきた人間である。

 弟は両親からとても愛された。父が兼ねてから男児を欲しがっていたこともあるが、弟が愛されたのは他でもない、弟から発散される大量の魅力のおかげに違いなかった。

 愛されたからといって甘やかされた訳ではない。両親は丁寧に弟を育てた。叱ることを忘れなかった。叱った後に抱きしめることを忘れなかった。弟は生まれつきの魅力の上に、性格の良さを身につけた。

 弟が魅力的だからといって、両親が私を放ったらかしにするようなことはなかった。両親は私のこともちゃんと育ててくれた。そして今も、きっとあの田舎町で、都会に暮らすこの娘のことを気にかけているのだろう。けれど私は知っている。両親の心のレンズはいつでも、弟の華やかな笑顔にピントを合わせているということを。弟のすぐ隣に存在している私に、ピントが合ったことはないのだ。



 春の光が、郊外の静かな町を覆っていた。色の薄い雲が、アパートとアパートの間にわだかまっている。

 とにかくどこでもいいから県外の、それも遠方の大学に行きたいと思ってこの町に来た。都心からほど近いこの町に住み、十八の時から四年間、さして有名でもない大学に通った。毎日の学生寮と大学の行き来の中で、卒業後の輝かしい自分の幻想に酔いしれた。

 卒業後、寮を出て同じ町内の小さなアパートに引っ越した。実家に戻る気は毛頭なかった。そしてそこから、駅近くの大型デパートでパートタイマーとして働き始めた。さして輝くこともなく。段ボールをうずたかく積んだカートを押しながら、私は幾度となく弟のことを想った。あいつはきっとやって来る。あいつはもうすぐ何かやる。あの弟はきっと何かしでかすに違いない。家族のみならず日本中の(あるいは世界中の)人間があいつを、褒めたたえるような、そんなことを、成し遂げるに違いないのだ。私は恐怖した。私は敵の襲来を待ち構えた。



「姉ちゃん、姉ちゃん」

 気がつくと、弟が私の両肩を揺さぶっていた。私がはっとして目の前の弟を見つめると、弟はばさばさと数回瞬きをした。

「どうしたん、姉ちゃん。物凄いぼーっとしとったよ?」

 弟に問いかけられて、私は素早く姿勢を正した。

「このところ忙しくってね。会社の付き合いとか、友だち付き合いとか、恋人付き合いとか、結構大変なのよね」

「姉ちゃんの恋人さん元気? 前言ってた人と同じ人?」

 弟は前屈みになって、からかうように私に顔を寄せた。「前言ってた人」も何も、一夜以上付き合ったことのある男など、一人もいない。

「さあ。『前言ってた人』がどの人かもわからないしね」

「姉ちゃんはよかよねえ。自由な感じがしてさ。久しぶりの再会だっていうのにこっちのこと何にも訊かないしね」

 弟は言って、大きな口の端を持ち上げ、に、と笑った。私は少しくらりとして、思わず右足が一歩後ろに下がった。新しく買った靴の踵がカカッと地面に打ちつけられる音がして、身体が傾いた。私の二の腕を弟が素早く掴んだ。

「姉ちゃん危なかよ。ホントに疲れてんじゃない?」

「この靴のせいよ。この靴の」

 私は乱暴な言い方で答えると、目先の横断歩道を渡って薄暗い照明の喫茶店へ足を踏み入れた。頭上の細い電線が、乾いた風に小さく揺れた。



 店内にはサラリーマンらしき中年の男が一人居るだけだった。テーブルの上に開いたままの折りたたみ式携帯電話と、あらかた飲み終わってしまっている紅茶のカップが置いてあった。男は頬杖をつき、眠りの世界に居る。私たちは、黒いワンピースを来たウエイトレスに出迎えられて、店の隅の席に腰掛けた。注文を済ませると、弟はしばらく口をつぐみ、壁に掛けられた写真をじっくりと鑑賞した。写真には茶葉を運ぶインド人らしき茶摘み婦の姿があった。私は弟が写真を見ている間、冷たいおしぼりで掌を丹念に拭いた。

「その服、素敵だね。姉ちゃんに似合っとるよ」

「え? あ、まあね」

 私は何気なく答えた。

「あ、なんか感じ変わったと思ったら髪が変わったんだ? その色いいなあ。俺もそういう色にしよっかな」

「あんたには黒が似合ってるよ」

「そうかなあ」

「そうよ」

 弟は痩せた両手をテーブルの上で組み、それを眺めている。一見すると女のような手だった。指は長く繊細な輪郭を描いていた。爪は細長く、濡れたように光っていた。関節の力強い感じだけが、手の持ち主が男であることを知らせている。弟の、いや敵の魅力はこんなところにある。言葉では言い表せない、魅力。それを見ると何だか清々しく、温かく、そして嬉しくなってしまうささやかな魅力の塊。それが敵の魅力、いや武器、なのだ。

「あんた、よく上京出来たね。お金大丈夫だったの?」

「うん、大丈夫。バイトの金貯まったから。それから父さんにちょっと援助してもらって。一度くらいはこっち、来てみたかったし。駅、人かなり多かったけん、驚いたよ。ここら辺はちょっとは静かけど、でもやっぱり人とか車とか多いね」

 弟は瞼に掛かった艶やかな前髪を右手の薬指で払いのけた。

「姉ちゃん、ずっとこっちに一人暮らしすると?」

「さあ。今のところ戻る気はないわね。あんたはどうするの? 将来」

 訊いてから私は後悔した。こんなこと訊くのではなかった。もしも壮大な夢など語られでもしたら、私は恐怖に震え上がるに違いないのだ。しかし私の心配は杞憂に終わった。

「うん、もうそろそろ進路決めなきゃいけんよね。大学には行くつもり。でもまだ迷ってる。どの大学選んでも大丈夫なように一応勉強は頑張っとる」

「そう。あんた成績いいから大丈夫じゃない? 私だって大学受かったんだからあんたなら大丈夫よ」

「だといいけど」

 呟いて、弟は微かに苦笑した。

 沈黙が私たちの間に降りた。先ほどのウエイトレスが注文の品を持ってやってきた。私の頼んだ紅茶だった。弟のサンドイッチはまだ少し時間が掛かりそうだった。ティーカップを口元に運びながら、私は弟の肩越しに見える中年のサラリーマンをちらと見た。いつの間にか男は眠りから覚めていた。男は数秒間空中のどこかに視線をさまよわせたのち、背広の内ポケットからくたびれた定期入れを取り出した。取り出して、彼は熱心にその定期を見つめた。無表情で、じっと見つめている。定期入れに挟んだ写真を見ているのだろうか。男にとって大切な誰かの笑顔が、そこにあるのだろうか。

「樹里亜ちゃん元気? まだ付き合ってるんでしょう?」

 私はティーカップを受け皿に戻しながら弟に尋ねた。紅茶のほろ苦さが、口の中に広がっている。

「ああ、元気。相変わらずよく喋るし、めちゃくちゃ明るい奴だよ。あいつも看護学校に行くって勉強頑張ってるらしい」

「そうなの。あの娘ほんとに可愛いわよね。あんたとお似合いよ。でも向こうはあんまり私のこと好きじゃないみたいだったけど」

 私は昨年、母親からたまには帰ってきてくれとせがまれて渋々里帰りした夏に逢った少女の顔を思い返した。少女は弟の恋人で、樹里亜というまるで西洋人のような名前をしており、目は小さな顔から溢れ出さんばかりに大きく、鼻は小さな植物のつぼみに似て小さく、やや厚い唇には鮮やかなラメが光っていた。ラメの光る唇は忙しなく動いた。

 母親は樹里亜を大変気に入っているようすで、何度も楽しそうに樹里亜の名前を呼んだ。そして樹里亜も母親に懐いていた。私は二人の明るい会話から取り残され、ひとり頭の中で舌打ちをした。敵の恋人までもが私の存在を打ち消そうとしている。なんたることだ。許せない。

 母がお茶をいれに台所へ入ったとき、樹里亜は黙って文庫本を読み始めた私に話しかけた。

「お姉さん、一人暮らししてるとですよね。かっこいいなあ。一人で働いて一人で暮らしてる人ってかっこいいって樹里亜思うとですよ。樹里亜も高校出たら看護学校に進学して一人暮らししたいと思ってるんです」

「あ、へえ、そうなの」

「樹里亜そんなに勉強出来る方じゃないから、小さい頃から良く『樹里亜は明るいのだけが取り柄だよね』って言われてて。だったら病気の人とかを自分の明るさで元気にするってのもいいなあ、とか思って。まあくんも大学進学するつもりみたいだけど、どこの大学目指しとるとやろ? まあくんは樹里亜と違って頭いいからなあ。まあくんって何でも出来ますよね。羨ましい。樹里亜よく落ち込むんですよ、それで。高校卒業しても、樹里亜出来ればまあくんと離れたくはないとけど、でもまあくんが行きたい大学を変えさせるわけにはいかんし、どうしようかなって思ったりしてて」

「へえ、そうなの」

「はい」

「弟に訊いてみたらどう?」

「そうですね」

 樹里亜は答えて、私を横目で見た。文庫本に視線を落としたままだったが、私にはそれがわかった。敵の軽蔑の眼差し。私は百五十一ページを乱暴に捲った。じきに母親が戻ってきて、ラメの唇はまた忙しなく動き始めた。



「嫌いってことはなかと思うけど。姉ちゃんはあんまり喋る方じゃなかけん、樹里亜についていけんやったんじゃない?」

「別についていけなかったわけじゃないけど」私は答えた。

「じゃあ、姉ちゃんが大人だからじゃなかと?」

「そりゃあ大人だとは思うけど。貴方たちに比べたら」

「いや、そういう意味じゃなくて。樹里亜がたとえ今の姉ちゃんと同じ歳になったとしても姉ちゃんより大人にはなってないと思うんよ。そういうこと」

 そういうこと。と言って弟は締めくくった。

 何を当たり前のことを言っているのだ。私は思った。私の敵であるあんたも、そしてあんたの恋人も、どんなに頑張っても私のこの努力を体験することはない。それはこの努力がおあんたたちにとって必要のないものだからだ。この努力に人生の大半を費やしている私は、ある種の落ち着きを身につけることが出来たのだ。それは端から見ると大人の落ち着きと言える雰囲気に見える時があるのだろう。しかしそれは大人の落ち着きなんていう生温い、陳腐なものとは違う。

 弟はまたしばらく沈黙した。

 ドビュッシーのピアノ曲がゆったりと、甘い響きを湛えて流れている。私は足を組み替えて、ティーポットからカップに新しい一杯を継ぎ足した。私は再び中年のサラリーマンを見た。男はまだ定期入れを眺めている。定期入れを持っていない方の手で頬杖をつき、じっくりと眺める。男は足を組んでいた。右脚の上に重なった左脚のズボンの裾から、男のむき出しの素足が僅かに見えていた。靴下とズボンの間の男の脚は、大層白かった。

 私は男から視線を弟に戻した。弟は瞼をほとんど閉じたまま、テーブルの上に無造作に手を置いている。まだ少年の面影を残す肩が、微かに上下している。

 誰もが弟に惹かれた。しかしその惹かれ方は、あけっぴろげなものではなく、密かで、しかし濃密な惹かれ方だった。私に招かれて家に訪れた友人たちは、必ず弟に熱い視線を送った。皆が弟の居ないところで弟を賛美した。誰かが弟を賛美する気配は、確かに私のもとへ届き、それは弟が成長するにしたがって私を包囲するようになった。私の存在感を、私の魅力を、私の心を。

「姉ちゃん」

 弟が呟いて、私は我に返った。弟と同じようにテーブル上に置いていた手が、不意に飛び跳ねたようになって受け皿がカチャンと音を立てた。

「姉ちゃん」

 もう一度弟が呼びかける。

「なに?」

「樹里亜、子ども堕おろしたよ。俺の」

 弟は小さく微笑んだ。

「どうして」

「俺が育てるの難しいって言ったけん。それから樹里亜とは喋っとらん。あいつもう俺のこと嫌いなんだって」

 弟が言い終えた丁度そのとき、私たちを出迎えてくれたウエイトレスがサンドイッチの載った皿を持ってきた。シーフードサンドイッチになります、と言ってウエイトレスは弟の前に皿を置いた。ビーズの飾りのついた髪留めが、きらりと光った。

「わあ、サンドイッチのパンが丸い」

 弟は嬉しそうに言った。私の両手はテーブルの上に張り付いていた。

「姉ちゃん、都会のサンドイッチって丸いとかな。初めて見たよ」

 いや、それは違うだろう、敵よ。田舎にも探せば丸いものはあるだろう。おそらく。私は指を動かして何かの動作をしようと思った。けれど出来なかった。弟はサンドイッチにかぶりついた。うまい、と言いながら何度でもかじりついた。その内に弟の片目から涙が零れて皿の上に落ちた。涙は滑らかな皿の淵を滴り落ちて、テーブルクロスを小さく濡らした。私の両手はいつまでたってもテーブルに張り付いていた。



「これ、買っていこうかな」

 レジ下のガラスケースを覗き込みながら、中年の男が呟いていた。黒いワンピースのウエイトレスも、どうぞー。と言いながら一緒に覗き込む。

「どれが美味しい?」男は訊いた。「このシュークリームなどはいかがですか」ウエイトレスはにこやかに答える。「甘いのがいいんだな。娘に買ってくから」「それならこっちの苺のはどうですか?」

 男は苺クリームシューを四個買った。ウエイトレスからシューの入った箱を受け取るとき、男は慎重に両手で箱を受け取った。

 男が去り、私は自分の財布を開いた。弟は半分払うと言ったが、私は承知しなかった。敵に借りを作ってはいけない。私の鉄則なのだ。弟は短く礼を言って先に店を出た。

 私たちが店を出るなり、眼前の横断歩道の信号が点滅し始めた。弟はジーンズの脚で軽やかに駆け出すと、見る間に向こう側へ渡ってしまった。私も後に続こうとしたが、一歩踏み出して靴の踵が鳴ったとき、歩みを止めた。すぐさま信号は赤に変わる。引っ越し屋のトラックが、耳障りな音を立てて通り過ぎていった。

 私は歩道のへりに立ち尽くしたまま、しばらく新しい靴のつま先を見つめていた。引っ越しトラックの残した風が、真新しいスカーフの先をかすめていった。

「ねえちゃん!」

 敵が横断歩道の向こうから呼んでいる。宣戦布告か。戦闘態勢に入らねば。戦闘開始。

 戦闘開始。

 私は何度も心で唱えながら、いつまでも歩道の上に立ち尽くしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まるいサンドイッチ 鳥山留加 @toriyama_lukas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ