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 大きな扇風機が首をゆったりと振り、僕の顔にぬるくて優しい風をなでつけてくれる。


 僕は所長と呼ばれている男性から受け取った、分厚い雑誌に目を落とした。『戯合時報』と表紙にある。


 僕が参加している、国道を巡る全時空規模のゲーム──〈ロードサイド・ウォリアー〉のランク表がそのページには載っていた。


 第834回ハシャマス杯──僕が先日巻き込まれたレースの名前だ。成り行きで巻き込まれたため、ランク表に僕は載っていない。でも、小さいコラムの中には、明らかに僕に対する言及があった。


 闖入した黒い騎士は禁じ手を使った挙げ句、首位を独走し暴れまわっていた〈炎の貴婦人〉とやりあった、とか。公式戦において道路の裏に潜るという禁じ手をやすやすと使える、その〈王さま〉の正体は何者なのか、とか。禁じ手を使うその黒い騎士の名前を仮に〈グリッチ・ウォーカー〉としたい、とか。


「あの宇宙的道路は強固なプロテクトがかかってる。全時空の道路の集合体で、ほころびがあるとはいっても、その“あいだ”に潜るだなんてね」


 きみはいったい、どんな手を使ったんだい? 所長さんは柔和に微笑みつつも、やんわりと探りを入れてきた。とはいえ、その仕組みは僕にもわかってはいない。そもそも、初対面の人に、しかも〈王さま〉と思しき人にそんなことを話してもいいのかどうか……いや、先輩が信用しているのなら、大丈夫なんだろうか。しかしかいつまんで話そうにもだいぶ長い話に……と悩んでいるところで、別の部屋に消えていた先輩が帰ってきた。


「無理ですよ所長。〈獣〉が関わってますから、キルシくんにもよくわかってないんですよ」


 そう会話に混じってきた。所長さんは「なるほどね」と肩をすくめた。


 彼女はいつもの黒いセーラー服に学帽姿から一変、探検家のような恰好になっていた。


 黒いハイネックインナーの上から、ベージュ色の半袖のサファリシャツを羽織り、下は丈の短い濃いカーキ色のショートパンツ。セーラーのスカート丈より短い、そのショートパンツからすらりと伸びた脚は黒いレギンスに覆われ、ハイカットのコンバットブーツに収まっていた。どこか中性的な顔立ちの先輩がするそんな服装は、背伸びした美少年のようで、僕は不意をつかれた気分になった。つまり、どきっとした。


「どうだい、どうだい」


 先輩は僕の心の内を見透かしているのか、にやにやと笑いながらモデルのようなポーズをつぎつぎとしていく。


「かわいいっす」と僕が小声で答えると、先輩は満足げに胸をはった。


「──と、のろけをしてる場合じゃないですね、所長」


 所長さんは今度こそにこやかに微笑んだ。


「キルシくんといったっけ? はじめてだよね、簡単なビデオでも見ようか」




 僕と先輩はビル街の裏手にある、人通りの少ない日陰を歩いていた。日差しがないぶん、湿度は高くても暑さはましだった。


 まえを楽しそうに歩く先輩の右手には、音叉のような金属製の物体が握られている。その細長いU字の部分を、先輩はときおりガードレールに当ててこいんと鳴らしたり、電柱に当て、もいんと鳴らしたりしていた。音を鳴らすたびに彼女は「こっちかな」とか「もうちょっと先かな」とひとりごちて進路を変えたりしていた。


「あ、もうすぐだと思うよ」そう彼女は振り返って、軽く笑みを浮かべて言う。「お待ちかねの、今日の初ものだよ」


 なんてことはない雑居ビルの角を曲がって、裏手に出た。


 ややじとじとした雰囲気。築三十年以上は経ってそうな外壁は汚れていた。パイプがくねりってへばりつき、室外機は静かに寝静まっていた。今日はなかにだれもいないんだろうか。


 そこには、白っぽい塗装が剥がれて赤錆が見える裏口扉があった。でも、なにかおかしい。


「気がついたかい?」先輩が試すように訊いてくる。「よおく見てごらん」


 僕は近づいて、よく見る。裏口扉──その隣のすこし上、なにもない空間にが突き出ていた。なんで裏口扉の上じゃなくて、そのとなりにあるんだろう。変だ。変だけれど、ひさしは存在している。どういうことだ?


「──ん?」


 もっと近寄ると、ひさしの下だけ色が違っていた。ビルの壁面とは若干違うクリーム色で塗られている。その範囲はとなりあった裏口扉と同じ長方形だ。塗りも若干甘く、やや塗料が浮いていた。


「塗り固めてある……」


「そのとおり」僕の背中に向かって先輩が満足げに頷いているのが、見なくとも声色でわかった。


「それこそが、トマソンだ」


 忘れ去られているようで、でも完全には忘却されていない、存在がちゃんとあるもの。


 ──トマソンとは、簡単に言えば町の幽霊です。


 数十分前に聞いたことばを、僕は思い出していた。

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