1-6

 次元の壁をこなごなにぶち破った僕は急制動をかける。スニーカーを覆った力場がアスファルトと接触して火を噴き、けたたましい摩擦音をあげながら炎のラインをひいていく。まるでデロリアンになったみたいだなと毎回思う。


 ピタリと止まったところで、僕はその場に仰向けで倒れ込み、全身で息をしはじめた。腕時計を確認すると、いまは午前二時だ。わずかながら時間を遡っていた。


 全身から汗が吹き出、身につけたスポーツウェアをゆっくりと湿らせていく。通気性に優れたコンプレッションタイツに覆われた脚がひんやりとして、なんだか変な感覚だった。汗で蒸れて不快な手首から腕時計を一旦外す。


 耳にはめたイヤフォンからはホワイトノイズとともに獣の呼吸音が聞こえている。夜空が広がっていた視界に〈君臨号〉がのそりと首を突っ込み、生暖かい舌で汗がダラダラと流れる僕の顔を舐めはじめた。


 ひとしきり僕の顔を舐めると、体力をつけろ、というようなことを言ってきた。実際なんて言ったのかはよくわからない。〈君臨号〉は存在も姿形も曖昧であれば、放つ言葉も僕らの耳にはうまく捉えられないほど曖昧だった。なんとなく、頭のなかにぼんやりとした思念を流し込まれるような感じ。


「わかってるよ」と僕がやや鬱陶しげに返事をすると、おまえは〈王さま〉である以上もっと鍛えるべきだ、などと言う。


 僕は上体を起こし、唾液と汗まみれの顔に手を触れるが、指先には湿った人肌の感触があるだけだった。こいつが汗を舐めたという行動も、僕が汗を舐められたという事実も、どこか遠くへと行ってしまったのかもしれない。


 違う世界に行けるのは便利だけれど、思いきり走るとめちゃくちゃ喉が乾くしお腹も減るから、ショルダーバッグからボトルを取り出して、ポカリスエットを飲みまくる。次にウィダーインゼリーの封を開け、パウチを絞ってどろどろしたグレープフルーツ味のゼリーを胃のなかに流し込んだ。ゼリーをしぼり出されてくしゃくしゃになった容器は、まるで動物の骨のようだった。


 そして再びポカリスエットを飲む。ポカリスエット、ウィダーインゼリー、ポカリスエットのコンボで口の中が甘ったるくケミカルな味に支配されていく。お茶も持ってくればよかったかもしれない。


 ふぅーっと何度か深呼吸を繰り返してから立ち上がった。あたりを見回してみると、お馴染みな郊外の風景が広がっていた。


 四車線の大きな道路。ぼんやりとアスファルトを照らす街灯。点在する、一階建ての大きめな敷地面積を持つ店舗たち。


 奇妙なことに、車は一台もとおっていない。とおった気配すらない。イヤフォンを片耳だけ外してみるが、エンジンの音はどこからも聞こえないし、もっといえば生活音のようなものすら全然聞こえない。すべてが寝静まったかのようだ。いまが午前二時というのもあるけれど、これはどこか妙だった。


 そもそも午前二時なのに、なぜこの国道沿いにある店舗たちは――ロイヤルホストは、ジョーシンは、西松屋は――明かりがついていて通常どおり営業しているのだろうか。


 人がいない世界、という可能性もある。〈果て〉なんかがまさにそうだ。ここはそういった世界なのかもしれない。


 ここであっている。そう〈君臨号〉は言うと、ふんすふんすと鼻をひくつかせ、やや小走り気味に歩きはじめた。奴の爪だと思しき部位がアスファルトに当たるたび、ちゃかちゃか、ちゃかちゃか、と軽快な音を鳴らしている。


 近いのか? 僕は尋ねる。少しズレたからな、2キロほどだ、とのこと。


 僕が早足気味に歩くと、だいたい1キロを10分で進むことができる。スマホに入れたナイキのランニングアプリが、散歩の最中「1、キロ、9、分、◯◯秒」という感じで毎回教えてくれるので、まあだいたい10分ぐらいで間違いないだろう。つまりは20分ほど歩きつづけなければならない。




 夜の国道をとぼとぼと歩いて行く。車なんかとおらないけれど、僕は律儀に歩道の上を歩く――先輩がくれたミックステープを聴きながら。


「はい、これ」


 そういって先輩がカセットテープを渡してきた放課後のことを思い出す。いつものように、ふたり並んで屋上に座り、本を読んでいたときのことだ。


 僕は最初、その小さな四角い物体がなんなのかわからなかった。


 透明なプラケースの内側には紙が入っていた。薄い黄色の模造紙には、黒い油性マジックで荒々しく描かれた、長い長い国道を歩く人物の小さな絵、そして申し訳程度にレタリングされた字で“Super Walking MIX ~cool shit!!~”と殴り書きされていた。


「えっと……」僕は若干不審そうな目で先輩に尋ねた。「なんですか、これ」


「カセットテープだよ」先輩は自信満々そうに、人差し指を立てて言う。


 僕は先輩を見、手のひらにおさまったカセットテープを見、もう一度先輩を見た。彼女は汗をかいているエネルゲンのペットボトルに手を伸ばし、間を持たすようにひと口飲む。


 僕の世代はカセットテープをまともに触ったことがない世代だ。もちろん、いろいろな作品だったりテレビ番組だったり上の世代との会話で知識として知っているとはいえ、実物を見るのはかなり久々だった。


 ミックステープというものも知識としては知っていた。


 人びとがYouTubeやSoundCloudやiTunesでプレイリストを作成するよりまえ――つまり、CDにmp3ファイルの音源データを焼いたりMDにダビングしたりするよりまえの、遠いむかしの話だ。人びとは、いまの僕らがそうするように気に入った曲をカセットテープにダビングし、楽しんでいたらしい。


 オリジナルミックステープを作成し、ときには自作のラブソングも収録して恋する相手に贈るという行為を、いにしえの男たちは行っていたという。


 僕はもう一度手元のカセットテープを見る。そのジャケットに殴り書きされたイラストと、タイトルと、楽曲リストを見る。


 僕も友人間で好きな曲やアーティストを教え合ったりすることはたまにあるけれど、こうやってカセットテープとして――ミックステープとしてもらったのはこれがはじめてだった。


 これを(炊井戸タクイド先輩特有の)多少痛い行為だとみなしてしまうのは簡単だ。


 でも、僕は先輩に多少の好意を持っているし、僕の自意識過剰な勘違いでなければ先輩もそれを仄めかしている。そんな相手からの、僕のためにつくってくれたプレゼントが嬉しくないはずなかった。


 ジャケットカードの表面で踊る不格好な筆跡を、読みにくい曲目リストを僕は愛しいと感じてしまう。


「先輩!」


 思った以上に大きな声が出ていた。


 先輩はびくりとからだをこわばらせると、エネルゲンを置いて姿勢を正す。


「な、なんだい?」


 先輩の目に映る僕の顔は、たぶん赤かったと思う。


「これ、大事にしますっ」


「おう。そう言ってくれると嬉しいよ」


 彼女はいつものような超然的な態度で、余裕そうにふふんと笑う。


 ……それ以降、先輩は僕のためにミックステープをたまにつくってくれた。


 ウォーキング用、リラックス用、期末試験追い込み用、戦闘用……。その種類は多岐にわたり、毎度彼女の守備範囲の広さに驚かされた。


「きみもつらくなったときはさ、いろんなことをやってみるだろ? ぼくもいろいろやるけど、こうやって音楽を聞いて、好きな曲を自分なりにまとめたりしてると、自分が自由な気がしてきて楽になれるんだ」


 こういったこともいつだったか話していた。


 なんでも知ってそうで、なんでもできちゃいそうな先輩でも、つらくなったりすることがあるんだなと、僕は彼女のミックステープを聴いていると、そういったことをときおり思う。




 しばらくすると遠くに大きな建物が見えてきた。ショッピングモールと呼ぶには規模がやや小さく、だが複数の店舗が寄り集まっているので他の平屋より縦にも横にも大きい複合施設だった。


 郊外や国道沿いにはよくある感じの、特に珍しくはない、白くて角ばった城塞のような外見の建物。


 ありふれた外観だからこそ、はじめて見るその建物に対してどこか懐かしい気持ちを抱いてしまう。


 大きなそいつは白いライトに照らされ輝いていた。外壁には主要テナントのロゴが描かれた看板がいくつかかけられている。そのうちのひとつが目についた。編み物をする羊と毛糸玉が合体したようなマスコットキャラクターに、赤く古めかしいフォントのカタカナ。


 ユザワヤだ。


 なるほどね、と僕は知った風につぶやくと目のまえを歩く獣に目を向けた。〈君臨号〉は、そうだな、と適当にかえす。


 さ、道案内はここまでだ。セーブをしておくか? と〈君臨号〉が尋ねるので、僕はいちおう奴に跪き、頭に前脚(だと思われる部分)を乗せてもらう。やや弾力のあるようなないような肉球の感触と硬いようで硬くない爪、そしてごわごわとしているようなそうでもないような体毛の感触が、髪の毛も頭皮も通過して大脳新皮質に伝わるようだった。


 ところで、ここに他の〈王さま〉はいるんだろうか。〈君臨号〉に問いかけたところ、少なくとも僕と同じ〈国道の王さまロードサイド・ウォリアー〉はいないが、この建物のなかからは何者かの気配がかすかにするとのこと。それ以上のことは、ただの道案内役なので教えてくれない。


 僕は建物のまえに広がっている、がらんとした駐車場に足を踏み入れた。

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