きゃたろ

鳥山留加

きゃたろ

 私はピアノを習っている。



 川岸の家から海辺の家に引っ越してきた日の翌日に、隣家の奥さんから教えてもらったのだ。

 奥さんは玄関先で「これどうぞ」と茄子のお漬物の入ったタッパーを差し出した。

「私、茄子大好きなんです」

 私が呟くように言うと、奥さんはとても鮮やかで、人懐っこい笑顔を作った。それはこの世で私がいちばん恐れているものだった。人懐っこい笑顔。誰からも踏みつけられたことがないような。

「そういえば、貴方ピアノとかに興味はない?」

 人懐っこい笑顔のまま、奥さんは私に聞いた。楽器と呼ばれるものに触れたことは、生まれてから一度もなかった。

「じゃあ始めてみたらどう? すぐ近くに素敵なピアノ教室があるの。私も通ってるのよ」

 威張っているふうにも聞こえる抑揚でそう言い、奥さんは去っていった。

 そのときの茄子を、私は今も捨てられずにいる。



「君は、どうしてかわからないんだけど、今きっとたくさんの男に好かれてるんだろうなって思わせる女だね」

 というのは、先生の感じるところである。そう言われた途端、私は無性にお腹の内側がくすぐったくなり、声をたてて笑ってしまった。

「なに笑ってるの」彼はわずかに驚いて言ったが、私は尚も笑いながら、「そんなことはありません。ありえないんです。変なこと言わないでくださいよ」と答えた。

 答えた私を興味深そうに眺めて、彼は確か「そんなに可笑しなこと言ったかな」と言ったような気がする。

 ピアノのレッスンは週に二日ある。月曜日と、それから土曜日。月曜日はクラシックを弾いて、土曜日はロック&ポップスを弾く。

 ピアノ教室へは、家の黴臭い物置に眠っていた小舟で向かう。川岸の家を引っ越したとき水の中を泳ぐことは止めにしようと決意したので、面倒だという気持ちを押さえつけながら、ぎしぎしと喘ぐ櫓の音と共に、私は塩臭い海を進む。

 十分も経った頃、海面から突出した岩々が寄り添って、まるで小ぶりの島のようになっている場所が見えてくる。その上には海の中道に不釣合いな煙突つきのログハウスが建っており、開け放した窓から甘い洋菓子の匂いが漂ってくる。

 此処が、ピアノ教室だ。

 最初に此処へ訪れたとき、その空気から、瞬間、住人は女の人だろうと決め込んでしまったのがいけなかった。

 小舟の紐を苦戦しながら岩山にくくりつけ、海の香に洗われた木の扉を叩いてみる。住人が出てくるまで、私はドアノブに掛かった手作りのプレートを見つめていた。四角い木材の上にマジックで『開いてるよ』。

 少し可笑しくなって、プレートを裏返してみようかと思ったとき、扉はごとりと音を立ててこちら側へ開いた。

 扉のぶつかった額をさする私の前には、細身で足の長い男の人が立っていた。

「たまにね、ぶつけちゃうんだよ」

 私を中へ通し、オーブンからたった今焼きあがったクッキーを取り出している姿勢で、彼はうきうきと言った。

 中は狭かった。何しろ『部屋』というものが無い。ひとつの箱に、家具やら小物やらを考えなしに放り込んだようなものだった。流しにベッドが横付けされており、グランドピアノが天井から吊るしたハンモックの真下にある。

「ドアを内開きにすればいいんじゃないですか」

 私が言うと、彼はくるりとこちらへ振り返った。

「良い提案だ」

 彼は真面目な声で言う。彼は息をするのもままならないように面白いことも、瞬きを忘れるほど悲しいことも、同じ、乱れの無い美しい声で言うのだ。ということはのちに知ったことなのだが。

「でも最近少し楽しんでいるんだよな、俺」

「なにを?」

「今度の客はぶつかるかぶつからないか、予想するんだ」

「ひどいですね」

「ひどいよ、俺は」

 彼の言葉に、私は少し笑った。私が笑うと、彼も笑った。笑うと、意志の強そうなつり目がいとおしいほどに優しく垂れる。人懐っこい、笑顔。私は彼の笑顔に笑顔を失った。

 芳しいクッキーの匂いが体を撫でる。「オートミールのクッキーだよ」彼は楽しそうに言ったが、私は黙ったままクッキーの載った皿を眺めていた。

「食べていいよ?」

「ピアノは弾かないんですか?」

 妙に刺々しい言い方になってしまった。それに、自分の肩のあたりから不機嫌な熱が放出されているような気もする。

 私は急に泣きたくなった。私にとって独りの夜や雨の朝に泣きたくなることは稀なことだ。泣きたくなるときは、明るい昼間の陽気に取り残されたとき。大人のくせにこうして泣きたくなるなんて、情けないことだ。瞼をきつく閉じたくなるほど、情けないことだ。川岸の家から越してきたとき、決めたではないか。私は、普通の人間になる。

「ピアノは、もちろんするよ。金が欲しいからね」

 彼の言葉は現実というものを多く含み、とても魅力的に私へと届けられた。

「見せてくれる?」

 私の瞳を自身の瞳できちんと捉えて、彼は言った。私は躊躇せずに両の手をテーブルの上に差し置いた。私の水掻きを見て彼は軽く頷き、さっきまで使って傍に投げ出してあった鍋つかみを手にした。

「もし君が気になるならば街に行くとき、たとえば切れていた醤油を買いに行こうっと、と思ったときとかね。そんなときはこれをはめていくといい。そうすればそれが他人に見えることはないし、このお洒落な最新ファッションにみんな賞賛の目を向けるのさ」

 彼は真面目な声で淡々と唱えた。

 愛してる、と思った。彼という人間が、というわけではなく、この状況が、というわけでもなく、ただ、漠然と心に「愛してる」という感情が兆したのだった。

「いやですよ、鍋つかみをはめて歩くのなんて」

 私も、この上なく真面目な声で返した。それでも、やはり最後の方は顔に微笑を溢してしまったのだが。

「だったら、君はそのままでいい。そのままでいればいい」

 言葉の優しさに心がそわそわするのを感じ、私は彼の痩せた頬を見つめるばかりだった。

 その日、夕陽がグランドピアノの照り返す光を朱色に変える頃、ピアノ教室を後にした。

 帰り際、彼はあまったクッキーと鍋つかみを私にくれた。「新しいのが欲しいから」鍋つかみを渡しながらそう言う。「いいんですか」と聞くと、「実はまだまだたくさんあるんだけどね」と彼は笑った。

「あら、今お帰り?」

 二人で同時に振り向くと、岩山の上に黒々とした小さな影をひきつれて、隣家の奥さんがこちらへ向かって来るところだった。奥さんはパッチワークの手提げ鞄を持っている。中にはピアノの楽譜が入っているようだ。

 私は彼と奥さんに順番にお辞儀をして、岩山を降りた。小舟に乗り込むとき、二人が談笑しながらログハウスに入っていくのが見えた。

 海原に呑み込まれてゆく太陽が、自分のものだと感じたあのときの気分は、幻だったのだろうか。

 櫓を漕ぎ、自分の家を目指しながら、私は帰り道に何度も鍋つかみを視線の中に映し込んだ。鍋つかみには、歪んだト音記号の刺繍がしてあった。


 私はきゃたろだ。

 きゃたろは、迫害にも差別にも飽いているのだった。もう、とうに。

 私たちは子どもを川にて溺れさせる者として、人と、人に寄り添う動物たちに謂われない傷をつけられた。あれは川岸の家にいた頃のことだ。毎夜、男たちは静寂の中におぞましく汚れた息を撒き散らし、私の家にやってきた。そして、私の水掻きを思う存分侮辱した後、私の体を思うままにした。

 男たちを焚きつけたのは、町の明るい娘たちだった。



 それは、恋であることを自分の内側で認めさせるまでに、私を随分と戸惑わせた。

 ピアノのレッスンは、上手くいかなかった。水掻きが鍵盤を叩くことを難しくさせていたのだ。指を振り下ろすたびに現れる生への苛立ちを、彼は笑ってくれた。

「ちょっとやりにくいことの方が、本当に好きなものなんだよ。きっと」

 彼は、そんなふうに呟く。鍵盤に手を置いたまま、私はその言葉の周りに流れる空気を味わう。だが、次に振り返ると彼がピアノの上に置いてあったレモンタルトをむしゃむしゃと食べていたりするので、私はしばしば飲み込みそうになっていた感情を時間の何処かへ置いてきぼりにする。

「私にも、ください」

 三回目のレッスンの途中、頼んでみたが、「レッスンが終わったらね」と返された。だがいざレッスンが終わってレモンタルトを前にしてみても、レッスンの最中のような欲心はどうしても湧いて来なかった。彼が食べていたときは、レモンタルトが世にも素晴らしい人類の産物に思えたのに、過ぎてみればレモンタルトはなんのことはない、「レモンタルト」なのだ。

 私は「あのレモンタルト」が欲しかった。しかし、どうして自分が「あのレモンタルト」を欲していたのか、その答えを出すことが出来なかった。

 いいや、もしかしたら、答えは出していたものの、認めるという作業をさぼっていたのかもしれない。

 心の中、「答え」と「認識」は何時だって全く別のものである。私は暫くのあいだ、「認識」する、ということを忘れていた。遠く暗い水底にそれを埋めていたのだ。長い、あいだ。



 彼は私より二つ年上だ。ピアノの講師は二十四歳から七年間している。趣味はお菓子作りで、これは三年前から始めたのだそうだ。「変わってるってよく言われるんだけど」彼は笑う。そんな彼を見て、私は思わず「好きです」と言いそうになってしまうところをぐっとこらえる。

 幼い頃は陸上選手になりたかったのだという。そんな彼が、海(の上)に流れ込んできた訳を私は知りたく思ったが、とうとう彼に訊ねることは出来なかった。彼はあらゆる理由を話すことを嫌う性質なのだ。それはレッスンのときも同じだ。

 晴れた日の午後だった。空には雲ひとつ見つからない。太陽光を浴びて、ちらりちらりと白い光を散乱させる防波堤が、喧騒を放つ街の近くに浮かんでいる。その上を歩く小さな人影は、数限りない過去の過ちのように、胸の内へ不思議な郷愁を呼んだ。山にも、建造物にも遮られることのないこのログハウスは、まるで忘れかけている記憶のように、朧気に存在していることだろう。

「ドからドに指を移すなんて、不可能ですよ」

 私はやりきれなくなって呟いた。ピアノを習い始めて三ヶ月目のことだった。三ヶ月も経っているのに、私はまだ一曲も弾けるようにはなっていなかった。「弾けてる人はたくさんいるよ」

 私の隣のスチール椅子に座っている彼は、楽譜に鉛筆で指番号を書き込み、もう一回弾いてみて、と促した。

 そんなことは分かっている。でも弾けている人がたくさんいたって、私が弾けるとは限らないじゃないか。そう思いながらも再び鍵盤を叩いたが、結果は同じだった。

「君は諦めているんだろう。どこかで。だから出来ないんだよ」

 彼はすっと立ち上がり、得体の知れない赤紫の海藻が生けてある壷に、じょうろで水を注いだ。

「諦めてなんかいません。ほんとうに出来ないだけです」

 私は不愉快になった。彼はまだ壷に水を注いでいる。

「いいや。諦めてるよ」

「どこが諦めてるっていうんですか」

「理由なんかないよ。そう見えるから言ってるだけじゃないか。どうして君は何でも理由を聞きたがるんだ」

「励ましなんてうんざりなんですよ」

 私は気弱なくせに人一倍頑固だった。しかしどうやら彼も頑固らしい。私たちはしばしばお互いを決めつけるときがあった。貴方はこういう人、私はこういう人、と。それは自分自身に対しても違わない。

 私たちは暫く見つめあう格好になった。窓から潮風が吹いてくる。潮風は彼の短く少し茶色い髪をひらひらと動かした。一方、黒く長い私の髪は、肩先で広がって静かに絡まる。

 じきに、彼は黙って背戸から外に出て行ってしまった。私は頬を火照らせたまま眉間に皺を寄せた。

 どこかに行ってしまえ。偉そうに。溺れても助けてやらない。私は思った。思ったまま、ピアノ椅子に腰掛けてでたらめに音を叩き出した。

 不協和音はそこらじゅうの物からはじき返された。私は外に出た。

 彼は南側の庭にいた。庭は、微細な石によって平らになっており、ログハウスの周りをぐるりと取り囲んでいる。

 彼はその庭にしゃがみ込み、地面にある何かに見入っていた。私は靴の踵を踏みつけたまま、彼のかたわらに近寄った。音をたてないようにしている自分がなんだか可笑しい。

「アジ、ですか」

 訊くと、彼は振り向かずに「アジ、の干物だよ」と答えた。スダレの上に、数十個のアジが並んでいる。ぱっくりと胴体を切り裂かれて、その骸を海風にさらしている。腕に抱えた篭の中に、彼は干物をひとつひとつ入れていく。やがて彼は何処からか持ってきた七厘の上で、アジの干物を焼きはじめた。

「大人らしくないな、俺」

「大人らしくないですね、私」

「やっぱりひどいよな、俺」

「ひどいのが、好きです。嬉しいです、ひどいのが」

 そう言うと、彼は答えなくなった。

「今日はお菓子、作らないんですね」

 彼の隣にしゃがみ込んで、立ち昇る煙に見入る。

「飽きてきたから、少し」

「少し」と繰り返して私は彼の体に寄り添った。

 痩せた、肩だ。浮き上がった骨で頬が痛いほどに、彼の肩はぐあいの悪いものだったが、そのぐあいの悪さが、今の私には嬉しかった。

 遠くの海渚ではしゃぐ子供の声が聴こえた気がした。七厘では、アジを焼く火が和やかにはぜている。彼は黙って私に寄り添われたまま箸でアジを反し、反し終わるとまた黙って私に寄り添われていた。

 陸上選手になりたかった頃、彼はこんな痩せた体で、グラウンドに砂埃を巻き起こしていたのだろうか。それとも少年時代は、もっとたくましい肉体をしていたのだろうか。若さというものが、青春という壷からふきこぼれてしまいそうな、たくましい少年。熟れる直前の果実ごとく曖昧な色を放つ、健康的な人間。

 そんな彼を、自分が好きになるとは思えない。それは彼にどんなに容姿が似ていようと、彼にどんなに性格が似通っていようと、私が彼以外の人を好きにならないことと同じだ。

 ふいに、彼の手が肩に触れた。私は瞑っていた目を開けて、彼の顔を見た。

「そろそろ戻ろう。中に」

 彼は言い、私の肩を弱く押しやった。至極弱い力だったが、彼の表情は柔らかくはなかった。瞳をじっと見据えると、彼はそれを避けるように立ち上がった。

 てきぱきと焼いたアジを小皿に移し、彼は七厘を家の隣の物置へ片しにいった。私は座ったまま、じっとその背中を見ていた。

 海鳥が空を旋回している。アジの無くなったスダレが、一瞬の強風に翻った。



 海辺の家へ引っ越す日の朝、娘たちはこぞりてハンカチをきつく握り締めていた。

 元気でね、淋しくなるわね、わすれないでよ。川に架かる橋の上で、荷物を抱えた私に向かって口々に言う。私も笑って、橋を渡った。

 彼女たちの燦々とした顔を、背中で味わっていた。



 岩山と海との境に、波が白く泡立っている。ほんの少し弓なりになった水平線の彼方に、米粒大の漁猟船が浮かんでいる。船は、悠然と揺れる水面に儚い波の尾ひれをつけて、少しずつ陸へと近づいていく。私は夕刻の光を受ける熱い岩の上で、じっとその様を見つめていた。

「あら、今お帰り?」

 私はうら淋しさにひたったまま振り返った。隣家の奥さんはみやびやかな足取りでこちらへ向かって来る。手にはやはり、パッチワークの手提げ鞄を持っていた。やがて奥さんは私のかたわらで、歩みを止めた。

「まあ、恐いくらいに奇麗な夕焼け」

 黙っている私に頓着せず、奥さんは大げさに呟いた。小さな横顔が、夕べの色に染まっている。

「お稽古は楽しい?」

 突然、にこやかに訊ねられて、私は身を硬くした。楽譜の入った紙袋(鞄を持っていないのでこれに楽譜を入れてレッスンに来ている)を意味もなく反対の手に持ち直してから、小さく「はい」と言った。それでもやはり奥さんは、私の態度など構わず話しを続ける。

「見せてくださる?」

 いつかの、威張っているふうにも聞こえる抑揚で奥さんは言った。

 私は奥さんの顔をじっくりと観察した。奥さんは、町の娘たちと似ている。羨ましい程に、疑ってしまう程に愛らしいところが、酷似している。私は両の手を奥さんの前に差し出した。

「お辛いでしょう? 可哀想に」奥さんは言った。私の手の甲を撫で、「悲しいことだわ」とも言った。

 するりと私は手を引き抜いた。奥さんは表情を変えない。神様のような顔を、している。

 私は地面の自分の影を見ながら奥さんにお辞儀をし、岩山をゆっくり下った。



 黴臭い物置にあった古い電子キーボードは、ドの音が出ない。他の音はきちんと出るのに、真ん中のドの音だけが、沈黙を守り続けているのだ。酷く間の抜けた感じになるが、音がなくとも練習は出来る。

 ピアノ教室から帰ってくると、私は三畳間にぴったりと正座をして、練習を始めた。キーボードには脚がなく、そのまま床に置いたのでは低すぎて弾きにくいので、キーボードの下に辞書やらダンボール箱やらを置いて高さを調節した。

 諦めているつもりなどなかった。むしろ、私は他人よりもきちんとした姿勢で生きてきたつもりだ。

 彼にはきっと、私を傷つける勇気がないのだ。私は彼が好きだった。おそらく、これから先もそのことを面目なく思ったり、疑問に思ったりすることはない。

 彼の身の奥には良い心というものがはびこっている。優しさゆえに好悪は曖昧になり、私たちはずっと相当な関係でいられるのだ。それが哀しいこととも、思わないで。

 右手に熱を感じて見てみると、水掻きの部分が裂け切れて、血が溢れていた。弾きすぎたせいだろう。痛みは、月明かりの様に心地良かった。

 家の外は深い闇に包まれている。蛍光灯が一瞬消え、パツンという音をたててまた点いた。



 夜さり、小舟で彼の家へ向かった。

 下弦の月が、重ったるい雲からときどき顔を覗かせる。ログハウスからは薄白い光と美しい旋律が漏れていた。

 私は岩山を駆け上ると、ログハウスの壁に耳を押し当てた。

 彼は私の練習していた曲を弾いていた。彼の奏でるその曲は、私のものとはまるで違っていた。うまい、下手の違いだけではなく、滲み出る希望の量が違うのだ。人と寄り添う幸せ、人を信じれる無邪気さ、それらが、彼の曲からは確かに届いて来た。くるおしいほどに、届いてきた。

 私はそれを、いとおしく思った。彼の、笑うと垂れる目のように。

 細小波を起こすひんやりとした風が頬に気持ち良い。私は演奏が終わると、思い出したように、大声で泣いた。

 しばらくすると扉が開いて、彼は私を部屋の中へ入れた。私は泣いたまま彼の後に従った。彼はお湯を沸かし、ホットミルクを私に飲ませ、自分は四回で止めたという陶芸教室にて作ったコップを取り出した。

「それ、自分で作ったんですか」

 私が聞くと、彼はどこか照れくさそうな笑みを浮かべて、「やっぱり自分で作った風に見えるか」と言った。それから、彼はそのコップにインスタントコーヒーを淹れた。お砂糖は一杯半。一杯半、と、彼の持ったスプーンを見ながら私は呟いた。

 太陽が出ていないときにこの部屋へ入ったのは初めてだった。室内はいつもより心なしか落ち着いているような気がする。私はゆっくりとした首の動きで、本棚の本が入っていない僅かな隙間やら掃除機から半端に出ている電気コードやら机に置きっ放しの携帯電話やらを眺めた。

「携帯電話なんて、持ってたんですね」

 興味を持って訊ねてみると、

「でも全然使ってないよ。説明書読むのが面倒くさいし」と返ってきた。

「根気がないですね」

「根気ないよ、俺は」

 私たちは笑い合った。笑い、ときどきホットミルクとコーヒーを飲み、また笑った。

「今度送りますよ、メール」「返事書くか分からないよ」そんな会話もした。二杯目のコーヒーを飲み終わると、彼は私と一緒にグランドピアノの上のハンモックへ横になった。

「どうしてそんなもの持ってるの」

 私が握っている鍋つかみを見て、彼はいつもの、乱れの無い声でいい、そして笑った。笑い終えると、私の答えも訊かずに瞼を閉じた。

 月光を受け止め、板どこにぼやけた影を落とすグランドピアノの上に、私と彼の姿が映っている。

「好きです」私は声をひそめて言った。

「好きです」もう一度、言った。

 彼はもうあらかた眠りの世界にいる声で、「うん」と呟いたようだった。

 私は部屋中のあらゆるものをひとつひとつ眺めていき、最後に彼の寝顔を見つめて、瞼を閉じた。



 翌朝、私はガトーショコラの甘い香りで目を覚ました。

 ハンモックには、私独りだけが横たわっている。得体の知れない赤紫の海藻が、朝風に弱くはためいていた。

 私はハンモックから降りると、中央にある大きなテーブルに腰掛けた。最初に此処へ来たとき、私が両の手を差し置いたテーブルだ。

 そのとき、彼はどんな表情をしていたのだったか。思い出そうとしても、非情な見えない糸のようなものが心を引きとめ、記憶の遡行を許さずにいる。

 そのままでいればいい、などとが言うものだから、貴方を好きになってしまったではないか。私は怒りたいような、微笑みたいような気分になった。

 机の上には、焼きたてのガトーショコラと茄子のお漬物の入ったタッパーが置いてあった。私はそれらの皿の隣にあの鍋つかみをそっと並べ、ログハウスを出た。

 風も、波も、穏やかだった。その穏やかな風に運ばれて、乾いた陸の面影が、私のもとに流れ込んで来るようだった。

 彼と隣家の奥さんは、奥さんの白いボートにふたりきりで乗っていた。岩山から少し離れた海上を、ボートは緩やかに進んでいる。私にはわからないような話をしているに違いない。ふたりとも、とても豊かで、とても人懐っこい笑顔をしている。楽しそうな笑い声が、鼓膜に届いた。

 海鳥が岩場に集っている。岩と岩の境目に花を咲かせた植物が、足元で触れ動く。私は濡れた岩山を下り始めた。海が、母なる海が、すぐそこにある。頭の先から、私は水の中へ飛び込んだ。

 海の水は塩辛かった。傷の治り始めていた水掻きに、流れは痛みとなって伝わった。

 私は蒼い波を切って進んだ。途中、瞳の隅に、赤紫の海藻が見えた気がした。振り返る間もなく、私は白いボートの船べりによじ登り、彼の腕を掴み、その体を引きずり下ろした。たやすく、彼は海に落ちた。視界を埋める無数の水泡の向こうで、奥さんが「びゃあ」と叫び、白いボートが遠ざかっていく。

 私は水の中で彼を擁した。彼の唇からはたくさんの息が零れ、その息は丸い泡となって一心に水面を目指した。その泡もいつしか絶え、代わりに私の口元から漏れる息は段々と増えていった。

 水面が遠い。光も遠い。

 私たちは静かな暗闇を、何処までも落ちていった。



 私はお菓子作りを教えている。



 海辺の家から此処に引っ越してきた日の翌日に、開いたのだ。

 得意なお菓子はガトーショコラで、これがここの生徒さんたちから一番人気がある。

 生徒さんたちは明るく、皆陽気だ。出逢ってすぐは、隔てがましかったり、丁重すぎたりすることも多くあるが、ある程度の時間が経つと、お互いに対しての親しみがまったく突然に発芽し、私たちはぐんと打ち解け合うことが出来るようになる。

 ゆっくりと育むものではなく、あるとき急に心の何処かから飛び出させることによって深まっていく。交情とは、存外そんなものではないかと、思う。

 庭には、アジの干物の乗ったスダレがある。時々、生徒さんと一緒に焼いて食べることもある。

「先生はほんと、魚を獲るのが上手なんですねえ」

 と言ったのは、ひと月ほど前から此処に来るようになった大学二年生の女の子だ。彼女はよく笑う。はたしてこれは面白いという要素を含んでいるのだろうか? という事柄でも、彼女は生き生きと笑い飛ばす。私はそんな彼女が好きだ。

 彼女から五日に一度くらい、「どうして人前では鍋つかみを外さないんですか」と訊かれる。

 そんなとき、私は小さく笑う。くすくすと、笑う。「どうして笑ってるんですか」彼女は言い、私は「気にしないで」と答える。いつしか彼女も笑い出し、一緒にひとしきり笑ったあと、私たちはローズマリークッキーやチョコレートノエルを作り始める。

 この家から見る晩霞は、私の知る世の中で最も美しい。キッチンで、新しいお菓子のレシピを紙に書きつけているとき、窓からの眩い光に目を瞑る時がある。そんなとき、私は鍋つかみを外し、その手を太陽に向けてみる。光は、指と指の間から熱をもって零れ、私の顔を強く照らした。空を飛ぶアホウドリは鳴き、波はしぶきをあげた。私は遅すぎる時の流れに、泣いた。



 窓の外には、果てしない奇麗な海が、広がっている。

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きゃたろ 鳥山留加 @toriyama_lukas

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