鉄と石

 二重の鉄の向こうがわで、五十九番が石を奏でている。

 またか――。

 青年は小さなため息をついた。相棒の年寄りも顔をしかめている。

 もし、ここにいるのがほかの者であったならば、柵の向こうへ踏み入り、あの頑固な囚人を殴りつけ、蹴りつけ、どうにかしてやめさせるに違いない。

 爪が石を叩き、擦る音は、それほどまでに厭な音だった。


 青年が牢番の仕事を得たのは、もう五年近くも前のことになる。

 青年は、もとは兵士だった。

 だが、生来身体が弱く、すぐに病を得るので、軍の中では使い物にならず、捕虜を収監しておくための牢で働くことになった。

 仕事は楽ではなかった。青年のほかには、老人が三人と足の悪いのがひとり。たった五人きりで、何十という捕虜たちの面倒をみなくてはならないのだから当然である。

 青年は独房の担当だった。

 二十ほどもある独房の囚人の世話はことさらに骨が折れる。だが、文句を云うことはできなかった。

 狭い檻の清掃も食事の配膳も、ときには命がけである。ある者は匙でこちらの目玉を抉ろうとし、ある者は小便をひっかけようとし、ある者は枕を引き裂いて作った紐で首を絞めてこようとする。

 粗暴な者、狂気に彷徨う者、無気力な者。

 しかし、そのだれも、決して死なせてはならぬ。

 なぜ死なせてはならないのか、青年にその理由はわからない。

 国にとって利があるからに決まっているだろうと、知ったようなことを云う者もいるが、食事の盆をひっくり返したり、皿を投げつけたりするばかりの者たちに、いったいどんな価値があるというのだろう。

 癖のある囚人ばかりを世話しなくてはならない青年にとって、しかし、件の五十九番は、比較的やりやすい相手だといえた。

 おとなしく飯を食い、糞をして、布団をかぶって横になる。

 毎日それを繰り返し、昼の決まった時間になると、指先で石を奏でる。

 仲間たちや相棒は、静かでありながら奇妙な頑なさを見せつける五十九番を、薄気味悪い、とひどく疎んじたが、青年にとってはため息ひとつでやり過ごせる、ちっぽけな存在だった。

 ――あの日、あのときまでは。


 その日、なんの前触れもなく牢を訪れた人物に、青年と仲間たちはたいそう驚かされた。

 軍属ならばその名を知らぬ者はない、さる中将だった。彼の指揮する部隊は、どれほど過酷な前線に送り込まれても、ごくわずかな被害で厳しい局面を打開し、戦果をあげてくる。

 彼の指揮下にあれば死ぬことはないからと、否、彼のためならば死すらも本望であると、中将の部隊を志願する兵は多かった。

 勝利や武勲とは無縁の青年ですら、中将の評判はよく知っている。まるで伝説の人物を前にしたかのように、彼の身体は緊張に打ち震えた。

 中将は、五十九番に会いにきた、と云った。

 聞きまちがいではないか、と青年は思わず首を傾げた。国じゅうに名声を馳せるかの閣下どのが、気の触れたピアニストもどきの囚人にいったいなんの用があるというのだ?

 ぐずぐずする青年を急かし、中将は五十九番の房へと足を踏み入れた。

 人払いが彼の望みであったので、云われたとおりにした。厚い布を鉄柵に張り渡し、周囲の目と耳をさえぎった。

 あの中将どのがわざわざお運びになるなんて、五十九番はいったい何者なのだ。

 これまで長いこと、彼を邪険に扱ってきた牢番たちは震えあがった。

 告げ口されたら、おしまいだぞ。

 ――おとなしい性質につけ込んで、彼に与えるべき食事を自分たちの口に入れたことも。

 ――忍耐強い性格をいいことに、鬱憤晴らしの暴力を向けたことも。

 青年自身はそうした虐待とは無縁であったが、見て見ぬふりで五十九番を助けようとしなかったのだから、結局は同じことだ。

 目隠しの向こうはとても静かだった。会いにきた、と云ったからには、なにか話があるのだろうと思えるのに、物音ひとつ聞こえない。

 なにかおかしくないか、とだれかが云い出したのは、陽が西へすっかり傾いたころのことだった。

 おい、と相棒の年寄りが青年の腰を小突いた。あまりにも静かすぎる。様子を見てこい。

 なんで自分が、とは思わなかった。

 だれかになにかを命じられる下っ端であることが、心と身体に染みついてしまっているのだ。

 青年は足音を忍ばせ、五十九番の房にそうっと近づいた。

 中将と五十九番の話がまだ続いているのであれば、それを邪魔するべきではないし、ましてや聞き耳を立てていることを悟られてはならない。

 自らが張り渡した布の前に立ち、青年は息を詰める。

 はたして、咳ひとつ聞こえない。

 青年は布の端をそっと掴んだ。咎められても叱られても、ふたりの様子をたしかめておくべきだと思ったのだ。

 持ち重りのする布は、音もなく持ち上がった。

 青年は喉を鳴らして息を飲んだ。

 鉄が朱く染まっていた。石が朱く染まっていた。

 青年の姿を認めた五十九番が、ああ、と云って、ごく薄く笑った。その笑みすらも朱く染まっているように見えた。

「臆病者のきみか」

 彼の手には、いっそ頼りないと云ってよいほどに華奢な刃が握られている。

 硬い床に、中将が倒れていた。

 国の英雄の死と囚人の穏やかな声音とが、すぐには結びつかない。

 愚鈍な幼児に云い聞かせるような調子で、五十九番は云った。

「こう見えても、きみのだんまりには感謝してるんだ。いつも俺を放っておいてくれたことにもね」

 青年は、まるで自らが牢の石となってしまったかのように、身じろぎひとつできない。見開いた眼は瞬きすら忘れていた。

「だからきみは、苦しまないようにしてあげないといけないなって、ずっとそう思ってたんだよ」

 青年が五十九番の言葉の意味を理解することはできなかった。

 唐突に訪れた己の死を、それと知るいとまもないまま、青年の身体は朱く染まった。

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