創作表現の源泉を探る
水無月 秋穂
第1話
人が何かを表現する時には、様々な手段が存在する。ここではそのうちの一つ、創作小説や文章の執筆について論じていこうと思う。
論じていくにあたり、ここでは段落の作成及び一字空け、改行等の従来の型に準じないことをご海容いただきたい。
理由としては、視野の不調を挙げておく。
単独では細かな調節が出来なくなっているため、型破りに目が痛む場合は回れ右を推奨しよう。
さて、前置きはここまでとして、我々が創作をする時には、白紙の時点で既に様々な歴史が足元にあることはご存知だろう。
例えば、文章の表現方法そのもの。これも元々は存在しなかったものだ。
本来、創作とはビッグバンのようなものではなかろうか。
心という原野に生じた表現への想いが、各々の言語を伴い文字化され外界に吐き出され、ひとまとまりとなって文章となる。
初期段階における創作表現とは、心そのものであって、知識では無いのではないだろうか。
言葉が言葉となる前に喉元で止まることがあると仮定しよう。少なからず経験者は居るはずだ。
その経験を、文字に置き換えてみる。
この時点で既に何らかのリミッターがかかっていることに意識を向けてみよう。
我々は、無意識のままでの執筆作業が可能であるだろうか。
答えは、否ではなかろうか。
筆者はこう感じている。
創作表現とは、積み重なった文学の歴史上の一定の型を有しているものだ。しかしその型は、本来の創作表現とは呼べないのかもしれないと。
白紙の紙に描いてある絵を誰かが小説だと述べたとしよう。それはあながち間違いではないのだと思っている。
そもそも、創作における間違いなど、有り得ないのだ。
創作とは、表現そのもの。
原初の心が判断すべき事柄であって、創作として世に出されたものの可否を決めるのは、源泉を知らない他者であるはずがない。
然れど、文化として認識され得るには、他者が在らねばならない。
己のみの創作とは、己によってしか創作と判断できないからだ。
心も人の世も矛盾を孕むものなればこそ、創作とは、多様なのであろう。
社会や文化に等しく、分かち合うために一定の型を持つものを、否定するつもりは毛頭無い。
だが、筆者は源泉に重点を置いて考えてみようと思っている。
枠が生まれる前の創作表現とは何ぞやと、常日頃空想に駆られるのだ。
古代文明を紐解いたのは、歴史教育を受けた歴史家であって、真のそれは当時の人々のみが知るだろう。
同様にして、創作という人の表現にもまた、創作という言葉すらない原型が在るが、そこから文字化に至るまでに幾重にも色が重なりと考えている。
我々は如何にしたらこの原型に、文字を抱いたまま辿り着けるだろうか。
そもそも、定型とは存在し得るのだろうか。
創作とは、心にある段階でそれであり、紙面のそれとは別の物のような気がしてならない。
だからこそ、寛容さを求めてしまう。原稿用紙の前の、白紙に記すくらいの余白を。
四角い枠の中の文字は、一文字一文字が叫んでいるように見えるのだ。
創作表現の源泉を探る 水無月 秋穂 @kosekiryou
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