愛日
深夜太陽男【シンヤラーメン】
第1話
○
『災害で消えた街』と聞いたら、何を想像するだろうか。
母の運転する車は舗装し直された道路を進む。助手席に座る私は流れていく曇天の空をただ呆然と眺めていた。新しい街へ引越し、そこに暮らすことに期待はなかった。むしろ倦怠感のほうが強かった。
受験生へと進級する直前、父と母が離婚を決めた。そして母の生まれ育った街へと転居することになった。この街の名前を言えば誰もが『あの災害があった場所』と必ず思う。中学生の私でもその話は散々聞かされてきた。
母とその家族が『その日』の前日に引っ越したのは本当に偶然だった。人生はタイミングでしかない。
「いやー、やっぱりお母さんが知ってる景色とは全然違うね。道路も建物も全然綺麗」
「お母さんがいた頃なんて、もう何十年も前じゃん」
「何十年はないよ。いや、そんなに経つか。今のアユミと同じ年齢くらいのときだったし」
『その日』以来、街は名前だけの存在になってしまった。瓦礫が除去され線路も道路も早い段階で復旧されたが、人はなかなか戻って来られなかった。中身を伴わない復興計画。人が増え始めたのはここ数年の話だ。
「やっぱり乗り気じゃないですか?」
「そりゃあ元々のトコに住み続けられるならそれが一番だけど。私だって大人の事情くらいは理解できるよ」
「納得はしてない?」
「時間かかりそう。できればなんだけど、学校すぐには行きたくない。ちょっと、休みたい」
「いいよ。子供の事情には理解ある大人だから」
車の振動でペットボトルの中のお茶が揺れている。液体は容器に合わせて簡単に形を変えられるけども、私はそんなに器用じゃない。この街で暮らすことと、この街についてくる諸々と向き合う後ろめたい気持ちに私の心はまだ追いつけなかった。
カーナビの音声案内は目的地までの距離を告げる。
「まだまだ遠いなあ」
「あっという間よ」
誰かが描いた地図でもなく眼前の殺風景でもなく、母の視線はどこを捉えているのだろう。
○
「じゃあ仕事行ってくるからね。残りの荷物、いい感じに整理しといてね」
「はいはい」
「引きこもってないで散歩でもしてみたら?」
「いいよ、寒いし」
「そう言わないでさー。ちゃんと日光浴びて外の空気も吸わないと」
「あー! 植物じゃないんだから。ほらほら、早く出ないと遅刻するよ」
こんなやりとりが長引くのは容易に想像できるので早々に母を追い出す。綺麗すぎる新居はどこにいても落ち着かず、自分の家だというのに迷子の気分だった。
「早く慣れなきゃなあ」
積もり重なったいくつかのダンボール箱を開けて中の荷物を整理していく。すぐに見つけやすいように、使用頻度の高いものとそうじゃないもの、頭を使いながらの作業は変なことを考えなくて気分が楽になる。しかしそれもすぐに終わってしまう。片付けを終えて私は日向が差し込む窓辺に寝転がった。このまま昼寝でもしてしまおうか。自分の人生の残り時間は幸福と勘違いする怠惰でどんどん蝕まれていくのだろうなと、どうしようもないことをぐるぐると考え込む。猫のように生きられたらどんなに気が楽か。
冬の日、太陽が顔を出してくれる時間は短い、そういう惜しまれる時間を『愛日』と呼ぶ。
そんなフレーズをふと思い出した。何かの小説の一節だった気がする。気になりだしたら落ち着かなくなり、私はせっかく整頓したばかりの本棚を散らかしてしまうのだ。
それは古い文庫本だった。母の愛読書の一つで私も何度か読み返していた。茶色く焼けた背表紙には愛着がある。ラベリングにはなんとこの街の図書館の名前が記されていた。
立地条件から災害の直撃を免れて、当時の建物のまま運営されているこの街唯一の図書館だ。いくら何十年過ぎようと、借りたものはちゃんと返却せねばなるまい。私は母に代わってこの本を返しに行くとする。
○
その図書館は奇跡と言ってもいいくらい、当時の形状を維持していた。まるで昔の空気をそのまま閉じ込めたタイムカプセルみたく。閉館間近の時間帯でも受付からは馴染み同士の会話、親子の和気と老人の穏やかな佇まい。寒い寒い冬季の下校みたく、帰ってきたときの暖かさを感じさせた。
私はここに居ていいのだろうか。気を使う必要などないはずなのに、居心地の悪さに私は萎縮した。うん十年前の本を返却だなんて、やはり怒られるだろうか。背の低い本棚と対面しつつ私は固まっていた。
「サツキか?」
背後の声は誰かを呼ぶ。私の向こうに誰かいるんだろう。
「おいって」
肩に触れる手、私は反射的に振り返れば同年代くらいの少年がいた。
「人違いだと思うんですけど」
「あっ、人違いでした。後姿が似ていて」
「そうですか」
私は会釈してその場をそそくさと離れる。しかしウロウロしていれば先ほどの少年が視界に入る。なんだか気まずい。というか、少年のほうが追いかけてきているのではないか。
「あの」
「うん」
「何か用ですか」
「いや、見ているだけだ」
「ストーカーまがいですよ」
「そんなに気にしないで」
「気にします」
「本当にサツキではない?」
「ないです」
「よく似てる」
「知りません」
「双子?」
「私は最近引っ越してきたばかりなので」
「そうか、じゃあ生き別れの双子かもしれない」
「そんなことはありえないです」
「サツキもさ、最近この街から引っ越してしまって」
「はあ」
「俺は寂しくて死にそうなのだ」
「知らんがな」
「そんなこと言わないで」
「失恋男の陶酔ほど気持ち悪いものはない」
「君は辛辣な人だ」
「そちらも初対面の人になにぶっちゃけってるんですか」
「君は初めて会った気がしない」
「古臭いナンパですね。じゃあ」
私は逃げるようにその場を離れた。人見知りの私がストーカーまがいとの接触、冷や汗が止まらなかった。なんなのだ、一体! 本は手元にあるまま帰宅。さて、どうしよう。
○
次の日も私は図書館へと出向いた。平日の真昼間、学校だってまだ春休みの時期ではないはずだ。あの変な少年に出くわすこともないだろう。
図書館での本の返却は入念なチェックがあるわけでもなく、ただ受け付けに渡すだけの簡素なシステムだ。これならそっと本を返してすぐ帰れば何か言われることもないはずだ。簡単なことなのでいつでもできる気がしたし、この本を返してしまったら次はいつ読めるのか急に心細く思い、私は窓際の席で小説を読み返すことにした。長い内容でもないし少し時間をかければ読み終わってしまうだろう。しかし私の集中力は陽だまりのポカポカに削がれてしまい、その場でうたた寝をしてしまった。
「冬の日、太陽が顔を出してくれる時間は短い、そういう惜しまれる時間を『愛日』と呼ぶ」
近くで声がしたので目を覚ました。対面の席にあの少年が座っているではないか。
「まさにその小説の言うとおり、もうすぐ閉館時間だ」
「げ」
確かに外はもう夕暮れだ。寒そうに風も吹いている。
「まどろむ姿は猫の如し」
「寝顔、見てたんですか。悪趣味」
「うん、豪快にヨダレを垂らしているのを拝ませてもらいました」
「あ!」
私は口元を覆う。屈辱!
「いつも、いるんですか?」
「図書館がやってるときなら、基本的には」
「学校は?」
「君がそれを言うか」
「ああ、じゃあ家庭の事情ってやつで」
「じゃあ俺も。一身上の都合ってやつで」
「便利な言葉」
「そう、大人は子供に便利なものを使いたがらせない」
目の前の彼は変人ながらも、どこか大人びていた。同年代の男子よりかは全然落ち着いている。悪い人ではなさそうだ。
「君は、学校にも行かないし家でも居場所がない系女子なんだな」
「簡単にまとめないでください」
「時間の潰し方を探しているんだろう。オススメ書籍を教えてあげるから読破するといい。青春時代のほとんどが潰せる」
「余計なお世話だし、あなたのような暗黒青春は送りません」
「失礼しちゃうわ」
「思い人にフラれるわけだ」
「違う! まだそうと決まったわけじゃない」
「未練たらたら」
「待つのだ。耐え忍び待つのだ」
閉館時間のチャイムが館内に鳴り渡る。ゾロゾロと人々は帰路に着き、寂しげな景色とオルゴールの音楽が彼の脳内ポエムを乱筆させているのだろう。哀れなり。
声をかけることなく私たちは別れたが自然とまた明日会える確信があった。結局、本は鞄の中のままに返すのを忘れていた。
○
それから、自分でも驚くが私は図書館に通い変人の彼が用意した必読リストを漁り始めていた。元々は家にいたくないだけだったのだが、暇つぶしと思っていた読書にも夢中になっていた。図書館に篭りながら私は世界中を歩き見聞を広げているような気になっていた。
「しかし本を読んでいるだけではただの頭でっかちだ。実経験が伴わないと」
「何の話ですか」
「恋人というのはやはり都市伝説なのか」
「きもっ」
考える間に口から出てしまった。彼に睨まれる。色恋が人をダメにするとは言うがその実例が目の前にいる。本人の前では絶対に絶対に言わないし言いたくないが、彼は見た目だってそんなに悪くないし博識で子供っぽさもなく、まあ女性視点でも良い人の部類に入るだろう。失恋でネチネチしていることを除けば。
「失恋ではない」
「じゃあなんなんですか」
「君は恋愛相談とかそういうの受け付けてくれるか」
「聞いて相槌打つだけならしますよ」
「それだけでも救いだ。話そう」
特に興味があるわけでもなく聞きたいわけでもなかったが彼は勝手に喋りだした。しかし古典的文豪の小説のような言い回しで主観に美化されたエピソードは甘すぎて吐き気がした。図書館内であることを踏まえて静かに喋るよう彼は努めているだろうが、やはり長ったらしい演説は他の人の迷惑になるだろう。私は周りの人の視線が気になりだし彼を制止した。
「要するに、ですよ。たまたま図書館でよく会う女の子と仲良くなって気になりだしたときにその子が引っ越しちゃってまた会えないかなーと気持ち悪く期待してるだけじゃないですか。なんでそれだけのことに二時間近く語ろうとするんですか」
「不服だが非常に的確だ。君、現代国語とか得意だろう。残りあと三時間分もまとめてくれ」
「もういいです、聞きたくない。連絡先とか知らないんですか?」
「知らん。だから困っている」
「同じ学校ならその子の友達とかに聞けばいいじゃないですか。何かしら知っているでしょうに」
「そんな簡単にコミュニケーション取れる人間はな、こうやって毎日図書館に通って本の虫にはなってないのだ」
「堂々と自分を肯定しないでください。向こうの引越し先とか何か情報は?」
「ない。そもそもあんまり話してないし、話したとしても本のことばかりだった」
「それでも好きになったんですね」
「……好き、だ」
彼は赤面して机に突っ伏した。つられて私まで恥ずかしくなる。恋するダメ人間、悔しいが可笑しくて可愛いらしい。
「あの人にそっくりな君が現れて、その瞬間会えて本当に嬉しかったんだ。一瞬だけでも幸せになれた。人違いとわかり、少し辛くもあるが」
「別れた女を私に重ねないでください」
「大丈夫、君は君だ」
「その人にまた会える確証なんてないじゃないですか」
「とある本をまた貸ししていて。読むのは遅いが律儀な人で、絶対に返しに来るはずだ」
「どれだけ待つつもりなんですか」
「この気持ちが続くまでは、ずっと。たぶん」
珍しく子供っぽいことを彼は言った。
恋が都市伝説じゃないことも人をダメにすることも本では学べない。自分自身の気持ちの奥底にあるものが私を嬉しくも悲しくもさせた。悔しいくらい、彼は可愛い。
○
図書館のやっていない休日は買い物がてら母と街中を練り歩いた。まだまだどこかよそよそしい雰囲気だけど、何かの希望を持って生活をする人々。私が以前から抱えていた鈍く重い気持ちも、いつの間にか緊張を綻ばせているようだった。
「お母さんは仕事慣れた?」
「ぼちぼちって感じかなあ。まだまだ勉強することたくさん。アユミは?」
「私は別に慣れるも何も、学校も行ってないわけだし」
「でも最近顔色がいいし、突然ニヤニヤしだすし。青春ですな~」
「なにそれ。ニヤニヤしてないし」
「そうですかそうですか。でも毎日どこか出かけてるでしょ」
「図書館、まあ暇つぶしに」
「あ、懐かしいね。お母さんもよく行ってたよ」
「だよね。未返却の本、私見つけたもん」
「あー、あの本ちゃんと返さなきゃねえ」
「私が隙をみて返しとくから」
「怒られないかな?」
「大丈夫でしょ」
「いや、あのね。あれまた借りしていて」
「あらあら、よりタチが悪い」
「貸してくれた人がいつでもいいって言うから甘えちゃって。結局何も言えないままドタバタと引っ越しちゃって。んー、心残り」
「じゃあもしかしてその人今は」
「運が良かったら生きてるのかなあ。いつでも図書館にいるような人だったから被害を免れてたらいいな。辛抱強いからずっと待ってるかも」
「じゃあお母さんの手でその人に返してきなよ」
「やだ恥ずかしい。いやー、実を言うとあの人に会いたくて学校サボって図書館に通っていて。今だから言えるけど初恋ってあのときのことなんだねー」
いい大人が赤面してもじもじしている。こちらまで恥ずかしくなる。それにしてもどこかで聞いたような話だ。
「引っ越して落ち着いたらちゃんと返しに行こうと思ったのに。あの災害でなかなか近づけない場所になっちゃって。時間かかっちゃったな」
「それでこの街に引っ越すことにしたの?」
「まさか、そのためだけじゃないよ。でも、ちょっとだけだけど、もしかしたらまた会えたらいいなあ。なんてね」
母の瞳は少女のように潤んでいた。かつての淡い思い出に浸っているのだろう。
「ちゃんと小説は全部読めましたか?」
「実はそれがまだでして」
「読むの遅すぎ! 話はそれからでしょ」
照れる母は本当に少女みたいだった。私と同じ年頃のときの青春を、まだ胸に秘めているのかもしれない。
○
母に少しの時間でもいいから小説を読み進めるようにと押し付けて、私はただ自分のためだけに図書館へ向かった。
いつもと少し雰囲気が違うのに気づく。図書館の周りには鉄パイプの足場が組まれてメッシュシートで覆われていた。工事関係者のような人が多く出入りしている。
「危ないから離れて離れて」
耳を劈く金属音に負けないくらい大きな声で業者のような人が私を制してきた。それは動揺する気持ちに追い討ちをかけて、私を固まらせた。
「どうしたの。あ、図書返却なら市役所のほうに返却ボックスがあるから」
「え、図書館は入れないんですか?」
「そうだよ。改築のために準備してるから」
「急な話ですね」
「何言ってるの。先月からもう利用できないようにはなってたから。そこの通知、目に入らなかった?」
近くの立て看板には老朽化による建築物の危険度と改築の計画スケジュールが記されていた。先月から立ち入りは制限されており、書籍は一時的に市役所へ移動され保管されるという。
私は先日ここで彼と本を読んでいたはずだというのに。
「私、ここ最近ずっと図書館に通っていたんですけど。中では多くの人が団欒してたんですけど」
「そりゃアレだ。春も近いから狸が下りてきて人を化かすんだろうよ」
むしろ狸にも思えるような顔つきをしたこの人が、今私を化かしているのではないだろうか。もちろんそんなこと言えるはずもなく私は引き返すしかなかった。
○
次の日も、また次の日も図書館は重々しい装いをしたまま、あの懐かしみのある外観を露わにすることはなかった。毎日通うため狸おじさんとも顔見知りとなった。親しみやすいこの人と小一時間雑談し、私は当てもなく街をブラブラする。とは言っても人の多いところでは補導しかねられないので自然と寂しい場所へと行き着く。
橋の下で座り込み、ぼんやりと耽る。あの図書館通いの日々はやはり全部夢だったのだろうか。私は記憶障害で誇大妄想をして現実の境目がわからなくなっているのではないか。母に話したら心の疲れだなんだの言われて精神病院に連れて行かれてしまいそうで、とても面倒くさいだろうな。
どんなに考えても、虚構とは思えなかった。とても現実感のある空気だった。読んだ本の内容は確かに私の知らないことばかりだった。そして諦めきれない胸中の憤り、ただ一つ。
「会いたい」
心のモヤモヤを言葉は簡単に代弁する。口から零れた音は、驚くほどに橋梁に反響する。辺りを見渡して誰も居ないことを確認する。本当にダメになってしまった。これではナヨナヨしていた彼と変わりない。深い深いため息が白くなって昇る。
○
あれから母が小説を読み終わるのに一週間かかった。いい話だねえとしみじみしている。その感動はうん十年前に味わえただろうに惜しいことを。
「じゃあ今日は仕事終わるの早いし図書館寄って返してこようかな」
「あ、図書館ね。改築のために工事してはいれなくなっちゃったんだ」
「そうなの。また返しそれびちゃった」
「返却は市役所のほうだって」
「そうなんだねー。あの図書館だけはずっと変わらないままだと思ってたのに。約束、守れなかったなあ」
後を引くような母の声。記憶の中のその人が本当に遠くへ行ってしまうのだろうか。母も私も似た者同士だ。
「私が返しに行くよ。ちょっと読み返したいし」
○
本を鞄に押し込めて出かける。まっすぐ市役所に向かえばいいものを、いつもの習慣で足は図書館へと歩を進めていた。今日は狸おじさんが非番なのだろうか。入り口のゲートをくぐりながら姿がを探していた。館内は今日もまばらに人が居る。
あまりにも自然に入館できたため、違和感に気づくのが遅れた。工事していないのだ。また夢を見ているのか、それとも工事しているときが夢だったのか。
「サツキか?」
「人違いです」
何度もやっているこのうざいやり取りも何日かぶりだと懐かしみに嬉しくなる。
「ずいぶん久しぶりな気がするな」
「狸に化かされていたもんでして」
「君も変なこと言うもんだな」
「春が近いので」
「そうだな。冬の日差しをありがたく思うのもそろそろ終わりだな」
「そうそれ」
「どれ?」
「前から聞こうと思ったんだけど『愛日』なんて古くてマイナーな小説よくご存知ですね」
「マイナーなんて失礼な。それに数年前に出版されたばかりだ」
「数年前? だって母の学生時代からの愛読書で」
「お母さんはずいぶんとお若いんだな」
「災害の前に借りて返しそびれたまんまで」
「災害っていつの?」
「この街の人なのに知らないんですか?」
「この街の人間なら知ってるものなのか?」
「あの」
「何」
「全然関係ないですけど」
「うん」
「私の母もサツキって言うんですよ。偶然ですね」
馬鹿みたいに、違和感に気づくのが遅かった。この図書館は当時の空気のまま、まさにタイムカプセルだった。『愛日』は鞄の中のまま、返却のときを忘れていた。
○
私の仮説は大変に馬鹿げている。大いに阿呆であると笑われるのはわかっているので母にも彼にも言わない。
確かに図書館にあった新聞の日付は災害の起こる前のものだった。災害の記事もそれを取り扱った記録もどこにもない。よく見れば館内の人間の話す話題や服装も時代を感じるものであった。それでも図書館の貸し借りシステムは過去から何も変わっていないのに逆に驚いた。
そう、返しそびれたあの本を持っていくと図書館の中では過去の時間が再現されるのだ。工事現場の外装は消えて、中には馴染みの人たちと彼が居る。本を持たなければ狸おじさんに会える。何度か試し、そういう結果に導かれた。
まるで図書館と本が密接な関係であるかのような奇跡だった。もしくは亡霊のようなものなのかもしれない。過去の時間も確実に経過していき、あの災害が起こる日までもう数日ほどしかなかった。さっさと本を返して終わらせるべきだ。それでも一日でも長く彼に会いたかった。私の母がこの街に戻ってきたことと彼の、図書館の亡霊現象は偶然なんかじゃない。成すべきことはわかりきっているのに、それがどういうことになるか予測できて私は何もできなかった。親子で同じ人を好きになってしまうとは、どこまでも親子だというのを痛感した。
時間の消費に焦る私と、反面で悠長に構えている彼。苛立ちが抑えられなかった。
「いつまでのほほんと待っているつもりなんですか?」
「いつまででも、だ」
「そうやってじっくり構えているのがかっこいいと思っているんですか? 何か起こるのを、身勝手に、自分には責任がないように。行動するのが怖いんですか」
「人生が有限なのはわかっているさ」
「わかってない!」
もちろん何も知らない彼に罪はない。私の行き場のない気持ちをただぶつけているだけだ。
「一緒に来てください。会わせたい人がいます」
私は彼の手を引いて駆け出した。彼の体には重みがないみたいでフラフラと私に引っ張られていく。出口を通過した瞬間、手の感触が消えた。彼はどこにもいない。荒ぶる息を整えながら、冷静になろうと周りを見回す。
いない、いない、彼がいない。
感情が高ぶって鼻水と涙がこみ上げるのを必死に止めた。鼓動が体中を揺さぶる。落ち着け落ち着け。私は来た道を引き返す。彼は息を切らして館内の床に倒れこんでいた。
「外に出た瞬間君がどこかへ消えてしまって、探し回っても見つからなくて焦った。中で待っていたら戻ってきてくれた。良かった」
それは私も同じだった。私と彼の接点はこの図書館の中だけだ。彼はずっと閉じ込められながら待つしかしないのだ。
もう、なりふり構っていられない。私は決意した。
「この街はあと数日で災害によって消えます。だから遠くへ逃げてください」
「君は預言者だったのか」
「いくらでも未来の話をしますよ」
「でも災害で街が消えるなら、確かめる術がないな」
息を呑んだ。未来が約束されているだなんて贅沢な話だ。
「君が正直なのも、嘘が下手くそなのも、素直になれないのもよく知っている」
「信じてくれるなら、どうかお願いします。あなたに生きていて欲しい。だから逃げて!」
「できないよ」
「どうして」
「彼女が本を返しに来るかもしれないから」
この人は本当に馬鹿でダメな人なんだ。愛おしいほどに。
「だったらせめて、ずっとこの図書館で待っててください。死んでもです。何年、何十年かけても私はまた会いにきます」
「待つ、耐え忍び待つ。君は律儀に約束を守れるかい?」
「もちろんですよ。誰かさんと違って」
彼は笑った。私も、泣きじゃくるのを誤魔化すように無理やり笑った。
互いに声をかけずその場を別れた。自然とまた会える確証があるような気がした。さようならは、必要ない。約束が私たちを結び付けてくれるから。
○
「この本を持って、ちゃんと図書館に謝りに行って下さい」
翌朝、仕事へ出かける直前の母にそう声をかけた。
「でも、今から仕事なんだけど」
「つべこべ言わず、約束は守る!」
「また仕事が早上がりのときにでもね」
「だめ! もうすぐあの図書館なくなっちゃうんだよ」
「でも返却は市役所のほうなんでしょ。それになくなるわけじゃなくって改築だって」
「いいからいいから、ああもう行くよ!」
私は母の手を引く。手を繋いで歩くなんてずいぶんと久しぶりだ。
「お母さん仕事が」
「大人の事情なんて知りません」
強引な私に負けたのか、母は抵抗せずに着いてきてくれた。
「こんなにわがままを言うのは珍しい」
「今世紀最大のわがまま。春休み明けたら学校に行きますので」
「ずいぶんと安い今世紀最大」
「あのさ、もしも、もしもの話をするよ。もしまた初恋の人と会えて、その人とやり直せるとしたらそうする?」
「今でも好きかどうかなんてわかんないよ」
「じゃあ好きだったら」
「うまくいけばいいねえ」
「そうですか」
母の引きずったままの青春を私は再生しようとしている。その先に私は要らないはずだ。
「ねえ、もしかして離婚のこと気にしてる?」
「気にしないわけないじゃん!」
「……ようやく本音言ってくれた。我慢させちゃってごめんね。お父さんとの関係はリセットになっちゃったけど、アユミとはこれからも末永くお付き合いするつもりです。だから、遠慮なく言い合って、二人でうまくいく方法を探していきましょうよ」
「そんなこと言われたら、怒れないじゃんか」
「怒らないでよ~」
「ああもう! お母さん、好き」
「えへへ、今世紀最大に嬉しいぞ。ありがとう」
憎めない母、この人が母親で本当に良かった。私は恋敵の手を強く握った。
○
図書館の少し手前で私は母を送り出した。後は当人たちに任せるのみだ。過去の時間で彼がうまくやることを祈る。でも大人になったサツキちゃんに彼が気づけるか今更心配になってきた。
「あ、狸おじさん」
「その呼び方はやめなさい」
仕事中なのに仕事してる感のないこのおじさんは私の妙なお気に入りだ。サボりの名人かもしれない。
「おじさんはこの街の人だっけ」
「もちろん、生まれも育ちもな」
「災害の後って、やっぱり大変だった?」
「そりゃそうだ。たまたま生き残ってそれ以外全部失って、どうして生きているのかわけわかんなかったさ。それでもとにかく全部受け止めて抗って生き残って、そこから生まれたものを大事にしていかなきゃならんのさ」
「遠くへ逃げようとは思わなかったの?」
「そうやって遠くへ行く人たちにも帰ってこられるような、迎えてあげる場所を用意する役割も必要なのさ」
「ふーん」
「待つ、耐え忍び待つ。それにしても今日は風が強いなあ。寒い寒い」
「耐えるんじゃないの」
「最近は体にこたえる」
「おじさん」
「歳をとっちまったなあ。そうだ、明日は祈ってくれよ」
春一番の風が何もかも吹き飛ばしていきそうだった。誰かを思って祈るのは初めてだった。
○
その後私は先に帰った。仕事から帰ってきた母は「仕事で叱られたから今夜はご馳走」とだけ言い大量の食材を調理し始めた。私も手伝ってとんでもない量の食事がテーブルに並んだ。二人じゃとても食べきれないので近所の人も呼んで、みんなでひたすら食べた。わけもわからずみんな笑っていた。あの日の悲しみから逃げているわけじゃない。今生きていることを喜びたかった。
ちゃんと話したわけじゃないけど、母が本を持ち帰った様子はないので約束は果たされたということだろう。青春が一つ区切りをつけた。
○
この街に引っ越してから一年と少しが経つ。私は近所の高校に通いながら新築の図書館スタッフとしてアルバイトする日々だった。かつての図書館の様子はなく、本も古すぎるものは処分されてほとんどが新しいものになってしまった。寂しくもあるが、ここから馴染みのある私たちの図書館を作るのだと思うとやる気がでた。一から作ってやるのだ。
「ずいぶんと様変わりしちゃったな」
「あ、狸おじさん」
「その呼び方はやめなさい」
「おじさんが図書館の中にいるなんて似合わない。工事しに来たの?」
「馬鹿言え。これでも学生のときは学校サボって図書館に入り浸る文学少年だったからな」
「うそ、全然想像できない」
「あのころの俺もこんなになるとは想像できなかったさ。頭でっかちで好きな女の子に気持ち伝えられないまま悶々としていた」
「きもっ」
「悔しいがそれは昔にも言われた気がする」
おじさんの目がかつての少年のように潤んでいた。
「ま、災害の後はやみくもに体動かして必死に足掻いて、こんな大人の出来上がりだ」
「ふーん。あ、何かお探しの本があれば案内しますよ」
「そうだな、知っているころと全然配置違うし。題名忘れちゃったんだけど、冬の日は太陽が顔を出してくれる時間は短いみたいな内容の小説ってわかる?」
「よく知ってますよ。でも古くてマイナーだからまだあるかどうか微妙ですけど」
「そうだよなあ、俺が学生のときに出版されたやつだから」
「そうですよ、年月って残酷ですよね」
「俺も若いころは」
「その話長くなるから禁止。それに主観まみれでやたら美化されてるし。必ず見つけてくるんで大人しく待っていてください」
おじさんはたった数日間しか会ったことのない少女のことなんか覚えていないだろう。私は一方的にこんなにも覚えているのに。
それにしても年月が経つというのは残酷だ。かつての博識美少年を丸々としたただの中年に変えてしまうのだから。それでも年月が刻んだその皺が好きだ。かつてと同じその瞳が好きだ。失恋かもしれないし、新しい恋の予感かもしれない。
「あ、ボロボロですけどありましたよ!」
巡り巡った本が今、私から彼に手渡される。
「ありがとう。よく見つけたね」
「私、約束は律儀に守るほうなんで」
冬の日、太陽が顔を出してくれる時間は短い、そういう惜しまれる時間を『愛日』と呼ぶ。
そしてもう一つ、日はまた昇る。私はこの街で毎日を過ごす。この先もきっと色んなことがあるだろうけど、その度にちゃんと再生して。
「そういえば、前に話してた会いたい人ってのにはちゃんと再会できたんですか?」
「ああ。ずいぶん昔と、わりと最近に」
「どんな感じでした?」
「一人は相変わらずな雰囲気ですぐわかった。もう一人は確かに預言者だった。もっと未来の話を聞いておけば良かったよ」
「未来の話ができるなんて、贅沢なことですね」
いま、未来の話ができるなんて本当に幸せだ。街に春がやってくる。
愛日 深夜太陽男【シンヤラーメン】 @anroku
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