後編
かわいそうな女は、いまや自分の身体を抱きしめるようにしてがくがくと震えている。
男は立ち上がってゆっくりと女に向き直った。ぶたれるとでも思ったのか、女はきつく目を閉じて身を竦めている。刃を拾い上げた男は、女に向けて柄を差し出した。
「ほら。ちゃんと持って。さっきみたいにやればいいんだよ。できるよね?」
不意に目を見開いた女が男を見上げた。厭だ、できない、とばかりに必死に首を振りたくる。
「なあ、ピアノ、弾いてやろうか?」
なにを云われたのか理解できない女が首を傾げる。
「ピアノ。約束だっただろう。弾いてやろうか?」
男は刃を持っていないほうの手で鍵盤の蓋を持ち上げ、白鍵と黒鍵をいくつか叩く。混乱と期待で、女の眼差しがふらふらと泳いだ。
「おまえの好きな曲。これなんかどう?」
幼いころの女が特に気に入っていた曲を、一小節二小節と男が奏でる。気を持たせるように男が指を止めると、女はひどく蒼い顔をしていた。
賢い子だ、と男は思った。本当に賢い。これだけ賢ければ、俺がいなくとも、あるいは俺などいないほうが、まっとうに生きていけるだろう。誰も殺さず、誰にも殺されず、穏やかに、静かに、生きていける。
「幸せな犬になれるよ」
男が思わず漏らした呟きにはっとした女が、慌てて男に飛びついた。だが、咄嗟だったせいか動きが甘い。いつのまにかナイフを投げ捨てていた男に、首筋の急所を片手で捕らえられ、鍵盤の上に叩き伏せられた。耳障りな不協和音が大きく響き渡る。
だめ、だめ、と女が身を捩る。
外にいる兵たちに聞こえてしまう――。
前線を離れて長いとはいえ、男は腐っても元暗殺者だ。しかも、女にとっては師匠筋に当たる。そんな彼を人知れず消すのに、女をひとりきりで派遣するはずがない。軍の上層部はそこまで間が抜けているわけではないのだ。
だが、それもまた男にとっては予測の範疇だった。
「賢いね、おまえは」
女の滑らかな頬に唇を寄せて、男が楽しげに囁く。女は悲壮な表情で男を見上げる。
「この音、やつらにも聴こえるかな? どう思う?」
男は空いた手を鍵盤に載せ、懐かしいメロディを奏でる。女の瞳に涙が滲んだ。
女が屋敷に忍び込んだことは、追跡者たちもすでに把握している。そこから優雅なピアノの音色など聴こえてくれば、女が暗殺に失敗したと判断した彼らは時間をおかずに屋敷に侵入を試みるだろう。女の援護をするべく――あるいは監視、あるいは回収をするべく――、それが彼らの任務である。
男は懐かしい曲を奏でている。片手で女の全力を封じているとは、とても思えない優美な風情だ。
もはや目を凝らさなくとも窓の向こうにその姿を認められるほどの距離にまで、暴力の気配が迫ってきている。屋敷は完全に包囲された。
男がわずかに腕の力を緩めた隙を逃さず、女は己を捕らえる手から逃れた。床に転がった刃には見向きもせず、男の腕を掴む。無言のままに、逃げよう、と男を強く促す。
男は腰を上げることをせず、取られていないほうの手で女の頬をやさしく撫でた。
ピアノを弾いてとねだった、
仕事に向かう男を引き留めようとする、細い指を思い出した。
おはよう、と声をかける寸前、かすかに開いた唇の甘い匂いを思い出した。
おやすみ、と云ってしばらくしてから聞こえてくる、細い寝息のあたたかさを思い出した。
男にとっての宝。
すべて、失われてはならないもの。なにひとつ、損なわれてはならないもの。
「だめだよ。云ったよね? 俺を殺せと、云ったよね?」
女の頬から手を外し、男は、今度は別の曲を奏ではじめる。
もう何年も楽器に触れていなかったとは思えないほど、彼の指は滑らかに動いた。よかった、と男は思っていた。牢に囚われていた五年のあいだ指を動かすことをやめなかった自分、いつか犬のために、そう思って、幻の鍵盤を叩き続けた自分のことを称えてやりたい気分だった。
女はもはや半狂乱だった。男の片腕に縋りながら、彼の奏でる音楽を止めようと必死になる。彼女によって乱されるメロディこそが外にいる者たちの警戒心を煽り、男の身を危険に晒していることにも気づいていない。
「俺を殺せる? ちゃんとできる?」
男は考えていた。
ずっと、ずっと、――ずっと考えていた。
気まぐれに拾い、自分の勝手な都合で人を殺める道具にしてしまった己の犬のために、なにをしてやれるか、ずっと考えていた。
答えはなかなか出なかった。たどり着きたくない答えだったからだ。
女は激しく首を振った。見開かれた瞳の縁に溜まっていた涙が飛び散り、男の頬を伝い流れていく。
「じゃあ、だめだ。やめてやらない」
女の指先に一層の力がこもった。相当の痛みであるはずだが、男はなおも笑みを絶やさない。
「おまえは犬だろう? 俺の犬だろう? ね?」
自分勝手で傲慢なこの俺の犬。この俺の、――大切な犬。
おまえはおれにたくさんのものをくれた。
誰かを慈しみ、育もうとする気持ち。
泣かせたくないと、笑っていてほしいという願い。
握り締め、しがみつく執着。離れることをさびしいと感じる心。
別れを想い、引き裂かれそうな悲痛な思いさえ、おまえがくれたものだ。
ひきかえ、おれはおまえになにをしてやれただろうか。なにもしてやれなかったのではないか。
でも、おまえは俺の犬だから。俺の云うことしか聞かないから。だから、俺にしかしてやれないことがある。
「ちゃんとできるね?」
男は指を止めた。痛いほどの静寂がふたりを包む。
男は伸びあがるようにして女の濡れた睫毛にくちづけた。ほのかな海の味がする。ついぞ見せてやることのできなかった、広い世界の――。
「俺はおまえに殺してほしいんだよ。俺の犬である、おまえに。わかるよね?」
男の腕が長く伸び、女の頭をそっと撫でた。
いかにも愛しいものに触れるその手をどう勘違いしたのか、女の身体がぐにゃりと頽れ、男の足許に倒れ込んだ。這い蹲る女を見下ろし、ナイフを拾って、と男は命じた。
「あとは云わなくてもわかるよね?」
そうして、男は鍵盤の上に大きく両腕を広げた。
ある日、俺は犬を拾った。
その犬は、罪深い俺を救ってくれた。可愛くて、健気で、人殺しに荒れた心を慰め、癒やしてくれた。
俺は犬を手放せなくなった。そのせいで、犬を人殺しにしてしまった。自分の孤独を慰めるために、犬をもまた孤独へと落としてしまったのだ。
もういいだろう。いい加減に解放してやらなければならない。
悪しき飼主の呪縛から、自由にしてやらなくてはならない。
この世の中に俺の生きる場所はない。犬を連れて逃げる先もない。
それでいい。俺はそれでいい。俺はもう十分に生きた。最後に犬という、この身には過ぎた褒美までもらった。
だけど犬は違う。
犬の人生は、否、彼女の人生はこれからだ。
国を裏切った俺の首を上げれば、彼女は国を守った英雄となるだろう。
いまの地位を考えれば、もう人殺しなどしたくないという我儘、それさえ許されるほどの武勲となる。
血に染まった軍服を脱ぎ捨て、自由になれる可能性があるのだ。
どうか、その可能性に賭けてほしい。
俺を殺し、俺を越えて、新しい未来を生きてほしい。
俺の犬。愛しい、俺の犬。愛しい愛しい――、おまえ。
これが最後の命令だ。
俺を殺して、自由におなり。
男の命令は絶対だった。
女の身体は、女の意志ではなく、彼の言葉にこそ忠実に従うかのように動いた。女は、自分の手が、一心にピアノを奏でる男の頸を切り裂き、腹に刃を沈めるのを、遠くからぼんやりと眺めていた。
頬や唇、瞳にまで飛び散る血しぶきを避けることもせず、血まみれになった自分を見下ろす段になってさえ、こんなのは嘘だと思いこもうとしていた。
屋敷の扉を破壊し、飛び込んできた兵たちが目を見開いて女を見つめている。
彼らが口々に叫ぶ言葉はなんの意味もなさず、女の耳を素通りしていく。
あいつ、マジで育ての親を殺しやがった。よせよ、仮にも中佐どのだぜ。
けど、顔色ひとつ変えねえんだぜ、薄気味悪い。犬畜生以下だってのは、本当だったんだな。
とりあえず刃物を下ろさせろ。あのまんまじゃ危なくてしかたねえ。大尉どのの死体も運び出せねえだろ。
下ろさせろったってさ、簡単に云うなよ。小刀一振りで十人も殺す、殺人鬼だぜ。
ふたりの兵が右と左から近づいてくる。いかにもおっかなびっくりと云った風情で腰の引けたさまが滑稽でしかたない。女は唇だけで薄く笑った。
ゆるりと伸ばしたままだった腕をくるりと返す。悲鳴を上げる暇さえ許さず、両側の兵の頸を掻き切った。数瞬ののち、まるでそういうふうに仕掛けられていたオブジェかなにかのように紅い血が噴きあがる。
静寂ののち、耳を聾するほどの悲鳴が幾重にも響く。
刃を両手に女が部屋を駆け抜ける。一周し、もとの場所に戻ったときには、部屋の中に立っている人間は、女ひとりとなっていた。
女はゆるゆると頭を振った。耳の奥、悲鳴の残響が煩わしい。不愉快な響きが完全に消えてから、女は刃に残る血脂を拭い、ゆっくりと死を確認する。
みんな、死んだ。みんな、殺した。
私が、――殺した。
自由に生きろ、という男の言葉を、女はちゃんと理解している。軍から離れ、人殺しから離れ、男から離れ、まっとうに生きてほしいと、それが彼の心の底からの願いだったと、ちゃんと理解している。
もっと云えば、ずっと昔から理解していたのだ。
頑張れるか、我慢できるか、とそう尋ねる男の瞳の奥にはいつだって、もう頑張らなくていいと、もう我慢しなくていいと、愛しいこどもを思いやる色が滲んでいたのだから。
男のことだけをずっと見つめてきた女に、そのことがわからないはずがない。
彼は私を人殺しにしたかったわけではない。好きで人殺しになったわけでもない。
誰かがやらなければならない仕事を引き受けていただけのことだ。
身の裡に積もりゆくやるせなさをわけあう誰かを欲しただけのことだ。
私はそこにうまくつけこんだ。
近くにいたかったから。
誰にも顧みられることのなかった私を拾ってくれた彼の、誰にも慈しまれたことのなかった私にやさしくしてくれた彼の、いつのまにか大好きになってしまった彼の、すぐ近くにいたかったから。
彼の傍にいるためには犬でいなければならなかった。だから、女は犬になった。
彼と一緒にいるためには人殺しでなければならなかった。だから、女は人殺しになった。
左腕をだらりと垂らし、右腕は鍵盤の上に投げ出して、目を見開いたまま男は絶命していた。
演奏用の幅広の椅子の端に腰をおろした女は、彼の身体をそっと抱き起し膝の上に抱き止める。まだぬくもりの残る身体は、しかし、もうその血の流れを完全に止めてしまっていた。
ゆっくりと身をかがめ、女は男の顔を眺めた。瞬きをするたび、記憶とのずれが正されていく。会えなかった時間もずっと一緒にいたかのように、あるはずのない想い出が補われていく。
指を伸ばして、ひんやりとした頬に触れた。もう二度といなくなることはない、会えなくなることはないのだと思うと、死はさして悪いものではないようにも思える。生きていることのほうが不自然なのだと、そう云ったのは誰だっただろう。
額を額に押し当てた。こうして熱を測ってもらった幼いころと、そっくり同じ笑みが頬に浮かぶのが、自身でもわかった。
ごめんなさいと、謝りながら唇に唇で触れた。やわらかい懐かしさに笑みがこぼれた。
女は顔を上げ、もう一度男の顔を見つめた。
片手にずっと握ったままだった刃を自分の頸に運ぶ。
ずっと見てて。そこで見てて。いまからそこへ行くから。あなたの傍へ、駆けていくから。
ある日、私は犬になった。
彼は私を愛してくれた。汚れた私を愛してくれた。綺麗で、眩しくて、貧しかった心にたくさんのぬくもりをそそいでくれた。
私は彼の傍を離れられなくなった。そのために人殺しをしなければならないのなら、何人でも、幾人でも、殺すことができた。申し訳ないと思う気持ちなど、最初から持ち合わせていなかった。
ずっとずっと待っていた。
いつかまた会えると信じていた。必ず会えると信じていた。
今度会えたそのときは、もう離れなくていいのだと、一緒に生きていけるのだと信じていた。
ともにあるためならば、犬でよかった。人殺しでよかった。人でない何者かになり果てることさえ、どうということはなかった。
でも本当は、それは間違いだった。
俺の犬、と彼が私を呼んだとき、私はそのことに気がついた。
自分の手が、もう取り返しのつかないほど汚れてしまっていたことに。彼の犬でいることができないほど、汚れてしまっていたことに。
人を殺めることは、私にとって生きる手段だった。彼とともにあるための方法だった。
けれど、彼と離れて生きるうち、私はいつのまにか、自分のために殺すことを覚えてしまった。自分が生きるために殺すことを覚えてしまった。
私はもう、彼の犬ではない。彼のためだけに生きる犬であることを、とっくにやめてしまっていたのだ。
返さなければ、と私は思った。彼に、ひとり命を背負うことに耐えられなかったやさしい彼に、彼の犬を返してあげなければ。
彼の幸いを返してあげなければ。
だから私は彼を殺した。彼がもう二度と、さみしさに彷徨うことのないように。
だから私は私を殺す。私がもう二度と、自分のために生きることのないように。
彼の幸い、彼が俺の犬と呼ぶ永遠のために、私は、彼と私とを殺すことにしたのだ。
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