犬たちの眠る場所
閉ざされた屋敷のなかは、冷たく静まり返っておりました。
陽の光は開け放ったはずの扉の向こうには届かないようで、禍々しい闇がとぐろを巻いているのが目に見えるかのようでした。
屈強な部下たちですら怯む死の気配。
しかし、本官は臆することなく邸内に足を踏み入れました。
おそろしくなかったわけではありません。おびえていなかったわけでもない。
彼らとは、見ているものが違っただけのことです。
ホールを抜け、正面にある両開きの扉を開けると、そのすぐ内側に、黒ずくめの軍服に身を包んだふたりの男が倒れておりました。短い毛髪、乾いた唇、見開かれたままの眼球、喉元を抉る深い傷。そのすべてが白く凍りついておりました。
窓際にひとり、壁際にふたり、さらに奥の暖炉脇に凭れるようにひとり。全部で六人の男たちは、等しく命を切り裂かれ、腐臭を放つこともなくうつくしい氷に抱かれている。
運び出せ、と本官が命じる声は白く尖り、部下たちは音もなく動きはじめます。
黒く凍り血だまりを避け、本官は部屋の中央に置かれたピアノの前へと足を進めました。
膝の上に男の頭を抱え、鍵盤に身を預け、まるで眠っているように見える女がそこにいる。
絶命していた男たちとそろいの衣は、ほかの誰よりも黒々と重たい。多くの血を含み、かたく凍りついているのです。よくよく顔を見てみれば、黒い睫毛の先には朱い滴が残っています。まるで血の涙を流したかのようでした。
彼女が守るように抱いている男は、ずっと軽装でした。明るい色の髪はところどころ赤黒く変色し、頬や額も汚れています。
陽気な色をしていたはずの瞳を確かめることはできませんでしたが、彼はたしかに彼でした。
足音もなく忍び寄ってきた秘書官が、間違いありませんか、と抑えた声で囁きかけてきます。
そうだ、とも、違う、とも答えぬ本官に焦れた秘書官は、間違いありませんね、と念を押してきた。
男を知らぬ秘書官も女のことは知っている。女が男を抱きしめている理由も察しているはずでした。
「運ばせますか」
質問の形をとった確認に、本官はこのときばかりは否と答えました。
「屋敷に油を撒くのです」
「正気ですか?」
これ以上ないほど正気だ、と本官は頷きます。秘書官は信じられないとばかりに首を振り、上にはなんと説明するのです、ともっともな言葉で咎めました。
「報告だけで納得するような連中ではありませんよ」
「納得などしてもらう必要はありません」
これまで、与えられた命令に背いたことも、しくじったこともない女です。今度もまた間違いなく任務をまっとうしたと、それだけ報告すればいい。
秘書官はしばらくのあいだ、黙ったままこちらを睨んでいました。
きっと彼には理解できないのでしょう。
別ちがたく結ばれたまま凍てつくふたりを、いったいどうすれば引き離せるというのか。
もう一度見下ろせば、女の頬にはごくごく淡い笑みが滲んでおりました。女の腹に顔を埋めるようにしている男の頬にも。
「そろそろ戻りましょう」
本官の言葉に、秘書官は腹を決めたようでした。
古い屋敷が全体に熱を含むまで、さほど長い時間はかかりませんでした。
焔とともに、雪もまた少しずつ激しくなってきました。
なにもかもを白く染める狂暴さは、しかし、すべてを覆い隠すやさしさでもある。
山も、森も、あるかなきかの獣道も、やがて燃え尽きるこの屋敷も、なにもかもを包み込み、きっと守ってくれるでしょう。
われわれの醜悪、狡猾、あらゆる悪から、彼らの眠りを。
犬たちの眠る場所を。
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