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動きやすい恰好でね、ほら、いつもきみが夜に散歩するときみたいな感じでいいよと先輩から言われたので、僕はウォーキングに行くのと同じように、GUで買ったドライ効果を謳ういつものハーフパンツとシャツを着た。ショルダーバッグには麦茶が入った魔法瓶と塩分補給用のタブレットとラムネ、扇子、それから財布とスマホ用のモバイルバッテリーに、念の為カセットウォークマンも入れておく。それからキャップも。今日は晴天だった。
先輩はいつもどおりの黒いセーラー服姿だった。先輩は? とたずねると、ぼくはあとで着替えるから大丈夫だよとのこと。
「それより、ほら」と言って、先輩は一冊の分厚い文庫本を差し出してきた。
表紙に配置されたモノクロ写真には、野暮ったいメガネをかけた青年が写っていた。片手に棒を持ち、やたらと細い足場に立っている。写真は、青年が持つ棒の先端にくくりつけられたカメラからのようだった。つまり、自撮りというやつだ。驚くことに、青年が立っているのは高い煙突の頂点だった。魚眼レンズで撮っているのか、地表にある平屋や空き地が上手く写っている。
「これは?」
「まあ、すべてのはじまりかな」と先輩はいつもみたいにやや壮大に言った。「一応、参考になるだろうし、貸すよ。持ってて」
僕らは僕の家の屋上に出る。屋上までの階段は、初夏の熱気がこもっていてむしむしとしていて、どこか息苦しかった。
扉を開け、シューズを履いて茶色い撥水タイルの上に出る。
「はい」と先輩が手を差し出すので、僕はそれをそっと握る。「じゃあ行くよ」
からだをさらりとした泥のなかを通り抜ける感覚が一瞬だけあると、次の瞬間には風景が一変していた。僕の家の屋上から見える住宅地の風景はもうなく、雑居ビルが立ち並び、そのすこし先には新宿の高層ビル郡が見えた。
これが“場所”を支配する〈王さま〉の能力だった。自分が支配した場所を時間や空間関係なく、瞬時に移動できる超常の力──。
僕はよろめき、おっとっととつんのめりそうになる。先輩の“移動”はあまりにも上手い。身体にかかる重力と景色が一瞬で変化することに、僕の脳はまだちゃんとついていけなかった。
先輩が握る手に力を込め、僕をやすやすと引っ張る。細い腕なのにとても力強い。自分のものにした屋上にいる以上、彼女に腕力などで勝つことができるのは同じ〈屋上の王さま〉だけだろう。
「ごめんごめん、いつもみたいにいっせーのーせでジャンプにすればよかったね」
先輩はたははと苦笑する。僕はいえいえと答える。初めてのときは立ちくらみが凄かったし、そのときに比べたら慣れたものだった。
先輩が移動したのは代々木近辺の雑居ビルの屋上だった。でも、目的の場所はこのビルではなく、このビルの真正面にある、やたらと古臭いべつの雑居ビルだった。八階建てで、いかにも昭和の探偵ドラマにでも出てきそうな雰囲気。
エレベーターが故障中だったので、埃っぽい、古本屋のようなにおいが充満したビルの階段を僕らはのぼっていく。五階に着くと、先輩は一息ついてから「ここだよ」と言った。学帽を脱ぎ、額の汗をハンカチでぬぐう。夏なのに着ているハイネックのインナーも、ややじっとりとしていた。僕の顔にも玉のような汗が噴き出ていた。タオルで拭き終わると、先輩と目が合う。
「先輩、暑くないんですか?」
先輩はきれいな眉をひそませ、やれやれ困ったなという表情になった。僕を諭すときによくやる表情だけど、そこには嫌味や呆れがあまり感じられない。ほんとうに「やれやれ、きみは困ったやつだな」という感じで、それが僕は好きだった。
「きみは、夏になってからいつも同じことを言うね」
「そりゃ、気になりますし。だって学帽は蒸れそうですし、ハイネックのインナーですし、やたら黒いタイツも履いてますし、冬服のセーラーじゃないですか。冬はいいですけど、流石に夏場は……」
「かっこいいからさ」
何度めかの主張だった。それは僕も同意見だったので、何度めかの首肯をした。
「かっこいいです」
「だろ? それに、なんだかんだで時と場合に合わせて、生地とかは通気性のいいものを選んでたりするんだぜ?」
それは知らなかった。よくよくタイツを観察すると、それはくるぶしまでしか丈がないスポーティーなレギンスだった。もしかしたらハイネックのインナーもそうなのかもしれない。
それはともかく──
「じゃあ、入ろっか」
木製で緑色の塗装がだいぶ剥げかけている扉の、これまた色がくすみまくった金色のドアノブに、先輩は手を伸ばした。
扉にはめこまれたすりガラスには、古い書体でこう書かれていた。
〈超芸術同位体研究所 ゴジゲン組織〉
「所長ぉ、おひさしぶりで~す」
先輩はそう言いながら、慣れきった様子で入室する。ぼくも「……ぉ、じゃましま~す」と小さく追従した。
教室ほどはある室内の奥──その窓際に、しっかりしたデスクがあった。
使い込まれた黒革のオフィスチェアーにもたれかかっていた男性が、僕らに気がつくと、くわえていた煙草を灰皿に立てかけた。読んでいた雑誌から目を上げる。顔の輪郭が四角く、がっしりした顔つきだけれど、目つきはどこか人好きのする柔和なものだった。彼は先輩と僕ににこりと微笑んだ。
「ようこそ、
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