言論の自由とユダヤ陰謀論の誤解。
前書き
今回から、『ユダヤ陰謀論』の誤解や『言論の自由』の誤解などについて語っていきます。
まず、言論の自由についての説明する。
言論の自由は当然ながらあった方が良いのは確かであり、それがあるから悪い点を指摘できるものだといえる。
つまり、その様な指摘をやりやすくする為に言論の自由が必要だといえる。
しかし、言論の自由といっても限度はあり、特定の宗教を侮辱した風刺画(シャルリ・エブドによるムハンマド風刺画など)や他人を差別する行為などの公共の福祉に反する言動は決して言論の自由とは言えないのである。
つまり、言論の自由を通すには公共の福祉を尊重した上で話を進めなければならない。
よって、シャルリ・エブドみたいに風刺を装った侮辱行為は『言論の自由』に値せず、寧ろ言葉の暴力としての側面が見られている。
事実、フランスの思想家であるエマニュエル・トッド氏がシャルリ・エブド事件の背景にはフランスでの『宗教的価値観』の崩壊や『世俗化』、それに伴う特定の人種・宗教への恐怖心が相まって洗われる心理なので、宗教の崩壊は新たな差別を探す危険性があり得る。
無論、前述したようにアメリカプロテスタント右派が軍需産業と密接し、戦争をやり続けている事やスンニ派のイスラム過激派支援などは許される事ではない。だが、宗教的価値観の崩壊は社会のあらゆる弊害を生む事は次々と証明されている。
それは特定の宗教から発信される『ユダヤ陰謀論』、『同性愛合法化』、『民族主義の拡大』、『過度な個人主義』などが発生しやすくなる土壌が生まれるのである。
なので言論の自由はどこまで許されるのか考えてみよう。
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