犬のために
三角くるみ
前編
編み上げの軍靴、背負った軍嚢、外套に隠れて見えない軍服も、小さな
外套の高い襟に埋もれた頬が、融けた雪に濡れる。これほどまでに凍えていても、まだこの身には温みが残っているのだと思うと、なにか救われるような思いがした。
意識して呼吸をゆっくりと保つ。鼻から吸って口から吐く、鼻から吸って口から吐く。
真冬の山中、夜に向かう夕暮れの行軍は、ともすれば無駄に急ぎ足になりがちだ。必要以上に体力を消耗しないよう、呼吸だけでなく歩みの速度も常と同じであるよう心がける。
濃い藍色の闇が足元からゆっくりと這い上ってくる。
私はつと足を止め、頭上を仰いだ。
茫洋として果ての知れない空を見上げていると、天と地とがくるりとひっくり返り、雪の生まれてくる場所へ吸い込まれていきそうな気分になる。足首まで埋もれるほどやわらかい新雪に身を投げでもすれば、あるいはその想像は
この山を訪れるのははじめてのことではない。私はかつてここへ来たことがある。ちょうどこどもと大人の端境期にあったころ、連れてきてもらったのだ。とはいっても休暇ではない。そんな平穏は、私の人生には無縁だった。
いえ、違う。そうではない。
保護者であった彼に拾われた日から、生きることは安寧と等しくなった。どんな苦痛も、どんな過酷も、その安らぎを揺るがすことはなかった。
ふいに、なんのまえぶれもなく失われてしまう、あのときまでは。
やさしい声とぬくもりの記憶だけを残し、彼は突然いなくなってしまった。
未来を疑ったことなんてなかった。いつまでも一緒にいられるのだと、そんなあたりまえのことが失われる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
悲しい記憶が胸を塞ぐほどに大きくなり、なにやら闇雲に叫びたいような気持ちになる。
だめ、と私は強く目蓋を閉じた。
だめ。そう、これはだめなこと。やってはいけないこと。彼に教えてもらったことのひとつ。――いいかい。与えられた仕事は、決して台無しにしてはならないよ。
いまここで大声を上げることは、彼の言葉に逆らうことだ、と私は強く唇を噛みしめ、己を諌める。目的を果たすまで、あるいは帰還を命じられるまでは、物音には細心の注意を払わなくてはならない。
雪に覆われた林のなか、光は通さずとも、音は存外遠くまで響くものだ。こんなところで泣声を上げるなどとんでもない。
睫毛が凍りつく寸前になって、私はのろのろと顔を上げた。
林は緩やかに高みへと続いている。降りしきる雪の中を歩むのは容易なことではない。
ふとなにかの気配を感じて振り返ると、近くの枝が揺れていた。冬を越す鳥か獣かが逃げたあとなのだろう。誰もいなかった。
雪はさっきよりも勢いを増している。癖のある私の足跡はすっかり埋もれており、帰る道ごと失ったかのような心許なさを覚える。
戻ることはできない。与えられた任務をまっとうするまで、戻ることは許されない。
すっかり暗くなった林の中を、私はまた歩きはじめる。
深くあたたかな彼の声を、私はまだ探し続けている。
まるでなにかを投げつけられるかのように唐突に与えられ、まるでひったくられるように突然に奪われたぬくもりを、いまだに探し続けている。いい加減にしろと罵られても、まだ待っているつもりかと嘲られても、もう戻ってこないんじゃないかとからかわれても、探すことをやめるつもりはない。
いくつもの思い出は、胸の奥に大事にしまってある。ときどき我慢できなくなって取り出して眺めたり舐めまわしたりしてみるが、そうするたびにもともとの色や形が少しずつ損なわれてしまっていくような気がして、できるだけ思い出さないようにしている。
彼に拾われるまで知らなかった穏やかさへの執着は、自分でも手に負えないほど強く烈しいものだ。
おはよう。おやすみ。
私にそんな穏やかな言葉をかけてくれたのは、彼がはじめてだった。
それまでの私は、罵倒され、嘲笑され、揶揄されて生きていた。言葉があるならばまだいいほうで、大抵の場合は存在すら無視された。いてもいないのと同じ、生きていても死んでいるのと同じだった。
私の一番古い記憶は、崩れかけた襤褸小屋の中で大勢の男が、なにかを飲んだり食べたりしながら、しゃべったり笑ったりするついでに何人かの女を順番に犯しているというものだ。戦利品代わりの捕虜を味見していたらしい。もちろん、なにが起きているのか理解していたわけではない。のちのちになって、ああ、あれはそういうことだったのか、と納得しただけのことだ。
その次の記憶は、ひどく垢じみて痩せた手に引かれ、粥をもらうために長い列に並んでいるというもの。どこかの奇特な篤志家がはじめた慈善事業だったのだが、あまりにも多くの食い詰め者たちが押し寄せたため、数日もしないうちに破綻した。冷たい風に乾いた雪が舞い、ひどく寒かった。裸足の足をなにかで深く傷つけたが、痛みも麻痺するほど凍えていた。そのときの傷跡はいまも残っている。
そのころから、私の記憶はだんだん鮮明になる。
それが幸いであったのかどうか、過去の私はひとりでいるということがほとんどなかった。はじめのころは大人――しかし、記憶にある限り、同じ誰かと長くともにいたことはない――、やがて歳周りの近いこどもたち。
けれど、誰といても、暮らしそのものはあまり変わらなかった。
食べものを探し、着るものを探し、その夜眠る場所を探して、一日
それでも、渇き餓えて、寒さに震えながら彷徨っている時間のほうがずっと長かったような気がする。
周りにいる者たちの顔ぶれは次々に変わった。彼らには――もちろん私にも――名前などなく、そこにいなければならない理由もなかった。私自身、ひとつの街にずっととどまり続けたわけではない。
浮浪の暮らしを悪しざまに云われても、自分がなぜそんなふうに呪われなくてはならないのか、もっと云えば、そうした悪い言葉の意味さえあまりよくわかっていなかった。
彼に出会ったのは、それまでのごくごく短い人生の中でも、最も悪い時期のことだった。
そのとき私が住み着いていたのは、戦場にほど近い廃墟の街だった。銃弾に砕かれ、崩れ落ちた壁にしがみつくようにして風雨を凌いでいた。
店主が逃げて無人となった食料品店から食いものを盗み出すのは容易かったが、楽な餌場には有象無象が
もうだめかもなあ、とぼんやり悟ったのは、いよいよ空腹の感覚さえ曖昧になってきた時分のことだ。ここに転がっていたってどうにもならないことはわかるけど、もう口にするなにかを探しに行こうという気力もない。死ぬということがどういうことかはよくわからなかったけれど、生きるよりも悪いということはないだろうと思った。
目蓋を落とした意識もなく目を瞑ったそのときだった。
いくつもの硬い足音と、武器と武器のぶつかり合う軋み、それに押し殺されているにもかかわらずどこか興奮したような声が、重なり合うようにして耳に飛び込んできた。
私はぱっと身を起こした。天敵の羽音を聴いた野兎のような素早さだった。
瓦礫の陰にもぐりこみ、息を潜め、全身の神経を耳に集める。まださほど近くはない。いまのうちに逃げておかなくては。
人と人、地域と地域、国と国との戦や争いというものがどういうものであるか、あのころの私にはよくわかっていなかった。
正直なところ、いまもわかっているとは云いがたい。
けれどあのころは、本当になんにも、まったく、全然わかっていなかった。
だから私は、そのときとりうるなかで、もっとも愚かな行動をとってしまったのだ。
身を隠しておけるなねぐらを飛び出し、自ら進んで危険の前に躍り出るような真似をしてしまった。ゲリラが潜んでいる可能性のある市街地を通り抜けようとする部隊が、周囲をどれほど警戒しているかなど考えもしないで。
行軍する兵らの前に不用意に姿を見せた私は、数歩も行かぬうちに脚を撃たれた。続いて脇腹、腕。
それまでに味わったことのある痛みを全部まとめて、さらに倍にも三倍にもしたような激痛が私を襲った。衝撃で地べたに転がったまま、もうぴくりとも動けない。走り寄ってきた兵のひとりに髪を掴まれ、身体を持ち上げられたことすら、はっきりとは認識できないような有様だった。
死んだか、と誰かが尋ね、まだ生きてる、と誰かが答えた。ゲリラか、と別の誰かが尋ね、いやただの浮浪みたいだ、とまた別の誰かが答えた。放っとけ、と少し離れたところから誰かが云い、ああ、と肯う声とともに私の身体は放り出された。痛みさえ麻痺して呻き声ひとつ上げない私の身体を誰かが蹴飛ばし、さっさと行くぞ、と人の気配が遠ざかっていく。
同時に意識が遠のき、私は完全に気を失った。
気がついたのは、身体が燃えるように熱い感覚の中でのことだ。燃えちゃう、燃えちゃう、と叫んで飛び起きようとしたが、指先ひとつまともに動かすことはできなかった。あとで云われたとおりであるならば、ちゃんとした言葉さえ発することはできていなかったそうだ。
おや、おまえ女の子だったのか。そうか。
いくつぐらいなんだろうね。自分の歳、わかるわけないか。
髪を短くするよ。我慢しろよ。ここまで汚れちゃ、洗いきれないよ。
綺麗にしたらね、伸ばしてもいいから。
熱があるんだ、寝ていなさい。氷をお食べ、喉が渇いただろう。
目が覚めたかい。粥を作ったよ。食べるだろう。
それにしてもおまえ、ずいぶんと臭いね。少し我慢しなさい。拭いてあげるから。
そうだ、おまえ名前はなんていうんだ? なに? ない? 知らないんじゃなくて?
困ったね。俺がつけてあげてもいいんだけどね。情が移っちゃうと困るんだよな。
困るけど、不便だよね。不便なのも困るなあ。しかたないか。ね。
ああ、だめだよ掻き毟っちゃ。皮膚炎だね。薬を塗ってあげるから。
だめだったら! 薬だよ! 舐めちゃだめだ! だめ! こら! 俺の顔もだめ。
ほら、おはようだよ。おはよう。俺がおはようと云ったら起きるんだ。
目を開けなさい!
おはよう。
その声に目を醒ましたあのとき、私はふたつめの命を手に入れた。
陽射しに満ちた明るい部屋、白いシーツ。風にそよぐカーテン、遠くに聞こえる馬の嘶き。それらを背にした穏やかな容貌の男は、私の目を覗き込んでもう一度云った。――おはよう。
よく寝ていたね、と云われたあのとき、なにもかも夢なんじゃないだろうかと思った。
その幸福な場所が、ではない。それまでの私自身が、だ。彼に拾われるまでのあいだ、長い悪い夢を見ていたんじゃないかと、そう思ったのだ。
どうした、そんな顔して。俺のこと忘れちゃったの? おいで、ミルクを温めてあるよ。
伸ばされてくる手に自然に縋った。硬く筋張った逞しい手だった。よく鍛えられた大きな体にふさわしい、健やかな手だった。
つねにやわらかく微笑んでいるような顔をずっと見ていたくて、私は彼のあとをずっとついてまわった。
どうしたの、今日は? 後追いなんて、こどもみたいだな。やっぱりまだ早いんだよな。
表情に似合わない、深刻な声音だった。
でも、そろそろ限界なんだよね。なんにもできないお荷物を置いとけないって云われちゃうとさあ。俺もまだひよっこだからなあ。おまえ、頑張れる? 頑張れるよね? 頑張れないと、ここには置いてあげられないんだよ。
それから、彼は私に、軍属として必要なあらゆることを教え込んだ。
文字の読み綴り、計算にはじまり、地図の読み描き、いくつもの武器の扱い、車の運転、砲台の操作。船舶や航空機に関する山ほどの知識や、医療や通信に関するたくさんの技術。料理や繕い、掃除まで含めると、彼は生きることそのものを教えてくれようとしていたのかもしれないとも思う。
学ぶことは楽しく、同時に苦しかった。私はいつも叱られてばかりいた。
いまになって思えば、どれだけ拗ねて泣いても私を甘やかさなかった彼は正しかった。及第を得られるまで執拗なほどに叩き込まれた知識や技術は、そのあとの私をたしかに助けてくれたからだ。
時間は瞬くうちに過ぎていった。
やがて彼とふたりきりで過ごす時間が減り、大勢の仲間たちと本格的な訓練を受けるときがやってきた。早朝から叩き起こされ、冷たい雨の日もうだるような暑さの日も、重装備で朝から晩まで走りまわらされる。陽が沈んでからも、座学がない日には夜間訓練に駆り出された。
分秒を刻むような忙しなさであるにもかかわらず、訓練兵や新兵にはさらに炊事や洗濯、掃除までもが課されている。当番を忘れでもしようものなら、捕虜に対するよりも厳しい制裁が加えられた。
それでも私は、一度として音を上げなかった。彼に拾われるきっかけとなった銃創のせいで、私の片脚には不自由が残っている。そのためか、訓練は人の倍もきつかったけれど、決して諦めなかった。
頑張れるか、と訊いた彼に、頑張れる、と答えたからだ。
一緒にいられなくなる、と云った彼に、一緒にいたい、とせがんだからだ。
彼とともにあるためならば、どんな苦痛も苦痛ではなく、どんな過酷も過酷ではなかった。
またこんな傷をつくって。少しは気をつけなさい。
自分を大事にすることも覚えなくちゃ、すぐに死んじゃうよ。戦場ってのはそういうところなんだからね。
違う、そうじゃないよ。どうしておまえはそう地図を読むのが苦手なのかね。
そのくせ鼻はよく利くんよね。ひとりになりたいっていうときに限って、傍に寄ってきやがって。たまには迷子になったっていいんだよ。
この雨の中どこへ行っていたんだ! え? なに? 帰って来るななんて、そんなことひとことも云ってないだろう!
たまには髪を結ってやろうか。おまえに似合いそうな花飾りを見つけたんだよ。
いらない? なんで? 可愛いのに。こんなに可愛いのに。
代わりにピアノが聴きたい? だめだよ、代わりにって、ぜんぜん代わりになってないじゃないか。それにここでは音楽はだめなんだよ。最初に云っただろ。
じゃあ、代わりの代わりにラジオでもかけよう。え? ラジオは厭? ピアノ? だから、だめなんだって。
だめ! だめなものはだめなの! 我儘を云うな! いい子だから聞きわけてくれよ。な、頼むから。な。
そうか、いい子だな、おまえは。すごく、いい子だ。本当にいい子だ。俺なんかにはもったいないよ。
本当に。……本当にな。
許してくれるのか。そうか。ごめんな。ごめん。
もう寝るか。そうだな、もう寝よう。夢の中でならピアノ、弾いてやれるぞ。約束か。そうか、約束だ。
おやすみ。ああ、いい夢を。
おやすみ。
私にふたつめの命をくれたおはようの声。
果たされることのない約束を残して失われてしまったおやすみの声。
私は、私の幸いをずっと待ち続けている。
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