インターバル2「気合いを入れろ」

「気合いを入れろ」


 俺の目の前で走っていた三つ編みの女子生徒、安藤が倒れた。

 安藤の顔は真っ赤で息も絶え絶え。軟弱すぎる!

 その女子生徒の様子に俺は、

「気合いが足りんな! この程度で倒れるとは!」

 と生徒たちに一喝する。

 ほかの生徒は整列をし直し、直立不動になる。

 安藤もふらつきながらも立ち上がる。しかし、足がおぼつかない。頭から倒れそうになる。

 そんな安藤に駆け寄ったショートカットの女子生徒、武村は安藤を抱きかかえると、

「先生! コレ、熱中症ですよ。熱中症って下手したら死ぬんですよ! 気合いだけが問題じゃないんです!」

 と叫んだ。

 俺は舌打ちする。くそ生意気な。

 俺は肩を落とし、首を振ると、

「俺の言うことをを聞けないっていうのか?」

 思い切り武村をにらみつける。

「聞くも聞かないも、これ以上やっちゃいけないことを止めるのは人として当たり前のことをしているだけですよ」

 武村の声は若干弱々しくなる。

「俺がやれと言ったことはおまえたちは必ずやらなきゃいけないんだ。そんなんじゃ、リレーは勝てないんだぞ! 優勝できないんだぞ! それがわからないのは愚かなことだな」

 俺はそう言うと、高笑いをする。

「とりあえず、今日は校庭十周な。安藤、おまえもだぞ」

 俺は安藤と武村を一瞥すると、

「あんな馬鹿にはおまえらはなるなよ」

 とほかの生徒に指導した。



「ったく。最近の若者は生意気すぎるぜ」

「センセ、飲み過ぎです。これでラストにしたら?」

 スナック「とりっく」でママが苦笑いしながら、レモンが刺さったハイボールを置く。

「だってよお。俺の言うことに刃向かうんだぜ?」

 俺はハイボールを一口飲む。

「言うことを聞かない生意気すぎる若者とは、どういうことでしょうか?」

 突然、誰もいなかったはずの右隣から女性の声が聞こえてきた。俺は思わず振り返る。

 腰まで伸びた長い椿黒の髪の女性が座っていた。真っ黒なスーツ越しからでもわかるぐらいグラマラスな女性だった。肌は色白で見とれてしまうほど整った顔立ちをしている。不気味なほど光っている金の瞳はまるで吸い込まれてしまいそうだ。

「奏ちゃん、いつも突然座らないでよ!」

 ママは金の瞳の女性に楽しげに話しかける。

「別にいいじゃあありませんか。幼馴染みのよしみで」

 奏と呼ばれた女性は口角を上げると頬杖をつき、レモンスカッシュを注文した。

「お兄さん、先生でしたっけ。生意気な生徒をどうしたいのでしょうか」

 奏に突然話しかけられた。思わずドキマギしてしまう。

「体育祭でクラス対抗リレーをするのだが、二人の女子生徒がワガママを起こしたんだ。これ以上やったら死ぬ! って。死ぬはずないのに! この程度、我慢できなきゃ世の中渡っていけないぞ! せっかく俺が鍛えてやっているのに!」

 俺はカウンターを思い切りたたく。並んでいるカップと瓶の耳に響く音がする。

「なら、先生、どんな風にしたいのですか?」

 奏は楽しげな金の瞳で俺を見る。

「ううん。そりゃあ……。リレーに勝つためにみんなに気合いを入れてもらって、一位を目指す、かなあ」

 奏はレモンスカッシュをストローですすると、

「実はわたくし、人の願い事を叶えることができるんですよ」

 そう言って、もう一回レモンスカッシュをすする。

「そんな馬鹿な! そんなこと言って、大金を請求するつもりだろ!」

 俺は訝しげに奏を見る。

「いえ。お代はいただきません。ボランティア活動なので」

 奏はたおやかに笑む。

「な……なら……。その願いを叶えてくれ」

「わかりました」

 奏は指を軽やかにならした。

「え、それでおわり?」

「ええ。終わりです」

 奏はきっぱりと言い切る。

「金は払わないからな」

 俺は立ち上がると、「とりっく」の扉を勢いよく開け、

「ママ、つけておいてくれ」

 と言って、そのまま帰ることにした。



 その翌日のことである。

 体育祭の練習の時間になった。

 俺は校庭に出ると、クラスの全員が整列して直立不動で立っていた。あの安藤も武村も!

 俺は驚いた。まさか、あの願いが叶うなんて!

「うんうん。みんな気合いが入っているな!」

 その様子を見て、俺は満足した。それから、リレーの練習をした。新記録が出た。



 体育祭本番のことである。

 徒競走をはじめとして、障害物競走や大玉転がし、借り物競走など様々な種目が行われていった。

 そして、大トリの学年クラス対抗リレーが始まった。

 うちのクラスがトップだ。一週ごとの記録も更新している。

 俺の胸は高鳴りを感じた。よし、おまえら、おまえらそのまま気合いを入れていけ!

 しかし、安藤の番のときだ。あろうことか、安藤は躓き、そのまま転んだのだ。

 そのおかげで、ダントツトップだった俺のクラスは三位でゴールインした。

 俺は落胆した。


 体育祭の後片付けが終わった後、俺はクラス全員を校庭の隅に集めた。

「このリレーの敗因は誰だ?」

 俺は安藤をにらみつける。

 安藤は顔をゆがませ、うつむくと、その場から走ってどこかへ逃げた。

 俺はため息をつくと、

「それにあの奏って女、結局、俺の願いを叶えてくれなかったじゃあないか」

 とつぶやいた。



 その晩のこと。

 俺はスナック「とりっく」で、ハイボールを飲んでいた。

「ったく、あの奏って女もふざけてやがる。期待させておいて、この様ってよお」

「ふざけてなんかいませんよ」

 俺の言葉に反応した女性の声の方向を見た。

 奏がいた。

 俺は奏の胸ぐらをつかみ、

「おい、てめえ。願いなんて叶わなかったじゃあないか!」

 と叫んだ。

「ちょっと、センセ、落ち着いて」

 ママは仲裁に入る。

「ママ、止めるんじゃあねえ。このアマを殴らないと、気が済まないんだよ!」

 俺はママを一瞥すると、奏に向かって、大きく拳を振りかぶった。

 しかし、当たった感触はない。

「ねえ、先生? わたくしを殴ろうなんて十年、いや百年早いですよ」

 奏はさっきの真反対の席に座っていた。

「そもそも、一位を目指すことを願ったはずです。一位になりたいだなんて、一言も言っていないじゃあないですか」

 奏は嫌味な笑みをする。

「わたくしは、明後日の新聞が楽しみですので、これで帰りますね」

 奏はそう言うと、静かに「とりっく」から出た。

「明後日の新聞?」

 ママは首をかしげた。



 翌日、学校に行った途端、校長と教頭に呼ばれた。

 安藤のことについてだった。

 安藤は体育祭の後、熱中症になって病院へ入院したという。

「それがどうかしたのですか?」

 俺は首をひねる。

「君、彼女が熱中症って気がつかなかったのかい? 前もあったそうじゃないか。君のクラスの武村さんの保護者から聞いたよ」

 教頭は俺の顔をひそめた眉で見つめる。

「あれは熱中症ではなく、気合いが足りなかっただけです!」

 俺は必死に校長に訴える。

「しかも、体育祭の後にリレーでこけた安藤さんを責めたそうじゃあないか」

 教頭はたたみかけるように俺をにらみつける。

「だって、それは。一位をとれなかったから……」

 きつい口調の教頭に俺の声は弱々しくなる。

「それは君のワガママでしょう」

 校長は静かにピシャリと言い切った。

「え……。ワガママ?」

 俺はオウム返しをしてしまう。

「一位じゃないとダメ。一位を取れなかった犯人を責める。そんなのはあなたのワガママじゃないですか。どこが教育ですか?」

 校長は深く息を吐く。

 電話が鳴った。

 校長は電話を取る。

 頷く校長の顔はだんだんと青ざめていった。

 電話を切った校長は、俺の顔を見て言った。

「安藤さんはなくなったよ」

 教頭の顔にも血の気がなくなった。

 俺の心臓も冷たくなった。


 そのとき、一瞬地震が起きた。

 俺は揺れが苦手なため、伏せる。

 地震がやんだ後、俺は立ち上がる。

 校長と教頭はパントマイムのように動いていなかった。

 最初はふざけていると思っていたのだけど、なんだか様子がおかしい。

「ちょっと時間を止めさせていただきました」

 どこからともなく、奏が姿を現した。奏は校長のデスクに腰をかけ、足を組むと、

「人って弱いんですよ。ちょっとした弾みで人は死んでしまうんです。気合いだけで生きていけたら、人間、誰でも幸せですよ」

 奏は足を組み直すと、

「あなたの今後の苦しい人生もその気合いだけで生きてくださいね」

 ウィンクする。

「おい。ちょっと、待て!」

 俺は、彼女を呼び止めようとした。しかし、

「では、頑張ってください」

 とだけ言って、微笑む。それから彼女は指を鳴らすと、煙のように消え去った。

 俺の耳には、

「教育委員会とマスコミが怖いなあ……」

「人、一人死んでいるんですよ!」

 と言う校長と教頭の震え声だけが聞こえてきた。

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