烏髪

鳥山留加

烏髪

 一緒に暮らし始めてから何回太陽が這い上がるのを見て、何回月が落ちてゆくのを見ただろうか。数字にすればその年月は酷く粗末なものになってしまう気がして、僕はそれを口にしない。ひょんな事から良彦と一緒に暮らすようになった。僕が良彦の生活に急に滲みこんできた、と言った方がいい事をわかっていて、僕はそれも口にしない。

 良彦は僕より四つ年上だ。僕は良彦の細くて優しい目に見つめられると、何故か背筋がひんやりとした。それはきっと幸福の悪寒に違いないけれども、僕は何処かでそれを疑っていて、良彦の笑顔が向けられると、僕はたまに自分の背後を振り返って何かを確かめた。そうすると、良彦は「何やってんの」と言いながら又笑うので、そこでやっと安心して、僕は笑う。



 僕たちは表札の傾いたコンクリート臭いアパートに住んでいる。明かりの少ない、窓がたったひとつだけある、部屋。狭いベランダの柵は錆にまみれ、赤茶色に老いている。

 初めてこの家に足を踏み入れたとき、良彦は一足しかない毛羽立ったスリッパを履いている僕を見つめ、こう言った。

『約束しような。お互い向き合い過ぎないようにするって』

 僕は意味がわからないゆえに、ゆっくりと笑った。良彦も、続けてゆっくりと笑った。

 それから、良彦は片手で僕のうなじを優しく揉んでくれた。

「なに?」僕はうなじを揉まれたまま、良彦に問いかけた。

「癖なんだ」良彦が言う。

「癖?」

「うん」

 僕はそれ以上追及しなかった。追求すれば、自分の中のあらゆる偽善があふれ、これからの僕らが全く違うものになるような気がしていたからである。それからしばらく玄関で、良彦は僕のうなじを揉んでいた。何も言わずに、揉んでいた。

 それが、僕らの始まりだった。



「そんなにかわいいなら名前でも付ければ」

 僕が気持邪険に言うと、良彦はベランダの烏からやっと目を離してくれた。金曜の朝だ。テレビの音も(テレビは五年前に壊れたらしい)新聞を捲る音も(新聞は取っていなかった)ない、ささくれだらけの畳の上で、僕らは朝げをとっている。

 一週間ほど前からベランダに烏が一匹、この時間帯に必ずやって来るようになった。良彦はその烏に自分のおかずのきれっぱしをプレゼントしているのである。

「餌なんかやらなくたっていいのに。烏って頭いいんだよ。餌なんか自分で見つけられるって」

 僕がふくれると、良彦は再び烏の方に目を向けてしまった。烏はベランダの萎びた葉が植えてある植木鉢と並んで、良彦が煮た水っぽいカボチャをついばんでいる。朝の光に、黒い毛並みがつやつやと踊った。

「なんにしようか」

「え?」と僕が顔をあげると、良彦は笑いながら、「名前だよ」と言った。

「知るか。ふん」

 僕は味噌汁をちゃぶ台に置いた。途端に小さな滴がちゃぶ台の上に「てん」と飛ぶ。僕はその様をじっと見ていた。

「大学は、楽しい?」ふと、良彦が聞いた。静かな声だ。良彦は薄い卵焼きを箸で丁寧に切っている。僕はその仕草を密かに好んでいた。箸が卵に食い込む時の、ならめかな指の動きが何故か好きだった。

「楽しいよ。うん。まあまあね。……なんでそんなこと急にきくの?」

 僕はわざとと無意識のはざまで鬱陶しそうに尋ねてしまった。

「気になったから」良彦は言う。

「どんなことやってるかとかは知らなくてもいいけど、楽しいか嬉しいか悲しいか空しいか、そういうのが気になったから」

「ふうん」

 僕はなるべく関心がなさそうに聞こえるよう努めた。

 良彦と会話をしていると、僕は何時もこうなる。出来るだけ愛想のない人間に見えるように。その思いが、僕の頭の天辺にこびりつくのである。何故そうなるのかは自分でも理解出来ないでいるのに、僕はどうしてかそんな自分が嫌いではなかった。

「そりゃ良かった。良かった。良かった」だんだん尻すぼまりになりながら、良彦は言った。

 窓の外の淡い朝靄の中から、かあ、という声が聞こえた。もしかしたら、カボチャの最後のひとかけらを口に入れたこの烏を迎えにきたのかもしれない。

「なんか、父親みたいだよ」僕がはき捨てるように言ったと同時に、良彦は僕の小皿に胡瓜のおしんこをひょいと載せた。

「胡瓜嫌いって言ってるじゃん」

「嫌いなのとは好きなのよりたくさん付き合った方がいいんだよ」

「父親みたい」

 おしんこを、僕は御飯の上に載せた。おしんこは黙ったまま、徐々に御飯の出す真っ白な湯気に包まれていく。包まれるがままになっている。僕は少し悲しくなってくる。何故おしんこが悲しみを呼ぶのか、僕は知りたくもない。

「父親みたいなのはいやだ」

 自分の予測した言葉の強さと、実際に出てきた言葉の強さの違いに、僕は少し驚いた。見ると、良彦が薄く微笑みながら此方を眺めている。

「じゃあ何がいいの?何がいい?」言うと、良彦はゆっくりと一回、瞬きをした。

「……父親でもいいよ。良彦がそうしたいならね」最後の方は、声が小さくなった。

「俺はそんなに偉くないよ。父親が偉いものかどうかはわからないけど」

 そんな風に言いながら、良彦は俯き、そのあとは黙々と朝食を食べていた。

「じゃあね。行ってくるね。大学行くんでしょ?戸締りちゃんとしなよ」

 仕事へ出かける時、良彦は玄関先で靴を履きながら言った。

「ポン酢」

「なに?」居間から言葉を発した僕の方へ、良彦が振り向く。

「ポン酢、買ってきて」

「ポン酢ね」と言って、良彦はとても嬉しそうに、笑った。

 かあ、かあ、と、さきほどよりも烏の鳴き声が増えている。良彦が家を出て行った後も、僕はおしんこを御飯の上に載せたまま、ぼんやりと空を見つめていた。始まりの光が、窓の外から憎憎しい程僕を照らした。

 いつのまにか、烏は姿を消していた。迎えにきたのは、誰だったのか。もしかしたらあの烏の父親だったのかもしれない。

 僕は烏の声が途絶えるのを待ってから、おしんこを食べた。



 良彦は駅前のミシン会社に勤めている。休みは水曜日。給料は、少ない。雀の涙よりは多いかもしれないが烏の涙よりは少ない。

 僕は大学に通っている。大学に通い初めてまだ半年にも満たない。大学には白目の黄色く濁った先生達と、頭の一部分がませている沢山の生徒達と、退屈と、拘束がある。

 朝、アパートを出るときに、ごみの入った袋を持っていく。僕達はあまりごみを生み出さないので、その頻度は低い。しかし袋を持っていくのは大抵僕である。染み付いた共生の匂いが、こんなところにある。

 この日も僕が出掛けにごみ袋を手に持った。

 新聞もテレビもないので一日の天気は分からない。よって傘の必要・不必要の判断もあやふやになるのだが、良彦は僕の覚えている限りでは突然の雨にもその体を濡らしたことはなかった。

「空にね、友達がいるんだよね」良彦はいつかおどけてそう言った。

 紺色の良彦の傘は傘立てに収まったままだったので、僕は傘を持たずに家を出た。

 部屋を出た瞬間、向かいの部屋からの怒鳴り声が僕を包んだ。下品な響きをもった中年の男の声が、出てけ。戻ってくるな。おまえなんかいらねえという言葉を繰り返している。

 僕が階段を下りようとしたとき、その向かいの部屋のドアからはみ出すように体を捻らせて一人の青年が出てきた。青年は不愉快な表情をしていたが、僕と目が合うと少し歪んだ唇で笑顔をつくった。

「おはよう」

 青年は僕に挨拶をした。青年はアパート内で僕に会うといつも話しかけて来る。眉間に皺を寄せても、話しかけてくる。

 僕達の向かいの部屋に父親とふたりで住んでいる(らしい)青年である。眼がとても大きい。瞬くたびに長い睫毛が音を立てそうな、良彦のそれとは正反対の眼だ。

「あんたこれから何処行くの?」

「大学」僕は短く答えた。

「俺も」青年は柔やかに言ったが僕は笑わなかった。青年の目尻に黒く広がりつつある痣があった。

「嘘だろう」僕は言いながら階段を下りた。青年も色褪せたコートのポケットに両手を突っ込んで階段を下りる。

「うん。嘘だけどさ。大学なんて俺には行けない」

「ああ、その方がいいよ」

「これからどっか行かない? 大学行くのやめてさ。おごるし。女の子、紹介してやるよ。あんた、綺麗な顔してるから、女喜ぶよ。な」

 僕は青年をねめつけた。青年は動じない。一瞬、痣が急に肥大したように見えたのは気のせいに違いない。

「あんたは胡瓜と一緒だね。俺はあんたとは一緒にいないと誓うよ。俺は胡瓜が大嫌いだ」

 言うなり、僕は青年の反応も見ずに早足で歩き出した。



 大学に通っていて、楽しいと感じたことは一度もないように思った。それにも、つい最近気づいた。気づかないのは、多分望んでいないからなのだと、そう思うことにした。楽しくあれと思わない自分はおかしいような気も、しないでもない。だとすればもっともがいたり、苦しんだり、何かに怯えたりすればよいものを、僕の偏屈な心がそうさせないでいる。

 僕は、誰かと心が交わりそうになる時、誰かとお互いの履歴のようなものの中に相手の存在を入れ組み合いそうになるとき、いつも心が引いてしまう。たとえばグループ提出課題の原稿を息を切らせながら持ってきたとき、たとえば食堂の同じ机にほぼ同時に腰をつき、持っていたお盆にふたりとも狸うどんを載せていたとき、そのようなときに、僕に寄ろうとしてくれる者がいる。初めは何も思わない。むしろ僕は何処かでそれを嬉しく思っている。しかし、相手の口から「名前なんていうの?」という言葉が出た途端に、僕の胸はひっそりとその者から遠ざかっていくのだった。

 女に対してもそうだった。くっついているのは、体だけに過ぎない。そしてそれは磁石に少し似ていて、相手が自分に似ていれば似ているほど、僕はその者との関わりあいを避けた。

 路地の隅っこを烏が歩いている。大学へのこの細い道は、今日も昨日と変わらない。

 今日の昼は狸うどんにしよう。僕は今まさに飛び立とうとする烏を見てそう思った。

 ――きっと、良彦はN極で、僕はS極なのだろう。そうに違いない。良彦がS極で、僕がN極かもしれないけれど。

 見上げると、電線に止まった烏が、かかっと一声僕を笑った。

 顔の、右の目の上が、少し疼く。

 僕には右の眉がない。代わりに眉のあるべきところには長い、浮き上がった傷がある。そう遠くない昔――僕にとっては途方もなく昔のことだ――僕の親という人がこの傷をつくったのだという。

 今まで僕を自分の内に入れた女たちは皆が皆、この傷を触り、悲しそうな、しかし完全に満たされた顔をした。

 僕は女ではなく、その顔を、深く同情した。



 武原さんは、いらっしゃいますか。

 土曜の夜である。受話器の向こうから、女が言った。内心はどぎまぎしているのに、声は平静を保とうとしている。しかしそれを少しばかり失敗した、そんな声だ。

「いますけど……良彦のことですよね」僕が言った途端、女はあっ、そうか名前言わなくちゃいけないんだとまごまごと呟く。

「変わります」僕は不快になりながら言った。

「だれ?」

 声を聞きつけたのか、良彦が居間から出てきた。僕は玄関の靴箱に置かれた電話の受話器を良彦に押し付けた。

「電話だよ。武原さんに」

「たけはら」の音を強調して言い、僕は良彦の横を通り過ぎた。通り過ぎるときに、肩と肩が軽くぶつかった。「なんだよ」と一瞬僕を訝ってから、良彦は受話器に耳をつけた。

 僕は居間に戻った。ふと見ると、ちゃぶ台の上にミシンが載っており、その傍らに大小様々な布が散らばっている。

 良彦の勤めているミシン販売会社は、名前を言えば誰もが「ああ、あそこ」という声を漏らすようなその世界の大手である。しかし現実は「ああ、あそこ」という声に見合った栄光など所持していないということを、僕は良く知っていた。社名は皆の耳元に先回りして、良彦の勤めるような地方の店を素通りしていた。

 それでも俗世に手芸を生きがいにしている主婦や、母の手作り鞄に笑顔を輝かせる子供がいる限り、この仕事に誇りを持つのが良彦なのだということも、僕は良く知っていた。

 良彦が電話を終えて戻ってきた。僕は脇に投げ出してあったぺしゃんこの座布団を引きずり寄せ、良彦と向き合う格好でちゃぶ台の前に座った。そして、良彦が無言で布の群れから真っ黒な薄い布を取り出すのを見つめた。良彦は刃がわずかに錆びついた鋏で、ゆっくりと布を切る。切る度に、良彦は瞬きをした。

「ポン酢」

「え?」僕の唐突な呟きは良彦の気を引いたようだった。布と同じように黒い瞳が此方を向いた。

「ポン酢がどうかしたの」

「忘れたでしょ、買ってくんの。鍋が出来ない」

「明日買って来るよ」そう言って口の端で少し笑いながら良彦は僕から目を離してしまった。

 僕は窓から見える漆黒の夜を見つめた。遠くの道路で、自動車が闇に唸り声を上げている。その車を運転している人の胸はいまこの瞬間、幸せに満ちているのだろうか。それとも孤独に囚われているのだろうか。どうでもいいようなことが、しかしとても心にひっかかることが、僕の頭にぷかぷかと浮遊した。

 体の奥底が不安になる感覚というのは、穏やかな何気ない時間と全く別のところにあるように見せかけておいて、そうではない。僕の不安な感覚は、穏やかな時間の真ん中に、幸せの物質を漏らす穴のように現れた。すると僕は、自分がその穴に落ち込んでいく気分になる。誰かと一緒にいるときは、その相手もそのような気分になっていてくれれば良いのだが、そうなったことは一度もなかった。そして更に、僕は不安になった。

 闇の中から今度は、犬の遠吠えが聞こえる。目の前からはかたかたとミシンの音がする。良彦は黒い布を楕円に切り抜き終え、ミシン縫いに取り掛かっていた(スピードは「遅」だ)。

「これ、なに」

 僕はミシンの脇に置かれた四角い袋状の物体――これも色は黒だ――の袋になった所に人差し指を突っ込み、くるくると回した。

「かたかた」と重なった良彦の声が答える。

「まわすなよ。それは……ポーチだ」

「には見え難いけど」

 僕の辛辣な評価にも関わらず、良彦はまた口の端で微笑をつくった。その途端今、幸せかと良彦に聞きたい衝動が体のなかに駆け巡ったが、僕はそれを踏み止まった。踏み止まったことで僕は喉が痛くなった。ずん、と痛くなった。

「ポーチを作ってね、売りにいく家の人に見せるんだよ。こういうのが作れますってね。そうすると売れるかもしれないだろう」良彦は穏やかに言った。

 良彦は毎日ミシンを訪問販売しにいく。不景気の最中で、ミシンを買ってくれる家は、少なかった。

 不器用この上ない作り手から、不恰好この上ない作品がまたひとつ、生まれつつある。

「これじゃあ買ってくれるとは思えないね」

 痛む喉から送り出した言葉はまたもや嫌味だった。

「毎日相手にもしてくれない家にミシン買ってくださいって繰り出していくことって楽しくないだろう?何で生きてるんだろうとか思うだろう?それとも僕の為だからそんなことちっとも思わないとか言うわけ?」

 ミシンの音が静かに止まった。僕は良彦をじっと見据えた。本当は良彦の反応が恐くて恐くて今にも顔が崩れそうだったが、僕は良彦の眼を見つめていた。僕はやっぱり偏屈だ。

「お前の為だからそんなことちっとも思わない」

 良彦はいままで僕が聴いたこともないような挑戦的で、そして悲しげな言葉の出し方をした。

 僕は目を、逸らした。

 犬の遠吠えがまた、僕の鼓膜を震わせた。

 良彦は黙って立ち上がり、台所ヘ行った。僕は良彦がカップやら砂糖やらを取り出す音を頭の何処かで聞きながらミシンを眺めた。

 布は、体中に糸の「傷跡」をつけられている。その傷跡は、僕がまわしたポーチよりも真っ直ぐ、綺麗になっていた。

「俺は毎日楽しませてもらってるよ」

 良彦は言って、台所の暖簾を前かがみでくぐり抜けて来た。その丸めた良彦の背が、昨日よりも萎んでいる。痩せている。

「楽ませてもらってる?」僕は弱い声で尋ねた。

「うん」良彦はすぐに嬉しそうに答える。

「お前にね。ずっと一緒にいるのに、いきなり「ポン酢」って言ったり、何で怒るのか分からないときに怒ってたり、そういう訳がわからないところが楽しいよ」

「俺のこと、理解出来ないの?」

「うん。でも、理解出来ないってことを理解してるよ」

 良彦は僕にではなく、僕の不安定な心に向かって言った。良彦は微笑んだ。僕は背後を振り返りたくなったけれど、思い止めた。

 絶えられず窓を開け、ベランダに出ると、空には星ひとつ無かった。萎びた葉が植えてある植木鉢に、黒い陰が落ちている。雲と天がこしらえる今日の夜は、何故こんなにも闇が深いのだろう。

「烏、今日来なかったね」僕は振り返らずに言った。良彦は答えない。変わりに鋏を使う音がした。

「食べ物、やってたのにさ。おーい。烏。何処にいるんだよ。何処で寝てるんだ。烏ー。」

 僕は夜に叫んだ。子供のように何度も叫んだ。夜は冷たく沈黙を返す。空の答えは何時だって沈黙だ。良彦の答えは何時だって優しい。握りしめた柵の赤錆が、手のひらの中で剥がれ落ちるのが分かった。

「おい、止めな。近所迷惑だよ」

「烏の馬鹿野郎。お前なんか黒いばっかりで何の役にも立ってないんだよ。烏の馬鹿野郎」

 突然、足元で灰色の虚ろな陰が揺らめき、後ろから僕の口を塞いだ。良彦は右の腕を僕の前にまわし、その大きく痩せた掌で僕の口を塞いだ。背中に、薄い温もりを感じる。

「やめなさい」

 僕はその冷静な声に興奮して、良彦の指を握り、しわぶりついた。良彦が何も言わないので、僕はしわぶりつづけた。哀しいという感情を忘れようとしながら。

 電信柱の間を縫って、滑やかで優しい秋の夜風が僕らを包み、そばあたりの木々がその手足を揺らす。良彦の黒髪も、きっとはためいていることだろう。そう思ったとき、良彦は再び「やめなさい」と言った。哀しげな声だった。僕が口を離しても、良彦は腕をまわしたままでいる。

「電話の人。どんな、人なの?」

 良彦は黙っていてくれた。

「セックスは、した?」

 僕は何をしているのだろう。

「理解出来る人なの?」

 良彦が何かを言う為に息を吸い込む音がした。しかし、良彦はその息を小さく外へ押し戻し、その瞬間の言葉は永遠にこの世から消え去った。

 薄い温もりはいつの間にか冷え切り、風以外に動いているものは無かった。

 夜の町はひっそりと、良彦と、自動車の運転手と、烏と、僕を、抱いていた。



 僕はアルバイトを探した。あまり大きくない町なので、あたる場所はだいだい決まっている。書類を送り、面接を何度か、受けた。

 面接を受けるたびに、大人たちが僕の目の上の傷をちらりと見た。傷をしっかりと見る者はいない。たいがいの者は、ちらり、とあまり眼を開かずに見る。

 面接へ行くためアパートを出ると、ときおり向かいの青年を駐車場やゴミ捨て場で見かけることがあった。前よりもっと黒ずんだ目尻の痣を気にする様子もなく、青年はどこか落ち着いた面持ちで煙草を吸っていた。整った顔に重なる煙が悲しく似合っていなかった。

 風が叫び声のような音を出し、人々の服が煽られる天気が続いていた。急激に古り行く僕らのアパートは隙間風にがたがたと声をあげ、でどころ知らぬ広告紙やビニル袋がおもての路地をぐずぐずと進んだ。烏もとんと姿を見せない。もしかすると僕の悪態を聞いていたのかもしれなかった。

 良彦はある日中古のラジカセを買った。「なんで急に買ってきたの」と僕が訊ねると、良彦は「前に欲しいなって言ってたよ」と言った。記憶に、無かった。

 こんなことが、前にもあった。良彦が僕の些細な些細な過去を覚えていることが。良彦は僕の記憶の箱から漏れ出た事柄を、心の掌で掬い上げて貯めて置いてくれるのだ、きっと。そして僕が忘れたいことや、忘れなければいけないことも、良彦はきっと覚えているに違いない。僕はそう思った。

 ラジカセを、僕は自分の枕元に置いた。そして毎夜、蒲団に入ってからの初めの数分間だけ、赤色のスイッチボタンを押し、ラジオ放送の音に耳を傾けた。良彦はミシン会社以外にも、夜の道路工事の仕事をしていたので、帰りが深更になることがあった。そんなときは、ラジオの見知らぬ人間の声が、僕ひとりきりの部屋のなかに幻のように漂い、流れ、そして響き、僕の見つめる天井を憂いの色に塗りつぶしていった。



 見上げた空に、雨を落としそうな深い灰色の雲が充満している。

 白日のもとで女の子と落ち合い、どこか断片的に重なり合い、その後日が落ちてアパートへと帰る道で見上げる空だ。

 ある火曜の、午後七時である。店鎖頃の小さな商店街には、遠くで子供が帰り際の駄々をこねる声と、シャッターが降りる乾いた音だけが響き渡っていた。静かで、甘ったるい風がそよそよと吹いている。

 僕は商店街の入り口にある電信柱の暗がりに、ひっそりと立っていた。誰を待っているわけでもなく、ひっそりと、立っていた。あと十分も歩けば、アパートに帰り着くことが出来る。けれども僕はまるで誰かを、何かを待っているふうにそこに立っていた。

 あなたといると、なにか、とてつもなく大きなものを征服したような気分になる。先程、女の子の口からぽろりと漏れ出た台詞が、僕の耳の中を漂った。それ、どういう意味。僕は女の子に聞いた。わからない。でも、なんか、満たされた感じ。女の子は含み笑いをしながら言うと、僕の眼の上の傷を指で優しく押し、悲しそうな、そして完全に満たされた顔をした。

 子供の声が消えている。シャッターの降りる音が、夜気に冷えた耳に染みた。白々しい照明に照らされた商店街から、ひとつ、またひとつと人影が闇に消えていく。

「健」

 呼ばれた自分の名前は、自分の名前じゃないみたいだった。

「健」

 振り向くと、良彦が立っていた。少しくたびれたジャケットを着て、脇腹のあたりに、スーバーのビニル袋を抱えている。風に乱れ、額にかかった前髪が、随分と伸びていた。

「どうしたの」良彦の声が空気に溶け込んでいく。

「ううん。どうもしない」僕は答えた。

「帰らないの?」良彦が言った。

「帰らないの?」僕が反問すると、良彦は少し、笑った。

 僕はその顔に、良彦と出逢った頃のことを思い出す。淡く淡く、思い出す。ぐしゃぐしゃの雑巾のようだった僕を、自分の履歴のなかに書き込んでくれるのは、後にも先にもこの男だけだろう。僕はそのことを、淋しく思った。そして嬉しくも思った。

「やっと買ってきた」僕が言うと、良彦は電信柱の上の方を見上げていた顔を下ろし、僕を見た。

「それ」僕はビニル袋を指差す。なかにはポン酢の瓶が入っていた。良彦は黙ったまま瓶をちょっと持ち上げて見せ、微笑んだ。

「すこし、見て回らない? そこのレコード屋とか」僕は言い、商店街の灯りの中へと踏み込んだ。

 まだいくつかの店が開いている。ショーウィンドウが派手に飾り付けられた洋装店。細長いビルの一階のレコード店。靴下やタイツばかりを売っている小さな店。美味しいサンドウィッチが自慢のパン屋(ほとんどのパンが売り切れている)。

 レコード店では、二人で、中の音楽などまったく関係なしに、CDジャケットのデザインに勝手な評価をして回った。「この写真は加工があまりよくないね」と僕が言えば、隣で良彦が

「こっちのは構図が絶妙だ」などと言ったりする。そのうち楽しくなって来て、僕はすっかりはしゃいでいた。邦楽のコーナーを品定めしていると、良彦が店の、二階へと続く階段下の小さな棚から僕を手招いた。

「これ、いいね」

 良彦が手にしているのは、黒く塗り潰された背景に、黄色い足跡がついているというジャケットのアルバムCDだった。

「CDプレーヤーを買ったときは、最初にこれ聴こう。いつになるか分からないけど」良彦は笑いながら、言った。

 レコード店を出て、商店街の道をふわふわと歩いた。閑散とした商店街は心地よい。

「良彦はさ、どういう女が好きなの」と、僕は話しかけた。

「なに、急に」良彦は驚きの笑みを浮かべながら僕を見、面白がるような口調で聞く。

「べつに。ちょっと聞いてみたくなっただけだよ」

「お前はそんなこと絶対聞かないと思った」

「俺もそう思ってた」僕が言うと、良彦は俯いて、ふっ、という笑いの息を漏らした。

 落ち着いた空気のなかに、僕は気配を感じ取りながら歩いた。まだ開いている店から放出される、気配。人間の、人間臭い気配。しかしどんなに近くにあってもその気配は朧だ。はっきりとしているのは斜め後ろを歩く良彦の気配だけなのだ。自分自身の気配さえも、良彦とあるときは、霞んでしまう。すっと、霞んでしまう。

 街路灯に蛾が屯している。先に居た小さな蛾の上にあとから来た大きな蛾が覆い被さって、小さな蛾を違う場所へと押しやったりしている。

「前に、ひどく好きだった女がいた」良彦が突然、言った。

 良彦の声に、僕の歩みは遅くなった。すぐに、そのまま歩き続けている良彦と並ぶ。

「もう過去のことだけどね」良彦は幼い記憶を楽しむように、付け加えた。

「表情をまったく崩さない女だったな。彼女をよく知らない人から見れば、まるで威張ってるように見えてたかもしれない。派手なことがとことん嫌いで。俺が誕生日に赤のコートを買ってやったら、『着てて落ち着かないから一生着ないわ』って言ったんだ。でも彼女はそれを捨てずいるんだ。『着ないなら捨てればいいじゃないか』って俺が言うと、『それはもったいなから一生しないわ』って答えた。そういう奴だった」

「一緒に、暮らしてたの」僕は聞いてみた。良彦はそこでやっと僕の目を見て、喋った。

「少しだけね。でも俺たちは最初から身構え過ぎてた」

「身構え過ぎてた?」

「うん。いつだって気にしてたんだ。いつ一緒にいられなくなるかってことを。多分、相手も俺を好いてくれてたと思うよ。だから壊れるときには俺が傷つかないようにって身構えてくれてたんだと思う。俺も好きだったから、彼女と同じことをしてた」

 良彦は、僕にというよりも、記憶と成り果てた女に向かって呟いている。そう思いながら、僕はじっと、良彦の肩のあたりを見つめていた。

「それで、どうしたの。どうやって、別れたの。傷ついたの? 二人とも」と僕は言った。

 商店街の、中ほどにある、寂びれた公園のところまで来ていた。公園の浅い闇に、ホームレスの人間たちのしっとりとした影がある。良彦は歩き続けていた。僕も歩き続けていた。

「いなくなったんだ。俺の部屋で。死んだんだ」

 風が強い。いつの間にか、強くなっている。頭の奥が、奇妙に揺れた気がした。僕は立ち止まり、良彦を見つめた。良彦も立ち止まり、僕を見つめ返した。その眼のなかに、密やかな、しかししっかりとした暗いものの動きを、僕は見た。

「良彦が、殺したの?」

「お前は、そう思うの?」良彦は静かに言葉を返す。

 喉もとに何かが渦巻いて、言葉が出なくなっていた。僕はそのままじっと立っていた。じっと立っていると、哀しくなって来た。良彦のことが、良彦という人が、ときどきすごく遠くなる。良彦は僕のことを理解出来ないと言ったが、ほんとうは僕が良彦を理解していないのだ。けれど僕と良彦は違う。良彦は僕を理解出来ないことを理解している。ちゃんと処理している。だが僕は違うのだ。僕は理解したいと思う。それは、理解しなければ他に理解しようとするものなど無いからなのかもしれない。そうではなくて、そんなことほんとうはどうでもいいのかもしれない。どちらとも僕には見当がつかない。そのことが、僕はずっともどかしかった。

 僕は下を向き、ゆっくりと首を振った。

「帰る」

 僕は言って、歩き出した。何も見ずに、歩き出した。しばらくして僕は駆け出した。商店街をすり抜け、コンクリート塀の続く真っ直ぐな路地を走り抜け、ひたすらに暗闇の内のなにかを振り切った。いつしか空が唸り声を上げ、地面が斑に塗れ、やがて天地の間は雨に埋め尽くされた。

 良彦は傘を、持っていなかった。



 雨の、匂いがする。今は雨は降っていない。黒々と濡らされた地面が、少し酸っぱいような雨の匂いを放っているのだ。

 僕は窓の近くの床に座っている。この家に、たったひとつだけある窓。ベランダの植木鉢には雨水が溜まり、溶け合った土と泥水を作り出している。その上に、ゆらゆらと色褪せた葉が浮かんでいた。

 良彦は、朝から何処かに出かけて行った。昨夜、良彦がどのようにして帰宅したかを僕は知らない。僕が寝てしまったあとに帰って来たのだろう。

 朝、顔を合わせても僕たちはお互いに平然としていた。良彦が「おはよう」と言い、僕も「おはよう」と返した。どんなことがあっても、朝になれば、月が沈んで太陽が蘇れば、僕たちはいつもの生活というものを取り戻す。顔を洗い、朝げを食べて、歯を磨く。小皿の上に「ひょい」とおしんこを載せる。ちゃぶ台の上に、味噌汁を「てん」と飛ばす。それが僕らにとって共に生きているという証拠であり、ふたりでいるということのすべてになる。それでも、僕はそのことが哀しかった。とても、哀しかった。

 空が、低い。太陽が見当たらないのに、光が強い。眼を閉じると、瞼の裏が橙色一色に染まった。僕は手を顔の方へもっていき、眼の上の傷を、触ってみた。何も、感じない。傷がただ、そこにあるだけだ。何も感じないので、手を下ろそうとしたとき、玄関のベルがけたたましく鳴った。

「よお」

 扉を開けると、そこには向かいの青年が立っていた。細い体に薄いシャツ一枚の姿が寒々しく、色の薄い肌は廊下の窓から届く明るい午後の色に塗り込められていた。

「なに」僕はそっけなく言い放ち、目の前の大きくて澄みきった眼を見据えた。青年に僕の視線は通用しない。

「女と遊ばない? なんて聞かないから安心しな」

「だれも恐れてなんかないよ。あんたなんか」

「だったらその無愛想な顔なんとかしたら」

「あんたにそんなこと関係ない。それに、女なんて、いくらでもいるんだろう」

「まあね、ざっと三十人くらいは」

「きっと呪われるてるね」

 青年は軽い声ではははと笑った。笑いながら、青年は片手に持っていたスーパーの袋を自分の胸のあたりまで持ち上げ、「これ、あんたにあげるよ」と言った。

「それ、なに」

「胡瓜」青年はこともなげに答えた。

「嫌がらせのつもり?」

「いいや」

 青年は驚くほど深い声で真剣に言った。その声に思わず戸惑い、戸惑いが湧き出たことに怒りを覚え、僕は前と同じように青年をねめつけた。眼の上の傷が、鈍く痛み始めている。僕は掠れた声で言った。「帰れよ、あんたなんか見たくない」

 背後の開け放した窓から、鳥の鳴き声が聴こえて来る。その音はいつもより明確な響きを持って、僕たちの沈黙を埋めた。

「俺はさ」

 青年の言葉を感じながら、僕は青年の体を見つめた。右の手の甲に、大きな火傷の跡があった。鎖骨の上に、引っかいたような傷が無数に、あった。

「俺は、誓えるよ。俺とあんたは違うものだってね。だからきっと俺ら、友達になれるよ」

 静かに言うと、青年は黙ったまま僕に胡瓜の袋を優しく押し付け、出て行った。

 僕は閉まった扉を、しばらく空虚な胸で見つめていた。それから、台所に行った。台所のシンクの横に胡瓜の袋を置き、そこに立ち尽くしたまま、冷蔵庫の発する低いブーンという音を、ぼんやりと聞いた。

 台所から居間へと続く入り口の暖簾が、風に弄ばれている。僕は暖簾をくぐり、居間へと入った。

 ベランダの隅に、動くものがある。僕が歩み寄っても、それは飛び立とうとはしなかった。

「お前、あのときの烏?」

 しゃがみ込んで烏の顔を覗き込むようにする。烏は傍の植木鉢のなかをしきりに突くばかりで、僕をまるきり無視している。

「お前、変だ。普通はすぐに逃げるんだろう、とりっていうのは」

 烏の代わりに、薄っすらとした救急車の音が答えた。空が夕色を滲ませはじめている。

「お前も、偏屈なんだな」

 ベランダに伸びる僕の陰と烏の陰が交わり合う。烏は一瞬、喉の奥で鳴いた。

「俺、もうすぐここから出てくから。もう、すぐ。馬鹿って言って、ごめんな」

 僕は手を伸ばし、烏の艶やかな背に触れようとした。その瞬間、烏の羽がひらりと持ち上げられ、烏は急に己が烏であることを思い出したように広い空へ舞い上がった。闇いからだ全体に光を受け止め、その姿がふりしぼったように鳴きながら霞む地平線を目指したとき、烏は完全に烏へと成り返っていた。



 僕は、部屋を出た。部屋を出て買い物をした。あの商店街。その一駅先のショッピングモール。その二駅先の繁華な通り。

 行く先々で、良彦の好きなものを買った。一緒に暮らし始めてからの数年間、少しずつしか使えなかった小遣いを形にしていくことは、凝り固まったある思いをゆっくりと溶かしていくことだった。それが例え僕の独善だったとしても、それ以外に僕が出来ることなどなにひとつなかっただろう。

 僕は買い物の最後に商店街に立ち寄った。そこで僕はスリッパを一足と、あのCDを、買った。家路につく頃には、財布の中身は一円玉五枚だけになっていた。



 誰かの足音が近づく。足音はしめったコンクリートの床に、深く響いた。僕は荷物を両手に抱え、ドアの前に立ったまま振り返る。足音の主は、まるで僕がそこにいることを知っていたかのように、角を曲がったところで静かに歩みを止めた。

「どうしたの、そんなところで」

 良彦は呟くように言った。暗い。良彦の輪郭が定まらない。それでも、やはり良彦の気配は僕のもとに強く届いた。

「どうもしないよ」僕は答えた。

「買い物に、行ってたの」良彦の声が言う。

「うん、色々」

「たくさん、買ったね」

「うん。最初で最後」僕は笑いながら言ったが、良彦は黙っていた。

 薄蒼い闇が、夜の前にほんの少しだけ出ることを許される薄蒼い闇が、僕らの上に覆い被さっていた。僕は良彦の癖を真似て、ゆっくりと一回瞬きをした。そうして目を開いて見ても、良彦の輪郭はほとんどが闇に溶け込んでいる。微かに見える良彦の美しい黒髪だけが、雨のなかの烏の羽のように、濡れて、淡い光を放っている。

「外、雨降ってるの?」

「ううん、降ってない」

「色々、買ってきたよ」僕は楽しげな口調で言った。

「全部、良彦のだから」

 両手いっぱいに抱えた腕に力を込めると、袋がくしゃりと音を立てた。僕は荷物のなかをまさぐり、良彦が以前読みたいと言っていた本を取り出そうとした。しかし、実際に取り出しのはあのアルバムCDだった。触ると、ひんやりとしている。帰り道に、冷やされたのだ。

「プレーヤー持ってないのに買っちゃったんだ」

 僕の差し出したCDを、良彦は静やかに受け取った。表情が読み取れない。淋しいとも哀しいとも呆れているともとれない、けれどきれいな表情。嬉しいという表情ではないことだけは、わかった。

「でもいつかきっと、聞けるよ」と、僕は心から言った。目の前から放出されてくる気配が、苦い。苦くて、優しい。

「ほんとうは俺たちは、同じものだったんだね。だから一緒にいちゃ、いけないんだ」

 僕は呟いた。呟いたとたんに、自分は世界で一番の愚か者なのだと、思った。冷え冷えとしたアパートの廊下で、僕は受け入れたくない真実に震えそうになった。

 良彦は僕の方へ近づいた。近づいて、腕を伸ばし、僕のうなじを、揉んでくれた。僕は思い出す。自分の昔を思い出す。思い出すのは、僕が歩み寄ることを放棄した親や、完全に満たされた顔をした女たちや、たくさんの傷を持った向かいの青年のことだ。あたりにおりてくる黒い闇は、薄蒼い闇をゆっくりと塗り替えていく。まるで僕の気持ちに答えてくれているように、ゆっくりと塗り替えていく。

「もう向き合わなくていいよ。大丈夫だよ。もう、安心していいよ」

 良彦はしっかりと囁いた。僕は少し泣きそうになったけれど、泣かなかった。叫びもしなかった。罵りもしなかった。一秒前の過去でさえ、生まれた頃のことのように遠くに感じ、一秒先の未来でさえとても冷たいもののように感じられた。僕は目を閉じながら、今もこの時間のどこかにいるであろうあの烏のことを、思った。

「お前といれて、よかった」

 良彦のからだから、女の匂いがする。匂いから、女の姿を想像した。女は微笑みながら僕を呼んでいる。赤いコートを着て、僕の名を呼んでいる。

 僕は聴こえてくる良彦の小さな泣き声に、自分の存在を、そっと、委ねた。

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烏髪 鳥山留加 @toriyama_lukas

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