センチ

鳥山留加

センチ

 成沢の隣には、永遠がある。

 永遠は一時間で終わる。たった一時間の永遠。一時間もの永遠。

 その一時間とは、私と成沢の席が隣同士になる美術の時間のことをいう。席は、窓側の前から四番目の二席だ。週に一度の美術の時間、私が休み時間のお喋りを止めて、そのささくれだった木の椅子に腰をおろしたとき、私は淡い永遠を手に入れた気になるのだった。成沢もそう感じているかどうかは、わからない。おそらく、感じていない。成沢と喋ったことは一度も、ない。

 成沢は沢山の定規を持っている。集めているのか捨てられないのかそこのところは定かではない。九十度・三十度・六十度の三角定規。九十度・四十五度・四十五度の三角定規。これだけでも十個は持っている。木製の三十センチ定規。青いプラスチックの定規。そして真っ黒で、目盛りが擦り切れて読めなくなっている極端に短い定規。半分、折れているのだ。成沢は何故かこのみすぼらしい定規を一番大切に扱っていた。

 休み時間になると成沢は画家になる。道具はいつでも芯がすりへっている緑の鉛筆と、定規だ。成沢は定規で絵を描く。ざらついた画用紙に、自分の心を押し付けるように強く強く真っ直ぐな世界を創っていく。成沢の心から伸び出てきた線たちは、そっとあてがわれた定規に誘われ、真っ白な地面を這う。その光景は、痛々しい叫びのようだった。

 私は、どんな音にも振り向かずに教室の片隅で絵を描きつづける成沢の背中を、瞳の真ん中には置かないようにしながら、いつも気にしていたのだ。



 ルールその一・人は明るくなければいけない。ルールそのニ・暗い奴は不快な奴だ。この誤ったルールは、確かに万人の根を捕らえそしてこれを「当たり前」にしようとしている。

 私は「そのルールに外れるまで、自分は残り何センチのところにきているのか」それを気にしながら今日という日を過ごす。



 雨が降っている。校舎中にむっとする目には見えないお湯の膜がたちこめているようだ。同じ服を着た騒がしい子供たちは、その膜の中でも騒がしい。

 騒ぎの成分は、教室の真ん中でひそひそ話をしているものたちや、窓の近くで誰かの頭をはたいているもの、黒板の前で笑いながら「ぶっ殺すぞ」と言い合っているものなど。

 そのすべては少しずつ残酷だ。青春は、残酷だ。そして「当たり前の残酷」は、今日もむくむくと広がってゆく。

 もうすこしで美術の時間が始まる。私はいつものように美術室の掃除道具箱の近くで、休めない休み時間を過ごしていた。

「成沢って見てるだけで嫌になる」

 Lが頬の上に歪んだ皺をつくり、苛立った口調で言った。

「自分の世界ちゃんと持ってますって感じでさ。暗いし。それにあの動き気持ち悪い」

 Yは美術室の自分の席に座っている成沢の足を見ながら吐き捨てた。

 成沢は休み時間に絵を描いている時、ぶるぶると脚を震わせるのだ。貧乏ゆすりとは違う。足の裏をぺたりと地面につけたまま、膝や太ももを不規則に左右に揺らす、まるで何かに怯えているような震え。しかしそれにひきくらべて成沢の目や眉や鼻は、このざわざわの中の何者にも溶け込まない綺麗な無表情をつくっている。彼は誰とも喋らない。誰も喋る相手として認めない。

「目が変じゃない? 虚ろっていうか。昔事故かなんかで頭打ってからそうなったって噂きいたよ」

「それって病気ってこと?」

 言いながら、二人の顔は「当たり前の残酷」に満たされている。私は彼女らの間で何食わぬ顔を装ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 荒れ狂う強い風の中に、少しばかりの雨が儚く揺れている。こんな時、私の心は急にこどものようになる。胸の当たりがもやりとゆるくなり、眠りにつきたくなる。そしてこの儚い雨以外のどんなものも、この目に映したくなくなるのだ。

「あんた最悪だね。美術のとき隣の席でしょ?」

 と、Lに話し掛けられ、私の心は元のようにまたきゅっと締まった。

「一年間ずっと席替えないなんてね。まあ美術の時間だけだからまだいいけど」

 と言って、Yが私のほうへ、その顔を向ける。

「ホント、最悪、空気が汚れる感じ」

 まったく間を入れずに、私は、言った。



 チャイムが鳴った。教師が僅かに疲れた面持ちで教室に入ってくる。皆が退屈そうに自分の席につき始める。私は二人に「じゃあね」と言って湿った床を踏みしめ、自分の席へと向かった。

 この学校の美術室は狭い。気持ちを集中せずに教室内を歩いていると、必ず画板やらコンテナやら絵画を乾かしておくラックやらに身体をぶつける。

 窓側の前から四番目。この私の席のすぐ後ろには、木製の大きな棚がある。そしてその一番下の段に、埃にまみれ、乾ききった絵たちが数枚、雑然と重なっている。絵たちには作者の名前が刻まれていない。忘れ去られている。きっとこの学校の卒業生のものに違いないが、私はこの絵を背後に感じると、幾度も不思議な感情を味わう。

 まるで、その絵を描いた人間の記憶のリストからクビにされた記憶が漂っているような気がしていたのだ。そしてその絵を描いた人間の時間は今もこの世の何処かでちゃくちゃくと進んでいるのだろうなと思うと、とてつもなく不思議な感覚が私の胸を満たすのだった。

 私は視線を前方にある黒板に貼り付けたまま自分の席に着いた。腰を落ち着けた途端、老いた椅子は不安定にかたんかたんと駄々をこねるので、私は上半身を少しだけ「隣」に傾ける。そうすると、バランスが取れて、私の身体は安定するのだ。

 もしかすると、私の一日の中でこの瞬間がなによりもドキドキする瞬間かもしれない、と、最近思い始めている。

「一センチ、二センチ、三センチ……違う、四センチ、五センチ……」

 成沢の声が聞こえてきた。

 休み時間が始まったことに気づかず、未だ自分のスケッチブックに絵を描きつづけているのだ。

 定規の目盛りのところを指差しながら、かすかに聞き取れる程度の声で何事かを呟いていたかと思うと、急に両手で頭を抱える仕草をし、口を半開きにする。

「成沢画伯、そろそろ美術の時間なのですが」

 影で生徒たちから「裏口入学」というあだ名をつけられている若い美術教師が、情けない者を見る目で成沢に忠告した。途端に、教室のそこかしこから「見下しの視線」が漂ってくる。しかし成沢は一度たりとも顔の角度を変えず、口を閉じ、震わせていた身体をふっと静止させた。まるで灯火が冷たい風に消えるように。そして成沢は煙が立ち込めた空色に酷似している虚ろな目で、ゆっくりと教科書を取り出し始める。

 その後、美術教師の皮膚に「ちっ」というような表情が滲む瞬間を、私は成沢のかわりに見届けた。

 何かに沈み込んだような暗い雲が、ぐずぐずと空を渡っていく。降り注ぐ雨は、必死で窓を洗い流す。

 授業は薬物乱用禁止のポスター製作だったが、私は鉛筆をもてあましながら、何時ものように四角い空を眺めた。

 すると、隣から「パチッパチッ」という音が聞こえてきた。私は注意深く、隣の様子を窺った。

 ああ、そうか。定規を並べ始めたんだ。

 授業が始って少し経ったら自分の机の右端に五個の定規を並べる。これが彼の習慣だった。

 今日はどの定規を並べたのだろう。そういえば、あの半分折れた黒い定規は、一度も並べたことがなかったような。

 急に、頭がぼんやりとしてきて、私は頭を隣に向けすぎていることに気づいていなかった。

 五個目の定規を並べ終えた彼がゆっくりとこちらを向いた時に、私は我に返ってすぐさま顔を逸らした。成沢はそれに対してなんの反応も示さず、絵の具道具を机の中から取り出しているようだ。

 ああ、そうか。彼は誰とも喋らないのだった。

 私は動揺した心に蓋をし、取り落としてしまった鉛筆を拾い上げた。

 成沢は誰とも喋らない。私はそれが嬉しかった。

 彼の思う「嫌なこと」は、此処にいるどの人間とも違っている。彼は心地よい流れにも近づかず、甘い蜜にも魅力を感じない。集団化するという流行にも目を向けない。無属性という誰もが怖がるそれを、彼は好んでいる。

 いつだったろう。

 あれは私達が入学して丁度一ヶ月が経った頃だったと思う。既にクラスの誰もが彼に向けるまなざしに「変わり者」という名のフィルターをかけていた。

 しかしその中にはフィルターを周到にかけたり外したりし、彼を痛めつけようと企む生徒もいた。

 ある日、ひとりの男子生徒がいつものように教室で絵を描いていた成沢に、爽やかな声を投げかけた。

「成沢、今日一緒に帰らない?」

 名演技だと思った。男子生徒はこれまでも皆が成沢の行動を嘲笑するたびに「やめろよ」と声を上げたり、体育の時間、チーム分けに漏れた成沢を自分のチームに招き入れたりしていた、Uという生徒である。彼を拒む要素はどこにもないはずだった。

 しかし、成沢はゆっくりと顔を上げたのち、あの虚ろな目でUの胸のあたりを見つめると、何も言わずにまた絵を描きはじめたのだ。

 Uが数日前に、人気のない踊り場で仲間達と成沢から金を奪う方法を話し合っていたことを、私は知っていた。

 そのときの胸のうちを、どう表現したらよいだろう。

 閃光が弾けるような衝撃などではなかった。そう、あの時の私の胸には、その衝撃の先にある激しい安堵感が去来していた。

 それから、だった。

 彼のようになれば、鍵穴のないドアを開けてゆくようなこの現代でも、難儀している皆を尻目に自分だけの歩みを確立出来るのだと思った。彼に憧れたり、彼を羨ましく思っているかどうかは、自分でもわからない。ただ、私は成沢が他の者とまったく違うところで心臓を動かしている気がするだけで、満足だった。

 私はふっと息を吐いて、成沢の気配を吸い込んだ。成沢は絵の具を握り締めたまま、まだ絵筆をキャンバスに下ろせないでいる。いつもそうなのだ。休み時間にはむさぼるように絵を描いているのに、授業になると途端に彼の手は勢力を失う。そして、あの怯えたような震えもなくなる。それは何故だろう。

 私がそう思った時、近くで誰かの声がした。

「あっ、ごめんー」

 顔を上げると、成沢の机の横を、ひとりの男子生徒がけたたましく笑いながら通り過ぎていくところだった。

 見ると、成沢の左の上履きに何かが染み込んで黒ずんでいる。足元に置いていた水入れを、倒されたのだ。にわかに溢れ出た水が、板の間の節をじわじわと逃げてゆく。わざと、倒したのだ。

 成沢は無表情のまま、教室の前方に雑巾を取りに行った。その背中を見送りながら、私は喉元で暴れ狂う感情を必死で抑えた。

「ほら、今のうちだよ」

 今度は、斜め前の席の女子生徒がそう囁き、成沢のキャンバスに殴るように何かを描く。女子生徒からにやりと微笑みかけられ、私もにやりと、笑った。

 成沢が戻ってきた。彼はキャンバスには目を向けず、床に膝をつき、零れた水を音もなく拭き続けた。見下ろすと、其処には下を向いた彼の頭と、真っ白なうなじが存在していた。

 私はそっぽを向いた。

 私の気持ちが、何故抵抗しないのだという気持ちに脅かされている。

 いけない。いけないのだ。自分が幸せであるためには、決して成沢と目を合わせてはいけない。

 私は湿った床に両足を押さえつけると、曇天のうごめく空を睨んだ。

 成沢のキャンバスに滲んだ「しね」の二文字が、私の脳裏に重くしみている。



 踊り場でカツアゲの相談をしていたUたちが成沢をいじめ出したのは、成沢が彼を無視した日の翌日のことだった。



「だから金もって来いっていったじゃんかよ」

「こいつに何言っても無駄じゃないのか?」

「何言ってんだよ、それがおもしろいんだろ?」

「まあな、ストレス発散だし。それに少しずつ痛めるのが基本だしな」

 雨の水気を含み、じっとりとした壁のむこうから、複数の声がきこえてきた。ごみ箱を両手でつかんだまま、私はその壁の陰に身を潜めた。

 首を突き出し、そっと向こうを見やると、美術室の前の暗がりに人間の塊が蠢いている。五つの頭がぐるりと円をつくり、その中にゆらゆらと揺れる頭がひとつあった。

 成沢だ。

 私は更に壁と一体化し、暗がりの声に聞き入った。

「明日はもってこいよな」

「あんだけ定規買う金あんだからたやすいもんでしょ? 成沢画伯」

 と、五人の中の一人が言い、馬鹿にした笑いが、波紋のように男子生徒たちの間に広がった。だが、その波紋はすぐに引いた。そして男達が次に発した声は、温かさを完全に消失した声だった。

「皆お前のこといらないって思ってるから、俺らが買って出て痛めつけてやってんだよ」

 成沢は口を開かない。ただ、まるで地が震えているかのごとく前後に体全体を揺らすばかりだ。

 手に何か持っている。成沢の華奢な指が形作る拳の隙間から、何か平たい黒いものが顔を覗かせている。あれは――。

「なんだ、その動き」

 背の高い男子が失笑しながら呟いた。すると成沢が誰を見るともなしに、ゆっくりと甘く微笑んだ。

「何笑ってんだよ?」

 鋭い声を成沢に飛ばしたかと思うと、円をつくった人影は、いっせいに標的を殴り始めた。鈍い音が宙に舞う。音は数秒続いた後、標的が尻餅をついたことにより静まった。

「馬鹿が人を馬鹿にする資格なんてねえんだよ」

 悪魔の言葉を成沢の上に振り撒いている。五人が談笑しながら暗がりを出てきた。

 私はすばやく体中の皮膚と骨を縮める。壁に貼り付いて息を潜め眼だけを動かすと、手前の階段を楽しげに上っていく男達の後姿が見えた。

 成沢。

 私は静かになった暗がりを再び覗き見た。

 彼は美術室の扉の前に立ちすくみ、扉の曇り硝子をじっと見つめ、右手の指を親指から順に弱く弱く折り曲げている。そしてやがて最後の小指を曲げ終えると、彼はこちら側にすっと振り返り、しっかりとした足取りでどこかへと去って行った。

 私は、壁から伝わるぼやけた雨音を聴きながら、ごみ箱の淵を強く握り締めていた。



 濡れたアスファルトが空の涙の匂いを放つ。

 県道に面した正門とは反対側にある、薄暗い東玄関のピロティに出ると、しっとりとした風が私の体をくるんだ。午後の雨は囁くような小雨に変わり、校舎裏の低い斜面に茂る緑から無数の雫を滴らせた。

 風になびくスカートが足にまとわりついて鬱陶しい。私はごみ箱を掴み直し、ピロティの端の壁を右に折れて、校舎の裏へとまわった。

 雨に煙る焼却炉が、前方に見える。頭上のほんの少し突出した校舎の屋根からはみ出さぬように歩いていく。ふと顔を上げると、この風景に不釣合いな何かが、目に入った。

 私の心は奇妙に揺さぶられ、足は静かに歩みを止めた。

 人影である。弱いながらも確実にその髪を、肩を、足を冷やしていく雨に濡れるがままになっている、細い人影である。その人影は微塵も動かず、ただ暴雨の中の灯台のように、じっと焼却炉の前に佇んでいた。

 私は自分でも驚くことに、しかし自然に、その人影と肩を並べた。

 人影は動かない。気づいているはずだが、動かない。辺りに人間の気配は無かった。しかし人影と――成沢とこうして二人だけの空間を侵食してみても、私はそこに新鮮さというものを見つけ出すことはできなかった。それはおそらく、私があの「永遠の一時間」をいとおしんでいたからに他ならない。

 私は嬉しかった。

 雨が身体に当るのを、なんてやさしい罰なんだろう、と思いながら、両の目で、自分の両の目で成沢の横顔を見た。

「プラスチックは焼却炉の中に捨てられない。学校じゃあ燃やせないから。そのバケツの中に入れるの」

 唇の震えを自覚して押し出した言葉は、成沢が右手に握りしめた黒い定規を捨てる場所のことだった。

 返事は無かった。代わりに成沢の細い髪から、繊細な水の粒が身投げし、混濁の水たまりへと砕け散った。孤独を迎え入れた彼の目は、今、何時もの虚ろさを持っていない。大人しめに生え揃った下向きの睫毛は、まなじりに近づくほどに長くなった。思いがけずやさしげなその姿に彼の美しさを見せつけられた気がして、私は胸に悲しい影が宿りはじめるのを感じた。

 どぶに捨てられたビニル袋がはたはたと揺れる。

 視線はそのままに、成沢は持っていた黒い定規を焼却炉のすぐ傍に置かれたバケツにそっと、投げ捨てた。赤錆のはびこる金バケツは、乾いた音を立てた。成沢の身体は動かぬままだった。

「捨てるの?」

 私が言ったとき、遠いざわめきが聞えてきた。成沢と私を見下ろす濡れた校舎から染み出てきた、生徒たちの声。青春という偽名を纏った、残酷の集まり。「当たり前」を許されているルールが、しっかりと息づいている場所。私もその一部に過ぎない。成沢は私に、答えを出さない。

「大事にしてたのに、捨てるの?」

 しばらくの間、雨のささやきだけが時を埋めた。雨音が私の悔やみを代弁しようとしてくれていたけれど、それは成沢の身体を尚も冷たくしてゆくばかりで、その事実が頭の奥深くを貫いたとき、私の目には、溢れるものが溜まっていた。

「どうして泣くの?」

 成沢の、声だった。

「傷つけて欲しいんだ、私を」

「どうやって?」

「どうでもいいよ!」

 もう自分が何処から声を出しているのかもわからなかった。

「どうでもいいよ。何でもいいよ。どんな方法でもいいよ」

 泣くのは間違いだと思った。しかし、成沢が泣かないなら私が泣くべきなのだという思いが、今の私を強く揺さぶっていた。

 私は幼い子供のように力なくその場にしゃがみ込み、ぐずぐずと涙を流し続けた。曖昧な視界には、目の前に立っている成沢の二本の足だけが見える。足がふいに折れ曲がり、私と同じように地面にしゃがみ込む。その様を見ている内に、私は成沢の腕に包まれていた。成沢は私の上半身を擁いていた。顔をもたげると、頬に硬く暖かい彼の首筋を感じ、その温度と彼の行動がとてつもなく「普通」過ぎていて、私は驚きのあまり、またぐずぐずと涙を流してしまった。成沢はしゃくりあげる私の背中全体を、骨に沿ってゆっくりと撫で続けた。あの休み時間の、心にまで押し込んでくるような線を引く痛切な指は、こんな甘さをいったいどこに隠していたのだろう。

 やがて成沢は、一度捨てた黒い定規をバケツから拾い上げ、涙の止まらぬ私の右手に握らせた。

 私は思い出していた。成沢がいつかの昼休み、無駄に寄り添い、不真面目さを競う生徒たちから――私から――離れた場所で独り椅子に腰掛け、この定規の表面をやさしく撫でていたことを。

 成沢の顔を見ることが出来ない。成沢は異質なものだ。私の憧れる、異質なものだ。濡れた腕で、成沢はもう一度私を抱きしめた。

 始業のチャイムが鳴り終わるまで、私達は動かなかった。



 その夜は、酷い嵐になった。雨の夜は黒を纏い、あらゆるものを飲み込もうとする。

 夜は嫌いだが、雨は好きだった。雨は成沢に良く似合う。成沢に似合うものが好きだ。雨、曇り空、濡れたアスファルト、雫が流れ落ちる窓、放課後の暗がり、真っ白なキャンバス、柄の入っていない鉛筆、黒い折れた定規。

 風はどうだろう。風は成沢に似合うだろうか。成沢がこの世に生まれてから今までの間に彼を吹きつけて来た風。それはきっと強い。私をやすやすと吹き飛ばしてしまうに違いない。しかし成沢はその風とは違った強さでもって堪え続け、今日まで生きてきた。成沢の強さは静寂だ。静かな、強さ。触れることも憚られるような強さを、成沢は持っている。

 柔らかな蒲団の中で身体を丸め、私は成沢のことを想った。私の幼い心を充足させることが出来たのは、この時、成沢に触れることが出来たという現実だけだった。



 嵐の夜の次の朝は、清清しさと、淋しさを手にしている。私は今日の朝目を覚ました時から、すでに沸き始めている、そしてやがて教室に訪れたときにきっと頂点に達するだろうこの喜憂を、どのように扱ったらいいか正直に言ってわからなかった。

 校舎の朝は青に支配されている。廊下に落ちる自分の影はまるで密語のように頼りないが、私は何故かその薄さに心惹かれた。

 教室の人影はまばらだった。そのなかに、今日も震えるものが在る。成沢の脚はいつものように震えていた。朝の光を受けて、成沢の四肢は朧だった。成沢の手はいつもと同じく、画用紙の地上に真っ直ぐな道を創造していた。朝の光を受けて、成沢の指は冷たく見えた。右手の小指側の掌が、鉛筆の黒炭に染められている。それは私の胸を占めた。

「おはよう」

 戸口に佇んでいた私の肩越しに、Yの挨拶が聞こえた。私は素早く成沢から目を離し、少し見開いてしまった目でYを振り返った。Yの隣には、片手で何度も自分の髪を整えているLがいた。

「おはよう」

 私は頬を持ち上げ、笑顔で答えた。

「今日までに出すあのプリント見せてくれない? 数学の」

 Yの頼みが、のろのろと心の何処かに届いた。Lは「あ、あたしもー」と言いながら尚も忙しなく髪に手を触れた。

「あ、いいよ」

 その刹那は、私の存在の、私の意味の、全てに鋭い爪をたててすがりついた。しかし、誰もそんな事には気づかない。これが私の選んだ道であることを、誰が否定するというのだろう。

 YとLと私は連れ立って教室の中へ入ると、鞄を後部のロッカーに収め、Yの席の周りに集まった。私は数学のプリントを見せ、YとLは何食わぬ顔でシャーペンを動かした。徐々に校内がざわめきを帯びてくる。生徒たちが四角い教室を埋めていく。

 やがて若い美術教師が教室に入ってきて、皆が席に着くと、担任の変わりに出席をとった。担任の教師は遠方へ出張っており、担任の引き受ける一時間目の国語の授業は、自習の時間となる予定だった。

「成沢」

 美術教師は良いことがあったのか、常時には見られない、そして私の内の勇ましい情動を刺激する、明るい笑顔をたたえて彼の名を呼んだ。

 一度目、教師の声は成沢の耳に届いていない。成沢はもう絵を描いていなかった。珍しく、スケッチブックも鉛筆も既に机の中へとしまわれている。私は成沢より二列廊下に近い、斜め後ろの角度から成沢の様子を盗み見た。

「成沢? いるんだったら返事しておいた方がいいぞ」

「――はい」

 と、二度目で成沢は答えた。答えた成沢を教壇から見下ろし、美術教師がふっと笑いを溢した。

 この笑みも、成沢には関係無い。

 この男の人生も、成沢の気配を侵すことは出来ない。

 机上に置いた自分の右手に微かな凹凸を感じ、私は何気なくその部分を見た。誰が彫ったのか、机に文字が彫られていた。おそらく、卒業、または進級する前にこの机を使っていた生徒の仕業だ。文字を読んだ。「Good-bye」と読めた。私はそれを人差し指と中指の腹で撫でた。

「あーあ、つまんねーな」

 そう、この声が聞こえてきた時も、私はまだ机の傷を撫でていたのだ。

「つまんねーよなー。新しい遊びでもしなきゃ」

 先程と同じ声の主がやや大きな声で言った直後に、遠くでごろごろという雷鳴が鳴った。私はふと俯いていた顔をあげ、教室の空気を読み取った。美術教師は既に教室を去っており、周りには教師のいない授業にだらけた楽しさを見出している生徒が溢れていた。日常だ。平穏な日常だ。何時もと変わりない。前の方の席で小型のゲーム機を握り締め、両手の親指を必死に動かしている男子生徒、そのぐるりにそれを見守る数人の男子生徒。窓際にファッション雑誌を捲る爪の長い女子生徒と、それを覗き込む髪の茶色い女子生徒が大勢。入口のドアに近い所で、笑い、隣の仲間の足を蹴る眼鏡の男子生徒、蹴り返すピアスの男子生徒。

 そして私の傍居でチョコレート菓子の箱片手に笑声をあげるL、それに頷きながら乾いた唇にリップを塗り始めるY。

 これは「当たり前」の風景だ。ならばこれも「当たり前」なことだというのか。

 昨日、美術室の前で成沢を殴っていた五人が、成沢の手前に固まって立っていた。その中にはあの男子生徒もいる。成沢を騙そうと笑顔で成沢を誘い、そして騙されなかった者を痛めつけ始めたUだ。大きく開いたYシャツの襟元に、シルバーのネックレスが光って見えた。

 右足の膝の血管が疼いた。私は思わず立ち上がるところだった。「これ食べる?」というLの問いかけが聞こえた。

「ううん、いいよ、いらない」

 Lに向かって断った私の声と、男子生徒の背筋を刺すような笑い声が重なった。それは成沢の尊厳という花が人知れず枯れていく音でもあった。五人は残酷ななにかを思いついたに違いなかった。

『新しい遊び』の開幕に気づき始めた男子五人以外の何人かが、ちらちらと成沢に目線を送り始めた。窓際でファッション雑誌を捲っていた女子の団塊が、軽く笑いながら「なにやってんのー?」と五人に間延びした言葉を発したが、それ以外の生徒達はそれまでの姿勢、表情を全く崩すことはない。

 Yは私に「こないだ言ってたライブのチケット当たったよー」と無邪気そうに言った。これは無邪気に違いない。そうだ彼女は無邪気なのだ。自分のしていることを悪事だと思っていないのだから。私も微笑もうとした。

 自分が怖かった。

「こいつの家さー、金やばいんじゃないの。家とかきっとぼろいんだよ」

「成沢の頭の治療代で無くなってんじゃない?」

「たぶんなー」

 誰もがすぐ目の前に成沢が居ないかのように会話をしている。私たちはどうしてこんなにも、目に見えるものを無視するのが上手なのだろう。これが私たちの作った平和な時間だった。成沢が私たちの中の誰のことも喋る相手として認めないように、私たちの中の誰も成沢を喋る相手として認めなかった。

 成沢は口を結び、昨日よりも弱くその細い体を揺らしていた。成沢の足元の、色褪せた板床に、小さな埃の塊が転がっている。私は何度も、机の上の「Good-bye」を指で撫でた。

「成沢」

 ふいにそう成沢に呼びかけたのは、成沢をいじめ出したときにグループの中心にいたUではなく、ここ最近グループを纏めているようだった、背の低い、短髪の男子生徒、Hだった。彼らの間でも、力の変動は存在している。

 一瞬、教室中のすべての人間がHに注目したのが分かった。雑談の声も、ゲームの音も途絶えてはいない。それでも、それは分かった。

「ちょっとついて来いよ。お前にさせてやりたいことがあるんだけど」

 Hの言葉を合図に、他の仲間の四人が成沢の両腕を掴もうとした。だがそれは、叶わなかった。成沢が両腕を振り払い、そしてその両腕は彼の極限だろう力で回りの人間に振りかざされた。一人が吹き飛ばされ、綺麗だった机の列が、音を立てて乱れていく。床に倒れこんだ男子生徒は、凄まじい怒りに眉を歪ませていた。

 堰を切ったように成沢に向かって打擲ちょうちゃくが飛んでくる。成沢が抵抗したという驚きが、彼らの怒りを倍増させているのが分かった。

 制服のズボンをずり下げて履いている白い肌の男子が、抵抗する成沢に押されて後退った拍子に背後の机にぶつかり、その直後、五つの定規が机上から滑り落ち、床の上でぱらぱらと弱い音を立てた。

 成沢は抵抗を止めなかった。後ろから羽交い締めにされそうになれば、咄嗟に近くの椅子を投げつけた。椅子の背を握ったとき、成沢の手首には大きな震える筋が浮き沈みした。

 Hが、怒りに任せて成沢の鼻面を殴りつけた。成沢は後方へ倒れそうになる身体の勢いを、床に押し付ける両足の力で抑止した。その成沢の背中が、私のすぐ隣にいたLの肩に触れそうになる。Lが「うわっ」と小さく叫びながらよろけ、手に持ったチョコレート菓子が落ち、私のシューズに跳ね返って床を転がっていった。私は自分の足が熱を持っているのを感じている。こんな熱は感じたことがない。まるで足が膨れているようだった。

 成沢をはじめに騙そうとしたあのUが、成沢の右頬に拳を食らわせ、荒い息を吐いている。成沢の身体は衝撃によって床を滑り、教卓の側に倒れ臥した。小型のゲーム機を手にした男子生徒とその一団が、おどおどとその場から離れ出している。

 窓際の髪の茶色い女子たちの騒々しい笑い声が、教室の中を悠々と駆け回っている。私はその声を聞きながら、成沢が床から厳然と立ち上がるのを見た。彼の眼にはもう何も宿ってはいなかった。五人の内の一人が再び抵抗する成沢の腕を捻りあげようとしたが成せず、すぐさま別の一人が成沢を捕らえて押し倒し、仰向けになった成沢の身体を殴りつけようと右手を振り上げた。

 床の上の成沢の顔が、誰かの足の間から私の目に移り、私はそれを、殴られて赤くまだらになった成沢の顔を、直視した。


 傷つけて欲しいんだ、私を

 どうやって?


 卒然、声がした。それは短い叫びの声だった。

 その叫びは、悲しみも、憎しみも含んではおらず、ただただ響き続けるばかりの、まるで人が叫ぶことでしか声を出せなくなったかのような、そんな声だった。そんな声が、私を取り巻いていた。

 黒板横の掲示板に貼られた藁半紙が、どこからか吹く風にその身を翻している。

 ふと窓に視線を投げやると、風にかき消されてしまいそうなか細い雨が、あたりを茫漠とした淡い空間に変化させていた。

 何も書かれていない黒板のすぐ下に、二つに割れた黄色いチョークが落ちている。

 成沢を殴ろうとしていた男子は、背中の後ろに両手をつき、呆気にとられて座り込んでいた。

 成沢は教室の真中に佇み、自分の両の手を顔の前にかざし、暫く、何も言わずにそれを眺め回した。

 誰も、言葉を口にしない。

 五人の男子生徒たちの肩が、冷め切らない怒りにゆっくりと上下している。

 小型ゲーム機から間の抜けた効果音がして、勇者の死が楽しげに告げられる。

 自分の隣で、Yが口を半開きにしているのが感じられた。

 再び、叫び声がして、私はそれが初めて成沢のものであることを認識した。成沢の痩せた頬は、みるみるうちに涙の川となり、細い顎には沢山の水粒みつぼが溜まっていく。

「一センチ、二センチ、三センチ……四センチ、五センチ……」

 誰もが押し黙る中、成沢は掠れ、力を失った声で、確かにそう呟いた。

 成沢は床の上に膝を付き、頭を前に倒し、急に沈黙した。点々と、成沢の真下の床に、涙が落ちた。まるでやさしい長い雨が、静かに降り出したかのように。



 成沢の隣には、永遠があった。その永遠は、私と成沢の席が隣同士になる美術の時間に必ずやって来た。席は、窓側の前から四番目の二席だ。週に一度の美術の時間、私が休み時間のお喋りを止めて、そのささくれだった木の椅子に腰をおろしたとき、私は淡い永遠を手に入れていた。成沢もそう感じていたかどうかは、わからない。永遠にわからない。成沢と喋ったのは一度だけ、だった。

 「残酷な者たちに歯向かわないこと」。それが彼にとって、自分の存在する意味を落下させない術だった。「あの者たちに歯向かう」という、あの者たちと同じ醜いことをしてしまった瞬間に、自分はここにいる権利を失うのだと、そう信じて生きてきた。そしてついにあの者たちへの抵抗を許してしまった自分自身に、彼は失望したのだ。彼が失望するのは、彼自身だけだ。彼を苦しめるものは、彼だけがつくることが出来る。

 嵐の夜と、雨の日には必ず思う。私は彼の強さを何一つ覗けていなかったのだと。成沢の静かな強さは、いつでも破られる時を覚悟していた。静寂は破られる。静けさは、誰にでも破ることが出来るものだ。成沢自身にも。



 雨上がりの校庭を、同じ制服を来た生徒たちが、いくつもの群れを作り、歩いていく。足を踏み出すたびに、校庭のぬかるんだ砂が、少し擦り切れた黒いローファーを柔らかく捕らえている。私はその感触に負けないよう、歩みに強い思いを加えた。

 一階の踊り場で、大きく開いたYシャツの襟元に、シルバーのネックレスを光らせた男子とすれ違った。クラスメイトだ。その男子生徒は笑顔で階段を駆け降りると、私と同時に登校してきた仲間のもとへ走り去っていった。

 廊下の手洗い場に、光の帯が差している。銀色の蛇口には歪んだ空の雲が移りこみ、排水溝の上には、小さく、硬くなった石鹸が数個、投げやってある。

 教室のドアの前では、四人の男子生徒が大声で笑いながら何かを話している。背の低い、短髪の男子生徒が、仲間の一人に向かって「バーカ」と言った。

 教室に入ると、Lが自分の机に腰かけ、Yから借りた漫画本を鞄の中に閉まっているところだった。Yは折りたたみの櫛で髪を梳かしている。

「おはよー」

「おはよう」

 YとLが私へ声をかけた。私は背中から鞄を下ろし、自分の机の上に置きながら、「おはよう」と返事をした。

 鞄を後方のロッカーに収めると、私は席につき、スカートの乱れを直し、それから筆箱の蓋を開けた。

 そして、自分の机の右端に、五個の定規を並べた。

 定規の角が、指の皮膚に優しく刺さる痛み。それは、私の心を満たしてくれる。最後に置いた黒く、短い定規は、目盛りが擦り切れて読めなくなっている。

 成沢の数えていたものが、ここにある。これはきっと、無限に続くものだ。

 私には永遠に終わらない、センチメートルがある。

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センチ 鳥山留加 @toriyama_lukas

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