家路
総身を黒に包んだ犬が、漆黒の瞳でこちらを見ていました。
本官もまた犬に目を向けておりました。
ですが、彼我の眼差しが交わることはありません。
犬は本官になにも期待しておらず、本官は犬に過去ばかりを見ているからでしょう。
命じる言葉を待っている犬に、焦れた様子はありません。むろん、倦んだ様子も。
本部から犬に宛てた命令を記してある質のよくない紙が、手の中で不愉快な音を立てます。
いつか、この日がくることはわかっていました。
そのときにはきっと、躊躇いなくやり遂げるだろうこともわかっていました。
犬が。
本官が。
――あるいは、そのいずれもが。
「さて」
私の発声にも、犬は揺らぎませんでした。
千を超える兵らがおそれるこの冷たい声をもってしても、犬のよく鍛えられた身には隙のひとつも与えることができず、あるのかないのか定かではない心には疵ひとつつけることができません。
副司令官室には、本官と犬を含めて四人の人間がおりました。
護衛官を兼ねた秘書官たちは、それぞれ銃器と接近戦とに長けています。ですが、そんな彼らであっても犬にはかないません。
もし、犬がその気になれば、本官と秘書官らをまとめて転がすのに数秒もかからないでしょう。死を覚悟するまもなく、われわれは地獄に送られる。
もし、犬がその気になれば――。
この五年間、犬はその気になりませんでした。功を焦る司令官の命令に忠実に従う、一匹の犬でしかありませんでした。
けれど、いまから告げる命令を聞いてなお、犬が犬のままであるとは限りません。
唸り声をあげて牙を剥き、喉笛を噛み裂くべく跳びかかってくるかもしれない。
それならそれでよい、と本官は思うのです。手元に預かるようになってから一度も聞いたことのない犬の声を聞くことができるのなら、それでもよい、と。
さて、と本官はもう一度云いました。
「今回の任務は大変に困難なものとなる。敵は手ごわい」
犬はやはり動じません。困難な敵など、これまでにいくらでもいた、とでも云いたげでした。
違うのだ、そうではないのだ。今度の相手は、ただ殺しにくいだけではないのだ。
できることならそう云ってやりたかったのですが、あいにく本官にも云えることと云えないことがあります。それでも、今回の任務のむずかしさを、どうにかして犬に伝えなくてはならない、と思いました。
「標的は国内にいる。国境近くの山岳地方だ」
忘れているはずのない地名を告げても、犬の表情は動きません。
「この座標に覚えはないか?」
そこで犬は、かすかに首を動かしました。ただ、その瞳にはなんの色も浮かばない。
「よく考えろ。憶えていないか?」
よけいなことを云うな、とばかりに秘書官が咎めるような目つきを寄越します。負けじと咳払いを返し、座標と地名を繰り返しました。
思い出せ。そこを歩いた日の幸福を。
思い出せ。彼にいたる懐かしき家路を。
犬はもはや首を動かすことすらしない。任務は理解したのだから、と一刻も早くこの部屋を出て行きたいようなそぶりさえ見せています。
胸の裡にどうしようもない焦りが生まれました。
わざと机の上に命令書を放り投げ、目線を遣り、そこにある顔を確かめるよう誘導しようとしましたが、うまくいきませんでした。
犬は無言のままに命令を受け入れ、顔色ひとつ変えることなく、軽い足音とともに去っていってしまいました。
眉をひそめた秘書官が、なにを考えているのでふか、と押し殺した声で脅してきました。
「今回の作戦はあれにかかっているんです。余計なことは云うなと、司令官から強く念を押されていたではありませんか」
犬を犬にしたのは軍であり、司令官であり、われわれです。
しかし、犬を育てたのは、本官が手にするこの一枚の紙きれによって命を奪われることになる、ある男でした。
「あれにとっての彼は、親も同然、いえ、それ以上なのですよ。司令官どのは、己の功名をあげるために彼から横取りした犬を利用していたにすぎない」
自分で面倒をみることもせず、世話を本官に押しつけさえした。
「犬にとってどちらが大事か、そんなことは考えなくてもわかるでしょう」
ため息交じりに続ければ、存じています、と冷たい声が返ってきました。しかし、だからなんだというのです。殺しのための存在に親も子もないでしょう。
そうは思えませんでした。
犬を育てた男、これから殺されることになる男を、本官はよくよく知っていたからです。
「彼は、あれをとても大切にしていたのですよ」
あまりにも大事にするものだから、そのさまをからかったこともあります。男はなにを云い返すこともなく、いつも笑われるままでおりました。
「おれにはそうは思えませんがね」
秘書官は吐き捨てるように云いました。
「それなら、なんで人殺しなんかにしたんですか。なんで国を裏切ってなにもかもを捨てたんですか」
ほかに道がなかったからだ、と云っても、納得してくれる様子はありませんでした。
きっと、自分の目で見、耳で聞いた者にしかわからないのでしょう。
彼を見つめる犬の、ひたむきな眼差し。くすぐったく甘える声。
犬に彼を殺めさせたくない、と思いました。どうにかして命令を拒ませたかった。よほど、あの薄い背中を呼び止めようとしました。
けれど、同時にこうも思ってしまったのです。
犬に送られることこそ、修羅として生きた彼の幸いなのではないか、と。
彼からすべてを、家族を、友人を、絆を、誠実を、愛情を、平穏を、人生で受け取りうる美しいものすべてを根こそぎ奪ってしまったわれわれが、せめても贈ることのできることのできる唯一。
――犬。
だから、本官はもういっさいの言葉を封じることにしました。
悲しき家路を、そうとは知らぬままにたどることになる犬を静かに見送るべく、口を閉ざすことにしたのです。
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