3-11
公園の入り口は鬱蒼とした雑木林になっていた。全貌が掴めない。やっぱりここらへんの区は湾岸地帯だからか、使える土地がいっぱいあって公園が大きいなとぼんやり思う。
暗くなった道を歩いて進んでいくと、真ん中に噴水がでんと置かれた広場に出た。節水のためか、かつては絶え間なく水を噴き出していたであろう噴水は止められ、でも比較的きれいな水がそこには溜まっていた。日差しに目を細める。
さきほどの公園とは違い、不気味なほどに人がいなかった。自転車が広場の端っこに停めてあるあたり、誰もいないということはないみたいだけれど、みな別のエリアに行ってしまったらしい。
この広場にいるのはひとりの男の人だけだった。その人は噴水のやや奥まった場所──ベンチとベンチのあいだに設置された銅像と同じ高さにいた。像が鎮座する台のわずかなスペースに器用に乗り、苦悩しているのか開放感に悦んでいるのかよくわからないポーズをとっている裸像を撫でさすり、指でぐいぐいと圧したりしていた。
先輩と僕はその人をちらりと見、困惑して顔を見合わせ、そして二度見し、そのままこの場を立ち去ろうとしてもう一度像を見た。
「ぴょーの! ぴょーの!」
ちょっと癪に障る声が聞こえてきた。立派な台座部分の周囲をくるくるとまわって、探索用の音叉を盗んだ丸っこい獣が楽しそうに男性を見上げていた。
「あっ」
思わず大きい声が出てしまう。
男の人はこちらを見やると、眼下にいる獣を見やった。逡巡したのち下に降りる。広場に敷かれたレンガ床と便所サンダルがじゃりっとこすれた。僕らにそうしたように獣はその人にもいたずらする気満々といった表情をしていた。大きな口をがっぱりと開けて、不吉な笑みを浮かべている。
「まずいのでは」と先輩に同意を求める。しかし彼女は「むう……」と唸りながらことの行く末を見守る姿勢に入った。
「いいんですか?」
「わからない。ただ、あの人は只者じゃない」
裸像に怪しげなマッサージをする人だから、たしかに只者ではない。
「見かけそんな感じですが……だから大丈夫と?」
僕がたずねた瞬間に獣は「ぴょのぴょの」と笑いながら音叉を持つ手を高速で突き出した。じゃりっ──と便所サンダルを履いた脚がわずかに動く。男の人の身が数センチ横にずれた。ただそれだけなのに、繰り出された音叉の先端は空を切り、丸っこい獣は「ぴょのの」と疑問の声をあげる。
「甘い甘い」男の人が静かに言ったと思うと、また便所サンダルと地面の擦れる音が聞こえた。目にもとまらぬ速さで脚が鞭のようにしなり、次の瞬間、獣は「ぴぎ」と断末魔を上げて爆発四散していた。
しゅうしゅうと獣の破片が空気中に散っていく。それに混じって宙に放り出された銀色の音叉が、太陽の光をあたりに乱反射させる。男の人の太い指がぬうと伸び、空中で回転していた音叉を見事にキャッチする。
「わあっ」「すごい」と僕らは驚き、「すみませーん。それ、僕らのなんですー!」と声をかけた。
彼は丸顔をくしゃりとさせると音叉を掲げて、早くこっちに来なさいと言わんばかりにそれを軽く振った。
僕らが駆け寄ると彼は先輩の腕をむんずと掴んでその場で引き倒し、先輩が履いていたコンバットブーツの紐を素麺でも手繰るようにほどくとそれを脱がして、そして──
「あーっ! イダダダダダダダ!」
レギンスで覆われた黒い足の裏に親指の腹をぐいっと押し付けた。
指圧だ。
指圧だった。
僕は急な展開についていけずその場で硬直してしまう。先輩は苦悶の表情を浮かべ、ひいひいと喘ぎながらなんとか体勢を整えようともがくけれど、指圧の男はもう片方のブーツもぽいと放り投げて、そっちには音叉の持ち手をずむりと押し込んだ。持ち手の先端は丸っこい珠のようなものがついている。つぼをぐりぐりと刺激するのに良さそうだった。先輩は「無理無理無理っ、無理ひぃっ」とか細い声を絞り出し背をのけぞらせる。
目の前でいきなり暴力が起きると対処するのは難しい。いや、というか、これは暴力なのか? え、あれ、でも指圧だし……あれ? 先輩は痛がっている。痛がっている。それに同意を得ていない一方的な激しい指圧は暴力も同然。僕のなかでぱぱっと論が組み立てられる。瞬間的に頭に血が上り、指圧師を突き飛ばさんと無我夢中で掴みかかっていた。
「うおーっ! 先輩をよくも! うおー! ……あいたー!」
しかしその手も柔術の達人がそうするように絡め取られてしまい、からだがふわりと浮かんだと思ったら、びたーんと地面に叩きつけられていた。
「あいたー!」
僕のシューズも無理やりぽいぽいと脱がされて、柔らかそうなのに硬そうな大きな手で僕の足裏もぐいぐいとやられる。
「あいたー!」
その指圧は激しく、だけれどどこか自分がふるいものから新しいものに変わっていってしまうような快感を脳にはしらせた。これだけ痛いんだからきっと良いに違いないと脳がバグっているのか、それとも本当にイタ気持ちいいのか判別がつかず、混乱する頭で僕は懸命に魔の手から逃れようとした。
「むうっ?」
男は僕の足裏を指の腹でなぞってなにかを探り当てると、からだの奥からそれをつまんで引っ張り上げた。その武道家じみた指につままれていたのは、どこにでもありそうな銀色の鍵だった。
それは大事な鍵だった。先輩との逢瀬に使っている、学校の屋上の鍵だった。
「おお、これはこれは。面白いもの持ってるじゃあねえの。ええ?」
男は片目をつむり、鍵をためつすがめつ見た。
「か、返せ……!」と手を伸ばすも、ぐりぐりとした痛みが僕の思考を吹き飛ばした。
「あいたたた! これっ、なんのっ、ツボっ、ですかっ」
「ツボっつうか、うん、慢性的な寝不足が出てる」
思い当たるフシがあった。いや、訊いてる場合でも納得してる場合でもない。隣では先輩が仰向けになったままひいひいと息をし、僕と目が合うやにやりと笑った。その潤んだ瞳には僕が大変な目に遭っているのを見ていて楽しい、という気持ちも多分に含まれていた。君臨号はというと離れた場所でちょこんと座り、推移を見守っているだけだった。
「それに少年面白いなあ」と彼はぐいぐいと力を込めながら続ける。なんだか普通のマッサージに切り替わっているようで、絶妙に気持ちよかった。
「王にしちゃあ、成りたてだとしても
指圧のおじさんはなんらかの含意のある目で先輩を一瞥し、君臨号にも目をくれる。僕の足裏から手を離す。先輩の小さな足を大きな手でふわりと包むと、その優しい動作とは裏腹に強い刺激を再開した。先輩は「きゃいん!」と小さく鳴いて仰け反った。あごから垂れていた汗が宙に舞い、きらりと光る。
おじさんは僕に鍵を放って返しつつ言葉をつづける。
「わかってんのかどうかわからないが、そりゃ
「……なんの話ですか」
話が見えてこない。話が見えてこないけれど、この人が僕や先輩のような〈王さま〉か、それに準ずる何者かであるのは間違いがなかった。
「少年、このまんまじゃ狙われるぞ」とおじさんは手をとめて僕をじっと見て言う。「それとも既に……」
思わせぶりにおじさんは言い、先輩を値踏みする。荒く呼吸をする先輩の顔は明後日の方を向き、おでこを押さえるようにあてがわれた腕で表情はよく見えない。ただ唇の端が歪んでいるのだけがわかった。苦痛で歪むにしては、奇妙な歪み方だった。
「あー! やっぱり!」
突然、大きな声が噴水広場に響き渡った。元気ではつらつとした声。跳ね回るスーパーボールみたいな女の子の、知っている声だった。
「兄さーん!」たったった、という軽快な足音とともに声をかけられる。「キルシ兄さぁーんっ!」
僕はそちらを向いた。
長い黒髪をふたつに結い、尻尾のように振りながら女の子は駆けてきていた。
「とりゃあ!」と威勢良く声を出して、ピンク色のスニーカーに包まれた足で地を踏んで、あんま師のおじさんに飛び蹴りを放つ。
おじさんは飛んできた少女の脚と腰に大きな手をあてがうと、放たれた力の流れを上手く利用してそのまま宙に受け流した。女の子はぽーんと放り投げられ「あやややっ」と驚きの声を上げる。
空中でなんとか反転し、着地した瞬間に綺麗な受け身を取ってごろごろと転がったと思うと瞬時に立ち上がる。おじさんに負けず劣らず、この子も人間離れした動きを軽々とやってのけた。
「ハズレちゃん!」と僕はその子に声をかけた。つづけて突然の狼藉を咎めようとしたけれど、なんという言葉を投げたらいいのか逡巡してしまい、しまいには「良くない!」と小さな子を叱るような口調になってしまった。こんなことしか言えなくて、僕は少し恥ずかしかった。
ツインテールの女の子──ハズレちゃんは細いフレームのメガネの鼻の部分を親指と人差し指で摘んで位置を整えた。そしてこちらを一瞥して
「そこなおじさんの方が
言っている意味は良くわからなかったけれど、あんまのおじさんの方が悪いから自分はセーフと言いたいらしかった。
「すみません、変わった子で……」とおじさんに僕は釈明するけれど、おじさんがいきなり僕らを襲ったのは事実なので、申し訳なそうに釈明をしているのも良くわからなかった。つぎつぎと起こる珍奇な現象に流されまくっていた。
ハズレちゃんは乱れた髪の毛をさっと整え、左半身を向ける。左手を突き出し、右腕は胸の下に構えた。
「ちびっこ空手教室“拳究会”船堀道場所属、
少女は吠えた。
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