4
藪の傍に車を停めた。午前九時の空は青く、煙突から上がる煙がよく見えた。私は藪へ分け入った。
泉美先輩についてきてもらうことも考えたが、結局一人で行くことを選んだ。先輩の身に何かあったら困るからだ。そのせいで心細さに胸が悲鳴を上げているけれど、きっと誰かがやらなくてはいけないことなのだ。
夏草を踏みしめて歩く。藪の向こうに、白いブラウスと紺色のスカートが閃いたような気がした。彼女が呼んでいるのかもしれないと思った。
汗を流しながら小屋までたどり着くと錆びついた錠を回して入った。埃っぽさが鼻をつく。小屋の中に調度は何もない。
向かって奥に、錆びついた炉があった。稼働している気配はなかった。窓がないので扉を開けたままにしておいたが、小屋に入った途端、虫の声も、遠い車の往来も消し飛んで、静寂が肌身に染み入ってきた。
おそるおそる炉に近づいた。寒くもないのに全身が粟立った。震える手で蓋の取手に触れると、冷たく錆にざらついていた。叫びたいのをこらえて大きく息を吸うと、一気に蓋を引き上げた。
薄暗い中、底に少しの灰が溜まっていた。それだけだった。
早鐘を打つ胸をおさえて、肩で息をする。炉を覗いたら何かが変わるかと思ったけれど、徒労だったようだ。何もないのなら、ここでできることはもうないように思える。
私は炉をそっと閉じて、入口まで戻った。小屋を出ようとしたその瞬間だった。
炉の蓋が開く音がした。
脚が凍りついた。背後で何かがゆっくりと動き出す気配があった。出口がすぐそこにあるのに、私は動くことができないでいた。
それは音もなく、中空をじわじわと近づいてきていた。それは頭の後ろまで辿り着くと、両耳の真横まで伸びて、外を凝視して動かない私の目の前に現れた。
黒く焼け爛れた手だった。
それは私の顔を、ゆっくりと覆った。生者の温度ではなかった。私はかすれた声で言った。
「あなたはずっと、離れられないでいるの?」
顔を覆っていた手が交差して、腕が伸びてくる。全身が総毛立つ。私は叫んでいた。
「私たちはあなたを守れなかった!」
黒い腕が後ろから私の頭を抱きすくめて、だんだんと締め付けてきた。目の前の青空と夏草が滲んでぼやけた。頬を伝う涙が熱かった。
「だから……ごめんなさい」
締め付ける腕の力が消えた。私はそこで意識を手放した。
「京子ちゃん!」
呼びかける声で目が覚めた。蛍光灯の明かりが目に染みる。半身を起こすと薬品の匂いがした。
「気がついたのね。よかった……」
学校の保健室だった。ベッドの隣には目を潤ませた泉美先輩がいた。
先輩は私を見つけた経緯を教えてくれた。彼女は自分の仕事を片付けようと午後から学校にやってきて、事務室が空なのに気がついた。日直が私であり、焼却炉の鍵がなくなっていることを知った先輩はすぐに焼却炉へと向かい、小屋の前で倒れている私を見つけた。
私に怪我はなかったが、顔に黒く煤がこびりついていたという。
「あたし、京子ちゃんが死んじゃったらどうしようかと思って……」
先輩はそう言って涙を流した。渦中にいた私のほうが冷静なくらいだった。私は事の顛末を話した。先輩は一人で危ないことはしないでと叱った後、やさしい目で付け加えた。
「でもあたしは京子ちゃんのやったこと、誇りに思うよ」
月曜日、私はいつも通り出勤した。先輩と二人で、土曜日の一件は誰にも話さないと決めていた。
朝の会での健康観察で、私はひどく緊張しながら名前を読み上げた。
一、二、三……三十九、四十。
きちんと四十人だ。外を見ると、煙は出ていなかった。ほっとした。
午前の授業はつつがなく終わり、昼休みの時間にフミヤを誰も使っていない理科室へ呼び出した。フミヤは緊張した様子で椅子に座った。
「なんですか」
「今日の給食おいしかったよね。先生ね、今日のゼリーすごく好きだったな」
「あ、はい。おいしかったです」
「最近楽しいと思うことは何? 先生は映画を観に行くのが好きなんだけど」
「カード買って、集めて、戦うのが楽しいです」
「フミヤくん、最近クラスでどう? 困ってることとかない?」
話しやすい話題から、慎重にフミヤの人間関係や生活を聞き出していく。
「先週コウジくんが、バスケットボールのとき、とても強いパスをしていたよね。あれは痛いなって思わなかった?」
水を向けると、重い口が開いていった。だんだんと、フミヤがコウジから乱暴な扱いを受けていたことがわかってきた。
「わかった。話してくれてありがとう。コウジくんには乱暴なことしちゃダメだって、強く言っておくからね。今度こんなことがあったら、必ず先生に言うのよ」
「はい。わかりました」
フミヤはどこか気が晴れた様子で、理科室を後にした。
午後の授業の最初、授業時間を削って、私はクラス全体に話をした。
どんな理由があっても、他人の嫌がること、乱暴なことは絶対にしてはいけないこと。そのようなことをされたら、必ずすぐに先生に言うこと。そんなことをしている人を見つけても、見て見ぬふりはせず、必ず先生に言うこと。みんなは神妙に話を聞いてくれていた。
午後の授業が終わって帰りの会の最後、クラス全体で挨拶をした後、私は目立たないようにコウジを呼び出そうと彼の姿を探した。
しかし、彼の姿がどこにも見えない。
挨拶を終えてすぐに帰ってしまったのだろうか。だが彼の机にはランドセルや給食袋などがまだかかっている。他のクラスに遊びにでも行ったのだろうか。
私は言い知れない不安に駆られて、まだ残っている子どもたちにコウジを見ていないか数人に尋ねた。どの子も首を振った。
私は教室を出ると廊下を走った。多くの児童が驚いて振り向いた。廊下を走るなと言っているのはいつも私のほうなのに。職員室へ駆け込むと電話を取り、全校放送でコウジを呼び出した。
だがいてもたってもいられず、彼が来たときのために書置きをするとすぐに取って返した。一組も二組も見て回るが姿がない。
三組に戻ると、教室にはもう誰もいなかった。コウジの持ち物だけが机に下がっていて、不安がじわじわと心を蝕んでいく。
そんなとき、ふと私はそれに気づいた。
私は教室の後方へと歩いていき、掃除用具入れの前に立った。用具入れの扉の下にはわずかに隙間がある。そこに内履きシューズの爪先が二足ぶん垣間見えていた。
「コウジ、観念しなさい」
扉がゆっくりと開いて、きまり悪そうな顔をしたコウジが現れた。
「どうしてこんなことをしたの」
私が問うと、フミヤが昼休みに呼び出されたのに気づいて、さらにその後の私の説諭があったので、放課後自分が怒られるのではないかと思い、帰りの会の挨拶の途中に自分の席から移動し掃除用具入れに隠れたのだと言った。
「私もまだまだ未熟だな」
思わず呟くと、コウジが不思議な顔をする。
「じゃあコウジくん。これから先生と話そうか」
本当は怖い顔で言うはずだったのに、思わず笑顔になってしまった。それが不気味だったのか、コウジがひどく怯えた顔をする。
彼を掃除用具入れから連れ出して、教室の出口へと歩き出す。
窓の外を見やると、煙も雲もない、澄んだ青空が広がっていた。
<終>
煤と煙 遠野遠 @Tonoen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます