言の葉うたい
静かな朝だ。
昨夜の狂騒を考えれば、嘘のように静かな朝だ。
――どうやら、落ち着いてくれたらしい。
寝台の上に身を起こした俺は、隣に丸くなっている犬を見下ろして、安堵のため息をついた。
眠っているあいだに遠くまで移動させられたことによほど驚いたのか、昨夕、目を覚ました犬は、ひどくおびえた様子を見せた。
大きな目をまるく見開き、唇をぎゅうと引き結んで、爪先まで身体をこわばらせていた。
犬は、言葉を知らぬ犬は、その総身で叫んでいた。――捨てないで。
あまりの可愛らしさに悶えた俺は、捨てたりしないよ、と答えてやることも忘れて、犬の身体をぎゅっと抱きしめていた。細く、乾き、しかし生きるために震えている小さな熱。
「この家は俺の一族が所有する別宅だ。もうちょっと元気になるまで、ここで暮らすんだよ」
犬はまだ震えている。
俺はもう一度、同じことを繰り返した。
「元気になるまで、ここで暮らす。わかるな?」
犬のものわかりの悪さは、彼女が愚かなせいではない。
だれかとともに暮らすこと、言葉を交わすこと、心を通わせあうことを知らないせいだ。
震えの治まらない犬の身体を少しだけ離し、俺はその黒い瞳を覗きこむ。
「どうした?」
犬はふっくらとした唇を開いた。拾ったばかりのころはひびわれて血をにじませていた紅色も、このところはすっかりよくなり、本来のみずみずしさを取り戻していた。俺の手当てがよかったからだな、などと勝手な満足に浸っていたら、犬はふたたび唇を引き結んでしまった。
「どうした?」
犬は小首を傾げ、俺の手の指を握り、必死になにかを訴えかけてくる。かわいそうだとは思ったが、気持ちを言葉に換えるすべを学ばなければ、これからの人生がより困難なものとなることは、想像に難くない。
俺は心を鬼にして、それから何度も、どうした? と問いかけ続けた。
本当のところを云えば、犬の云いたいことはわかっていた。
犬が自分の想いを口にしたなら、すぐにでも抱きしめてやるつもりだった。大丈夫、ずっと一緒だと、安心させてやるつもりだった。 幾度めの問答だっただろう。
犬が突然悲鳴を上げた。
決壊した涙がつぶらな黒からあふれ出し、頬を伝って襟を濡らす。指先で慌てて拭ってやるも涙は止まらず、掌までぐっしょりと濡れるに及んで、俺はようやく悟った。
――失敗した。
「大丈夫だ。大丈夫」
犬は俺の声など聞こえないかのように、ますますひどく泣き叫ぶ。身をよじり、首を振り、脚を踏み鳴らして、そのくせ俺の手にしがみつく指だけはけっして緩めようとしない。
抱きしめ、頭をかきまわし、背中を撫で、とにかくありとあらゆる手段を使って宥めようとしたが、犬は悲痛な声で泣き叫び続けた。
――捨てないで。置いていかないで。
言葉はなくとも、犬の気持ちは痛いほどに伝わってくる。
心が軋むような思いがした。
犬は言葉を知らないのだ。俺が思っていたよりもずっと、言葉を知らないのだ。
捨てないで、という願いは知っていても、置いていかないで、という祈りは知っていても、それを表す言葉は知らない。
俺はとにかく狼狽えた。
拾ったときは襤褸布のようにぐったりとし、目を覚ましてからも擦り切れかけたぬいぐるみのようにおとなしかった犬。病んでやつれて、ぼろぼろだった身体を癒やすために眠ってばかりいたせいもあるだろうが、俺は、犬がこんなふうに癇癪を起すのをはじめて目の当たりにしたのだ。
捨てない、と云っても、大丈夫だ、と慰めても、悪かった、と謝っても、犬には通じなかった。
犬の身体を抱き上げて邸内をうろうろと歩きまわった。無駄に長い廊下や、厭味なほどに明るい庭に連れ出しても、その涙は止まらなかった。大きな寝台に飛び乗ったり、珍しい仕掛け時計を動かして見せてやったりしても、まだぐすぐすと鼻を鳴らし続ける。
これが最後の手段、と俺が足を止めたのは古いピアノの前だった。
埃よけの布を取り払い、犬を抱いたまま椅子に腰をおろす。
犬がしがみついている左手は使えない。俺は右手だけで鍵盤を叩きはじめる。
単純なリズム。簡単なメロディ。
腫れた目蓋の奥で、黒い瞳に輝きが灯る。泣き出してから一度も俺に向けられることのなかった眼差しが、こちらを仰いで揺れている。
大丈夫だ、ずっと一緒だ、と俺は歌った。心の底からの言葉が、少しでも彼女に伝わるようにと願いながら、でたらめに歌い続けた。
おまえを捨てたりしない。大丈夫だ。
ずっと一緒だ。これからも、ずっと。
捨てないで――。
そんな簡単な望みさえ言葉にできない犬を、心の底から愛おしく思いながら、俺は、彼女が泣き疲れて眠るまで、莫迦のひとつ覚えのように歌い続けたのだった。
犬のために 三角くるみ @kurumi_misumi
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