中編

 明々あかあかと燃える暖炉を背に、俺は息を詰めるようにして外の気配をうかがっている。

 暗い硝子ガラスに映り込んだ自分の顔の向こうで、白い雪が音もなく降り積もっていく。麓から緩やかに登りきった場所にあるこの屋敷は、国を出たあとも手放さなかった隠れ家のひとつだ。

 惜しげもなく次々と薪をくべ、編目も鮮やかな厚手のセーターを着込んでいても山の冬はひどく凍える。俺は窓際から離れ、部屋の隅に忘れ去られたように置かれている古いピアノの前に腰を下ろす。

 掌を赤く透かす焔の向こうに、もう何年も会っていない可愛い犬の顔を思い浮かべた。

 極端に少ない口数とは裏腹に、正直な甘えをのぞかせながらこちらを追う濡れた瞳。

 短く刈られていてさえ艶やかな髪は、指先で触れるとしっとりと重たい。

 小柄で華奢な身体はばねのようにしなやかで、鍛えられた筋肉のせいか存外重みがある。

 感情を表すことが苦手で、表情を崩すことは滅多にない。

にもかかわらず、日がな一日その姿を眺めていても飽きないのは、たまに向けられる笑みがいっそ哀れなほどに純粋だからなのだろう。

 滅多にないこととはいえ、抱え込みすぎた想いがゆえに嵐のごとく荒れ狂う日もあり、そんなときには常のおとなしさを不憫にすら思う。


 犬を拾ったのは、国境の運河をめぐる先の戦争の折のことだ。

 圧倒的優位に立っていたはずのわが国は、隣国のゲリラにおおいに苦戦し、決着が長引いていた。戦線は膠着し、死者ばかりが増える日々。国民の鬱屈は日に日に高まっていき、軍部は不満を抑えるために、思い切った策をとらざるをえなくなった。陸軍大隊による隣国への直接侵攻である。

 当時、斥候部隊に組み込まれていた俺は、国境の街で襤褸屑のような姿で彷徨っていた犬を拾った。部隊の仲間に銃撃され、足蹴にされて、いまにも消えゆきそうだった命を掬い上げたのは、まだ生きているものを見捨てたくないという、なかばエゴとしか云いようのない気まぐれからだった。

 血と赤と埃に汚れてがりがりに痩せ、栄養不足からくる皮膚病を拗らせ、挙句、三発もの銃弾を受けていつ死んでもおかしくない幼いこども。

 やめておけ、という周囲の声に耳を塞ぎ、俺は彼女を助けようと懸命になった。

 けがの手当の傍ら、汚れきった身体を清めてやり、皮膚病の治療も施した。食事を与え、喉の渇きを癒し、夜は添い寝をしてともに眠った。

 軍医だった祖父のおかげで医療の知識は人並み以上にあったし、特殊な任務に就いていた俺は、斥候の任を解かれてしまえば基地での仕事が多く、時間の融通も利いた。

 己が何者であるかさえ――歳はおろか名前さえも云えないのだ――知らない彼女は、回復に合わせるようにして俺に懐いていった。

 まるっきり、犬のように。

 俺の犬は可愛かった。

 呼べばどこからでも飛んできて、離れろと云わない限りずっと傍にいる。

 アッシュブロンドの髪とインディゴの瞳を珍しがり、毛先や目蓋にやたらに触れたがる。

 ほかの誰かには悲鳴さえ聞かせようとはしないのに、俺がピアノを弾いてやると、それに合わせて恥ずかしそうに歌ったりもするのだ。

 仕事で出かけるときには軍服の裾を小さな手で掴み、さびしそうに身を摺り寄せてくる。

 そのくせ、行ってくるからね、と声をかければ、迷うことなく指をほどいた。

 その健気なさまが狂うほどに愛しくて、俺は犬に夢中だった。

 夢中になりすぎて、あいつは重度の幼女趣味だと、月を迎える前の少女にしか反応しない真正の変態だと、いらぬ噂が経ったほどだ。

 けれど、蜜月は長くは続かなかった。

 戦争が長引き、軍属と云えど、ゆとりある暮らしなど許されなかった時代のことだ。基地のなかに無駄飯を食らうガキなど要らない、と本営に怒鳴られ、俺はある選択を迫られることとなった。

 ガキを軍隊にいれるか、でなければ国内の養護院に送るか、ふたつにひとつだ。

 莫迦を云え、と俺は内心に吹き荒れる怒りを抑えておくのに苦労した。養護院に入れたって、親のない子の生きる道はいずれ軍隊だと相場が決まっている。

 まだなにも知らない子です、と俺は食い下がった。せめて読み書きや計算くらいはできるようになってからでも遅くはないのではないですか。

 云い分を認めさせるには相応の対価を支払わねばならなかった。だが、犬は守られた。入隊の約束はさせられたものの、それまでに半年の猶予を与えられたのだ。

 こうなっては、もうどうしようもなかった。俺は朝と晩の時間を使って、オレが持ちうる限りの知識を犬に叩きこむことに決めた。戸惑う彼女を可哀相には思ったが、ここを耐えなければより厳しい人生が待っているだけだと、よく知っていたからだ。

 やがて幼年訓練兵として軍人の一歩を踏み出した犬は、そのあともよく耐えた。脚に残る障碍などものともせずに、秀でた兵となった。


 知らなかったわけじゃない。

 俺が育てた子がどのような末路を辿るか、知らなかったわけじゃない。

 知らないふりをしていただけだ。

 知らないふりを、――していたかっただけだ。


 当時の俺は、軍の中で非常に微妙な立ち位置にあった。

 軍医である祖父、本営参謀を務める父、後方支援の要職にある兄。軍人一家に育った、ある意味生まれながらの軍属であることに加え、俺に与えられていた任務そのものが厄介だった。

 俺の役目は、闇に紛れて人を殺めること。つまり、暗殺だった。

 表向き将校の位を与えられ、基地司令官以外からの命令を受けることのない気楽な立場は、つまり、俺の任務を知る者が極端に少ないことを意味していた。士官学校を出たばかりの使えない階級持ちを装いながら、そのじつ、俺は国外に出て要人を暗殺する特殊な使命を担っていたのだ。

 事実を知っているのは、同じ基地の中には司令官ひとり。本営にあっても、一定以上の地位に就き、さらに実質的な軍権を握る十数名に限られていた。

 血の繋がった家族ですら、本当のことは知らされていなかった。

 その俺がこどもを拾った。誰かに盗られるのが厭なあまり、自ら教育を施した。

 軍の連中が辿り着く結論はひとつしかない。

 つまりは、あのこどもが俺の後継者なのだろう、と。

 秘密裏に任務を遂行する俺は、その性質上、異国の地で頓死する可能性が高い。誰にも弔われることなく、そのまま行方不明として扱われ、いつか忘れ去られるというわけだ。

 いつ死んでもいいように、後釜だけはきっちり用意しておけよ、とは同じ任を担う仲間や、事実を知る司令官にいつも云われていた。

 人殺しを育てる気はない、と彼らの要求を突っ撥ねてきた俺は、しかし結果としてその言葉に従うことになってしまった。

 使い物にならなければいいという、俺のひそかな願いに反し、犬は立派に育った。

 これは、とても稀有なことだ。

 暗殺者はなかなか育たないものだからだ。

 闇に潜み、陰に紛れ、人を欺いて命を奪うその任務は、味方にさえも理解されないことが多い。孤独を抱え、自己矛盾に悩み、罪悪感に自滅していく仲間は少なくない。

 そういう意味では、犬は暗殺者になるために生まれてきたような存在だったのかもしれないと、いまにしてみればそんなふうに思わなくもない。

 生まれながらにして孤独で、矛盾を抱えるほど確たる自己を持たないうえ、俺の云うことには決して逆らわない。考えるな、と云えば考えないし、悩むな、と云えば悩まないのだ。

 それが俺の云うことであれば、どんな理不尽も理不尽とは思わない。犬は、どこまでも犬なのだ。

 そう、どれほど穢れた技を覚えても、犬は相変わらず犬だった。

 頭を撫で、顎をくすぐり、目蓋に触れてやると、犬はいつでもぐっすりと眠った。おやすみ、と云ったら目を瞑って眠るんだよ、という最初のころの言葉を、いつになっても――最後の夜になっても――忠実に守った。

 頭を撫でる腕がどれほどの血にまみれているか、顎をくすぐり目蓋に触れる指先が幾人の命を奪ってきたのか、おやすみと囁く声がどれだけ性質の悪い嘘をついてきたのか、そんなことは犬にはどうでもいいことのようだった。

 きっと悪い夢も見なかったはずだ。いい夢を、と俺はいつでも彼女に命じていたのだから。

 やがて、犬がはじめてのおつかいをこなすときがきた。

 彼女が与えられた任務をひとりで果たしたことで、俺の株はおおいに上がった。

 だが、それは喜ぶべきことではなかった。

 独り立ちしたとみなされるようになった犬を、俺の犬を、別の基地が欲しがったからだ。

 その基地はいまいるところよりもずっと前線に位置し、そこの司令官は出世欲の旺盛な男だった。そこへ赴いた犬が、より危険な任務に就かされることは自明だった。

 転属の命令を俺は拒否した。彼女はまだ俺の庇護下にある。この俺の許可なしに余所へやることは絶対に認めない。

 本営と俺の関係は一気に冷え込んだ。

 戦局は一向に明るくならず、終わりの見えない争いに政府も国民も疲弊しきっている。戦いに倦んだ本営では、暗殺者を何名か束にして隣国へ送り込み、敵の中枢を物理的に破壊してしまおうという、莫迦莫迦しいとしか云いようのない作戦まで検討された。結果を上げられない軍部は、それほどまでに追い込まれていたのだ。

 与えられた命令を着実に実行することのできる暗殺者を、保護者だからという薄弱な理由で抱え込もうとする俺は、やがて中央から目の敵にされるようになった。

 云いがかりとしか思えない理由をつけて、あるいはときに理由もなく懲罰房に拘束されることが多くなり、犬は次々と厳しい任務を与えられるようになった。本営に刃向かいがちな俺が任務に就くよりも、俺を拘束して犬を任務に就かせるほうがより安全であると、気づいたやつがいたのだ。

 俺が捕らえられるたび犬は人を殺しに行き、彼女が生きて戻ると俺は解放される。その絡繰りに気づいたとき、俺は俺自身を呪い、烈しく憎んだ。


 薪が大きく爆ぜる音に、はっと我に返る。

 気づかぬうちに転寝でもしていたのだろうか、首筋がひどく冷えた。

 ふわりと頬に触れる雪に気づいたときには、床の上に押し倒されていた。仰向けにひっくり返され、胸の真ん中に膝を乗せられ息が詰まる。

 焔を映して朱に煌めく短い刃が、喉元にひたりと当てられる。

 雪の中に姿を探した、愛しい愛しい俺の犬だった。


 屋敷内の人間に気配を悟られないよう侵入し、背後から襲う。予期せぬ動きを封じるために、息の根を止めるときには正面から喉と腹を突く。

 俺が教えた手順そのままだ。

 ああ、おまえはあれからずっと俺の犬であり続けたんだね。

 喜びに笑みを滲ませる俺とは対照的に、犬は大きく目を見開き、唇を震わせている。

 離れ離れになって六年。長い六年。

 けれど、たった六年。少しばかり歳を食ってはいるだろうが、それほど衰えているわけでもない。国を出るときから変えていた髪の色も、見間違えられることのないよう元に戻しておいた。

 殺せと命じられた相手の正体に気づき、しかしどうしたらよいかわからないのだろう。

 愛しいこども、俺の犬は、ぶるぶると震える手も身体もそのままに、ただただ俺を見つめている。首をわずかに傾げることで、犬は、なんで、と問いかけてきた。

 苦しい息の下、その手に触れて唇を動かす。

「殺せ。俺を、殺すんだ」

 刹那、ひどい衝撃を受けたような顔をして、犬が俺の上から身を退けた。触れてはならぬ呪いに触れたかのような、ひどく怯えた表情だった。

 大丈夫だ、と俺は云った。

「こわくない。教えただろう? そのとおりにやればいい。ちゃんとできる」

 黒い手袋に包まれた掌に目を落とした犬は、それが忌むべきものであるかのように手にしていた刃を投げ捨てた。

 床の上を滑る乾いた音に、俺はため息をついて身を起こした。

「なにをしている? だめだろう、云われたとおりにしなくちゃ」

 六年前のある晩、俺は暗殺の指令を受けてひっそりと基地から出された。十分な情報と武器、支度金に真っ新な身分証まで与えられての任務はひさしぶりだった。ほんの一瞬、上層部に対する疑いが胸を過ぎったが、すぐに忘れた。

 俺がひとり殺せば、犬はそれだけ安全になる。

 いつのまにかそんなふうに考えるようになっていた俺は、もう暗殺者として使い物にならなくなっていたんだろう。

 事実、俺は任務に失敗した。情報は筒抜けとなっており、敵国の手に落ち――、しかし、なぜか殺されることはなかった。

 独居房に囚われていた五年のあいだに戦争は終わった。なんのことはない、生国と同じように隣国もまた、戦争に疲弊していたのだ。

「殺すんだよ、俺を。そのために戻ってきたんだから」

 できない、と犬は小さく首を横に振った。何度も何度も。

「しょうがないなあ。俺がおまえじゃない誰かに殺されちゃってもいいの? おまえの知らないところで死んじゃってもいいの?」

 戦争が終わり、裁判と賠償の段取りが済んで、仮初の平和が戻った。

 重い負担を抱えた国民の怨嗟の声に晒され委縮した軍部は、しかしその陰で次の戦を求めて蠢きはじめている。長きにわたって争っていた隣国同士手を携え、今度は別の大陸に攻め込む算段を立てているらしい。

 俺がなぜそんなことを知っているか。

 話は簡単だ。隣国の軍からお声がかかったからだ。――貴様、彼の国では士官の位まで持っていたらしいじゃないか。どうだ、今度はその腕をわが国の役に立ててみないかね。

 こいつは莫迦か、と俺は思った。俺が素直に頷くと思ったのだろうか。

 人殺しにはもううんざりだった。誰かに利用されるのもこりごりだった。

 とっとと話を断った俺は、今度はどうにかして国に戻れないかと考えはじめた。

 戦争が終わったなら、犬を返してもらっても罰は当たらないはずだ。俺の犬、働きづめに働かされているはずの、俺の可愛い犬を。

 だが、そうはうまくいかなかった。

「おまえを返せって軍の上のほうに云ったらさ、死んでくれって云われたよ。俺のことは、もうなかったことにしたいんだって。祖父さんや父さんの手前、殺しちゃうこともできなくて、隣国と取引をして牢屋にぶち込んでもらったはずなのに、なんで出てきたんだって。話が違うって」

 国と国との約束では、俺はもう二度と世に出られないはずだった。一生を牢の中で過ごし、誰にも知られぬまま朽ち果てるはずだった。

「だけど隣国も余裕がないんだろうね。使えるものは使おうと、ちょっとした貧乏根性を出したせいで、せっかく手を携えようとした相手とのあいだに、ずいぶんな揉め事を引き起こすことになったみたいだよ。まあ、俺の知ったことじゃないけどさ」

 もう誰もあてにしてはいけないのだとようやく気づいた俺は、自分の力で犬を取り戻そうと試みた。

「でもおまえ、結構いろいろ活躍しちゃったみたいじゃないか。位持ちなんだって? それも、むかしの俺よりも出世してるなんて、考えもしなかったなあ」

 いまのままでは絶対に会えないと思った。少なくとも隣国にいる限りは不可能だ。不可能? 相手は俺の犬なのに?

「隣国にいる限り無理だっていうなら、戻ってくればいい。ここへ戻れば俺は国賊だからさ。しかも暗殺のスキル持ち。必ず誰かが殺しに来るはずだけど、下手な相手じゃ返り討ちに遭うよね。来るなら、おまえだと思った」

 犬は犬だ。これまで、一度たりとも命令に背くことはなかったのだろう。どんなときも任務は絶対だよ、という俺の言葉に従い、俺がいなくなったあとも軍に忠実であり続けたに違いない。

 軍の連中は、しかし、犬が犬であることを理解していない。

「おまえのことをさ、命令に忠実なただの暗殺者、優秀な暗殺者だって思ってる連中は、俺を殺すのに必ずおまえを差し向ける。そう考えた俺は間違ってなかった。ね?」

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