恋人

鳥山留加

恋人

 私は誘われた。誘ったのは父だった。

 父は一緒に死なないかと私を誘った。

 父は何時もへらへら笑っている人で、何時も何時も笑っている人で、それは苦しみの裏返しなどという確かな形を持った現象などではなく、どうしようもないむやみな明るさで、それこそが彼の暗闇だったのかもしれないけれども、幼い頃の私はそのような事を理解できる筈もなく、彼が遠い異国の戦争を伝えるニュース映像に笑い声を立てた時、私は炬燵の隅で蜜柑の皮を剥きながら、少し、泣いた。



『お前』

『あーちゃん』

 これは父が私と姉を呼ぶ時の言葉である。私は『お前』、姉は『あーちゃん』。

 怒った際、からかう際にほろりと出る『お前』ではなく、これは私の呼び名のスターティングメンバーで、たった一人のメンバーだった。父は死ぬまで、きっちりと私を『お前』とだけ呼び続けた。

『あーちゃん』は可愛い人で、抱きしめたくなるような可愛い人で、しかし私は姉に何時も不完全さを感じていた。姉がこの家にいる事は世界中の揺ぎ無い間違いの中の一つだと、常に、思っていた。

 姉は毎夜、眠りにつく前、隣に横たわっている私に向かって、「消えてしまえ」と絞った声で言った。

 私達は幸せだった。お金をあまり(かなりかもしれない)持っていないという幸運を持っていた。それはあのへらへらの、孤独をひた隠しにしているのか、それとも只の笑顔マシーンなのか、はっきりして欲しい、でもそのような事は本当はどうでもいいような気もする、なんとも解せないあの男のおかげだった。

 たとい父が私の名前を呼ばずとも、構わなかった。



「あーちゃんが死んで下さいましたよ」

 母はそう言いながら私と父がいる居間にやって来た。

 父と小学校三年の私は、大して暖かくも無い炬燵に入り、ごみ捨て場から失敬してきたオセロゲームで、父の“愛する人”の下の名前を私が答え、正解の場合は緑色のオセロ板に並べられたオセロの白い面を黒い面に裏返す、もし不正解だった場合は白い面は白いままにしておく、というゲームをしていた。

「みちこちゃん」

「かおるちゃん」

「えりちゃん」

「ゆうこちゃん」

 私は知っている名前全てを挙げていった。

「あーちゃんが、死んで下さいましたよ」

 母の言葉に、赤いドテラを着た父はにやけた顔で振り返った。振り返るために捻られた、男の割に滑らかで白い首、それに浮き上がる筋、私はこっそりと眺め見て、心が満たされるのを感じた。



 翌日も父は例のごとくへらへらで、非情で、貧乏だったから、私達は幸せなままだった。

 姉の葬式があげられる事はなかった。慰めの様に、その年初めての雪が積もり、私達は雪に負けてしまいそうな頼りない家の中で鈍鈍しい一日を過ごした。

 肺炎が虚弱だった姉の身体を熱く膨らませ、姉の内のあらゆるものを停止させてしまった。

 あの時父は、「あーちゃんが死んで下さいましたよ」という母の知らせを冗談だと受け取ったらしい。

 しかしまあ。いやはやなんとも。昨日のあの時のあいつときたら、毒のあるグッドな言いようだったじゃないか。少し泣いていたけどね、俺の見込んだ女だね。あいつはな、舌べろ使うのもうまいんだぞ。お前知ってるか。おれはあいつの舌べろが好きさ。舌だしてみ。「べー」って。「べー」って。



 姉がいなくなった日の翌朝、父と、壁に裸の女のポスターを貼った。

 こっち来てみ。

 父はそう言って片手に持った大きなポスターをひらひらと振りながら部屋の入口に佇立していた私を呼び、私が父にもとに歩いてきて立ち止まると、何が可笑しいのか両眼を細めてかろやかな笑声をあげた。

 嗚呼、私の父は世界一の素敵な馬鹿です。私はその瞬間、そう伝える人間が欲しかった。また母にも、そう伝える人間がいなければならないと思った。

 ポスターには、何処ぞの国の、布一つ纏っていない乳房の大変大きな女がいて、私にはその乳房が宇宙に浮かぶ地球の様に見えた。

 家の外ではぼた雪が降っており、無数の水滴がすがりつく窓硝子は、冷たい斑(むら)を作っている。

 父が右端を持ち、私が左端を持ってポスターを広げ、画鋲で寝室の壁に貼り付け終わると、父はもう少ししたら一緒に死なないかと誘った。「いやだ」。そう答えると、父は赤いドテラの袖に通した細骨で、私を抱きしめた。



 父は一週間後、家から歩いて十分程の、ところどころ積もった雪の溶け残りが在る、そして、世界一素敵な馬鹿が、一度も子供に買ってあげる事が出来なかったチョコレート菓子の紙屑や、一度も子供と共に揚げてやる事が出来なかった凧の残骸が、ちらちらと転がっている、なんの、そうなんの変哲もない土手で、自分の手首をナイフで切り、死んだ。

 父の死んだ日、私は母に連れられて家の近くの道をゆっくりと散歩した。母は途中、バス停の前の肉屋で野菜コロッケを買ってくれた。自分の分は買わず、娘の分だけ買って、私がバス停のベンチに腰掛け、コロッケを手で小さくちぎり、食べている間、私の事を穏やかに見つめていた。

 ひめちゃん、あしたから一寸せいかつが楽になるね、ふたりもしんじゃったからね。

 うん。

 そんな会話を交わした。父が一度も呼ばなかった私の名は、何時も母のしとやかな呼び声で輝かされていた。

 自動車が大きな音を立てて通り過ぎ、生温かい排気ガスを撒いていくのを見ながら、野菜コロッケを食べながら、母よりもみちこちゃんよりもかおるちゃんよりもえりちゃんよりもゆうこちゃんよりも、あーちゃんよりも、世の中の誰よりも、父を愛していると、思った。

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恋人 鳥山留加 @toriyama_lukas

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