第30話 I love you !

 聖夜は左手に灰皿を持ち、外気に向かってふうっとタバコの煙を吐き出した。

 香夏子は全開になっている自室の窓辺へ近づいた。網戸に額をくっつけるようにしてできる限り険しい顔をする。

「何してるの?」

「タバコを吸っている」

 更に眉に力を入れて皺を寄せた。

「それは見ればわかるけど」

「ていうか、寒くない? もう窓を開けっ放しで出かける季節じゃないし」

 すでに陽も落ちかけ、聖夜の言うとおり香夏子の部屋の空気は外気と同じくひんやりしていた。

「お昼にマニキュアを塗ったから空気の入れ替えしてたの。それに少し出かけていただけだしっ!」

 香夏子はなぜか自分の言葉が刺々しくなるのを抑えられず、語尾は必要以上に嫌味な強調をして聖夜へと投げつけた。

 その返事には興味がないらしく、聖夜は「ふーん」と言ってまたタバコをくわえる。

 ハッとして香夏子はもう一度問いかけた。

「そうじゃなくて、どうしてそこでタバコを吸っているのか、その理由を知りたいんだけど」

 すると聖夜の目に今日初めて楽しげな光が宿ったように見えた。

「ここは俺の家だし、特に理由なんかないけど」

「……あっそ」

 ふうっと大きく深呼吸した香夏子は窓を閉めようと窓枠に手を掛けた。聖夜がニヤニヤと笑って何か言う。聞こえなかったので大声で聞き返した。

「何?」

「俺、今日からここに住むことにしたから」

「……はい? 今、なんて……」

 聖夜はクスクス笑いながら短くなったタバコを灰皿に押し付けて、それから言った。

「下に自分の店を出す計画中なんだよね」

「え……?」

 香夏子は本気で聖夜の言葉を疑った。今まで生活していた都会ならともかく、この田舎で聖夜が店を出すことなど香夏子には考えられない。それに聖夜の両親も彼が跡を継ぐ意志がないから店を畳んだのだ。

「ウソでしょ」

「本気だよ。賃貸契約交わしたし」

「だって、こんな田舎に!?」

 香夏子は網戸に張り付いて言った。これ以上体重をかけたら破れるかもしれないが、網戸のことなど香夏子の念頭にはない。

 聖夜はたわんでいる網戸を心配したのか「散歩に出られる?」と訊いてきた。

 一も二もなく了解すると浮き立つ気持ちからか、香夏子は飛ぶように階段を降り、まだキッチンにいた茜に声を掛けて玄関を出る。聖夜の家のほうを見ると、本人が上着のポケットに手を突っ込んで玄関から出てきた。

「久しぶりだね」

 改めて顔を合わせると聖夜は言った。香夏子はしばらくその顔をじっと見つめる。やはり本物だ。

「いつ帰ってきたの?」

「昨日。それで今日実家に行って親と話して決めてきた。本当は建物を建て替えたいけど、さすがにそこまで金がない」

(お金……)

 香夏子は聖夜に従ってかなりのスローペースで歩き始めた。どこに向かっているのかはわからない。散歩と言っていたので目的地などないかもしれないが、ともかく聖夜と並んで歩くことができるのが嬉しかった。

「自分の店を持ちたいという夢はずっと前からあったけど、今が一番いいタイミングだと思ってさ。親の店をそのまま継ぐ気はなかったし」

「どうして? おばさん、残念がってたよ」

「だから嫌だったんだ。それにダサいじゃん」

「そんな言い方、やめなよ」

 聖夜は悪びれもせず少し肩をすくめただけだった。

「それより、カナが俺に話したいことがあるって聞いたけど」

「あ、えっと、そうなの。私もいろいろあって……」

 突然自分に話題をふられたので香夏子は焦った。

「秀司の秘書は辞めたんだ? カナこそ、いつ実家に戻った?」

「辞めたのは二週間くらい前で、向こうを引き払ったのは先週」

 それを契機に香夏子は聖夜がいない間に起こった出来事を、できる限り順番に思い返しながら話した。


 ひと通り話し終える頃、子どもの頃によく遊んだ公園に到着した。聖夜が自動販売機で缶コーヒーを買って、一つを香夏子に渡す。辺りはすっかり暗くなり、公園内は犬の散歩をさせている人がたまに通りかかるくらいで閑散としていた。

 聖夜は缶コーヒーを開けずに少し考えてから言った。

「寒いから帰ろうか」

「もしかして、コーヒーを買いに来たの?」

「うん。いいじゃん。窓越しに話してると外にいる人に全部聞こえるからマズいでしょ」

 それもそうか、と思い香夏子は歩き出した聖夜の横に並んだ。

「しかし、カナはモテモテだな」

 感心したように聖夜が言うので、香夏子は鼻息荒く言い返す。

「そうだよ。こう見えても実は引く手数多ですから!」

「なのに実家に戻ってきちゃったんだ」

 今度は可笑しそうにクスクスと笑いながら言った。キッと睨み返したが、聖夜はまるで気にしていないのが悔しい。

「だって実家が大変なことになっちゃって、私も手伝わなきゃならなかったんだもん」

「ふーん。それだけ?」

「そうよ」

 ツンと顔を背けて言った。

 すると聖夜は香夏子の手を握り、香夏子を自分のほうへ向かせて、真面目な顔で言った。

「じゃあ、もし実家が大変じゃなかったら秀司について行った?」

「……行かなかった」

 聖夜は満足そうに微笑むと握った手に力を込めて歩調を速めた。

 握った手から急に身体が熱くなるのを感じ、途端に香夏子は緊張でぎこちない歩き方になる。

「三ヶ月だな」

 唐突に聖夜は言う。

「え?」

「カナに会わないでいられるのは三ヶ月が限度。それも厳しいかも。一緒に暮らしちゃったからなおさら俺には無理だ」

 香夏子は下を向いた。顔は真っ赤になり、胸がいっぱいで何も言えない。

「だから逆に秀司はすごいな、って思ってたよ。十年も会わずにいて、それでも変わらずにカナのことが好きっていう事実にかなり圧倒された」

「しつこいだけ」

 聖夜が笑ったように思ったが、香夏子はまだ顔を上げることができずにいた。

「それにやっぱりカナも秀司のことを少しは好きだったでしょ」

 うつむいたまま顔をしかめた。なぜか否定することができない。

 そんな香夏子を慰めるように聖夜は握った手を指で撫でた。

「でも、俺がどれだけそばにいても、カナの気持ちはカナにしか決められない。カナが自分で自分の気持ちに決着をつけるまで、俺はいつまででも待つつもりだったんだ。だけど俺ってせっかちで、ただ待っているとかできないみたい」

「それでポストカード? ……それよりどうしてケータイ壊しちゃったの?」

 その言葉に聖夜は香夏子をじろりと上から見下した。

「カナ、俺に隠してることがあるでしょ?」

 香夏子は思わず目をそらした。確かに先ほど聖夜に話したこれまでの出来事の中に、一つだけ都合が悪いので言わなかったことがある。秀司にキスされたことだ。

「あの……あれは、事故?」

「事故でも許さない。油断しすぎ。それをわざわざ報告された時の俺の気持ち、わかる? 酔った勢いもあってムカついてケータイを折ったはいいが、あれって案外丈夫でそれくらいじゃ壊れないんだ。知ってた?」

「……知りませんでした」

 ケータイが水没の前に力ずくで折られていたとは秀司も知らないだろう。香夏子は改めて普段穏やかな隣の人を怒らせるととんでもないことになると認識した。

「それに秀司からの迷惑メールしか来ないケータイなんて持ってる意味ないし」

 思わず香夏子は笑い出してしまった。

「聖夜と秀司って実は仲良かったんだね」

「犬猿の仲っていうヤツだよ」

 心底嫌そうな顔で嘆息を漏らすと、今度は意味ありげにニヤリとした。

「でも、俺はアイツには絶対負けない自信があるからね」

 香夏子はその顔をただじっと見つめる。聖夜が自分を見つめているのを意識した途端、胸がきゅうっとなった。正視するのを辛く感じるが、目を離すこともできない。

「だって、カナは俺にしかわがまま言えないでしょ?」

「え?」

「この前、同窓会の後で修行に行くって話したら『嫌だ』って言ってくれたじゃん」

「うん」

「カナは常に受身で、なかなか意思表示しないから、あのときはすごく嬉しかった。行くのをやめようかと思うくらい……」

 聖夜がはにかむのを見て、彼にこんな表情をさせているのが自分だと思うとますます胸が苦しくなる。

「ホント、昔から秀司とか横井とかあの変な男とか、強引なヤツに弱いよね」

「変な男って誰?」

「すっかり忘れられてるみたいでかわいそうだけど、ほら、前の会社の同僚で高価な時計してる男」

「ああ……」

 そういえば彼のことが発端で聖夜と同棲することになったのだ、と記憶をたどっていると聖夜が言った。

「俺、あの時計、ずっとほしかったんだよね。だから、何年か前にカナと一緒にいる男がそれをしているのを見て、すごく悔しかった。当時の俺には買えないし、貯金もなくて、急に自分がカッコ悪く思えてきて、将来のことを少し真剣に考えるようになったのはそれからかもな」

 聖夜がそんなふうに思っていたと知り、意外に感じながら香夏子は相槌を打った。

「でも、あの程度の男からはいつでもカナを奪う自信はあったけど」

「……すごい自信だね」

 フッと笑って握った手を勢いよく振るので、香夏子はよろめく。

 こうしていつまでもぶらぶらと歩いていたかったが、実家が視界に入るところまで戻って来てしまった。この短い散歩の間にもずいぶんと二人の距離が縮まったように感じたので、なおさらこの時間が終わってしまうのが残念に思われた。

 聖夜が香夏子のほうを向いて言った。

「ちょっとウチに寄っていく? せっかくだからコーヒー飲もうよ」

 気持ちが伝わったのか、聖夜も同じ気持ちだったのか、どちらにしても香夏子は嬉しい気持ちを抑えきれず、顔を紅潮させて頷くと、聖夜は香夏子の手を強く引いた。


 聖夜の実家に上がるのは十数年ぶりだ。すでに空き家となっているのになぜか香夏子は緊張する。

「お邪魔します」

「何もないけど、どうぞ」

 そう言って聖夜は以前リビングだった部屋へ香夏子を案内した。聖夜が部屋の中央部で先に腰を下ろしたので、香夏子もそれに従う。

「そういえば、あの一万円はどうなったの? おばさんが持ってたのは……」

「ああ、あれね」

 缶コーヒーのプルタブを起こして缶を開けると、聖夜はまず一口飲んだ。

「カナが来るかもしれないから、来たらそう言えって頼んでおいた」

 香夏子はプルタブを指で撫でながら開けずに少し首を傾げる。疑問に答えるように更に聖夜は言葉を続けた。

「カナと俺の関係がおかしくなったのはあの一万円のせいでしょ。そんな縁起の悪いものはとりあえずあの人に預けておけ、と思って。俺の母親って俺が言うのもアレだけど、めちゃくちゃいい性格してるから縁起を担ぐなんてことはしないし、邪悪なもののほうがあの人からは恐れをなして逃げ出すと思う」

 思わず笑ってしまったが、聖夜の母に対して失礼だと思い、すぐに笑いを引っ込める。

「結局、この建物の契約金にあの一万円を充てたよ」

「うん、それでいいよ」

 一万円についてはこれで決着がついてよかった、と安堵しながらプルタブを起こした。

(ついでにアレの行方も聞いてみるべきか……)

 コーヒーを飲みながら香夏子は聖夜をチラッと見る。

「ん?」

「あのね、私、聖夜のマンションに忘れ物してきたかもしれない」

「……なんだろう?」

 聖夜の表情を見て、失敗したと思った。やはり自分の荷物をもっと隅から隅まで調べるべきだったと反省する。

 その香夏子の気まずい顔を聖夜は不思議そうに見つめた。

「何か置いていった? 探してみるけど、何?」

「いや、あの……えっと、実はすごく言い難いんだけど……下」

「あっ! そっか、わかった。アレだ」

 言葉の途中で、聖夜が急に何かを理解して相好を崩した。

「ごめん。忘れてた」

「え?」

「ちょうどよかった。こっちに来て。見せたいものがあるんだ」

 意味がわからず、香夏子は混乱したまま聖夜の後に従う。リビングを一度出て、廊下を通り、奥の部屋の前に来た。部屋のドアを開ける前に一度、聖夜は香夏子の顔を覗き込んでクスッと意味ありげに笑った。

 ガチャとドアが開き、聖夜が電灯のスイッチを押すと、香夏子の目に白いものが飛び込んできた。

「…………!」

 部屋の中央にはトルソーに純白のドレスが着せられていた。腰から下にかけて布地を折り返して不規則な襞が作られ、ふんわりと広がった裾は後ろに長い。

 香夏子は驚きのあまりに言葉を失った。

「どうかな?」

 聖夜の声でようやく金縛りから解けたように「あ」と声を出す。

「あの、これって……ウエディングドレス?」

 聖夜はただ微笑んだだけだった。

 香夏子は戸惑いながら聖夜とドレスを何度か見比べる。

「すごく綺麗……」

「知り合いに下着メーカーでデザイナーをしてる人がいて、前からウエディングドレスのデザインをしてみたいって言ってたんだ。本人に内緒はいいけど、サイズがわからないから下着を一枚貸してほしいって頼まれて……ごめん」

 聖夜の言葉を背中に聞きながら、香夏子はドレスにおそるおそる近づいた。正面に立って上から下まで眺め、それからゆっくりとドレスの周りを一周する。また正面に戻ってくると、部屋の戸口に立っている聖夜に視線を戻した。

「本人……って、私?」

「そうだよ」

 再度ドレスに正面から向き合うと茫然と見つめる。

「……いつ頼んだの?」

「秀司をテレビで観た後」

「どうして……?」

 一瞬部屋の中がシンと静まり返り、自分の心臓の音がやけにはっきりと聞こえた。

 しばらくすると聖夜がこちらに向かって進んでくる。

「理由なんて一つしかないよ」

 香夏子の隣に立つと腕を組んでドレスを眺めた。

「香夏子のことが好きだから」

 柔らかく微笑みかけられて、香夏子は改めてその言葉を噛み締め、そしてその言葉の重みに打ちのめされた。

「ねぇ、これはまだ仮縫いだけど、着てみない?」

「いいの?」

「勿論。それじゃあ、暗くするわ」

 聖夜は言うが早いか壁の電灯のスイッチを押し、トルソーからドレスを慎重に外す。

 数歩下がってその様子を見ていたが、トルソーが部屋の隅に移動させられるのを見て、もじもじと香夏子も壁際で服を脱いだ。

「ウエディングドレスって着るのも大変だし、すごく重量もあるんだ。知ってた?」

 身を縮めて聖夜のほうへ向き直ると、彼はこちらへ手を差し伸べた。その手につかまってドレスの中に足を踏み入れる。すると聖夜は素早く香夏子のわきの下までドレスを引き上げ、背中のジッパーを閉めた。

 香夏子は自分の身体を見回した。それから後ろを向こうとして「うっ」と声を上げる。

「本当だ。ドレスが重い」

 その様子をしゃがんで見ていた聖夜はクスッと笑って立ち上がり、電灯のスイッチをつけた。

「わぁ……」

 身体が小さめの香夏子に驚くほどぴったりとしたデザインで、裾の広がりも膨らみすぎず、だが寂しくない絶妙なバランスだ。

 ひと目見て素敵だと思ったが、実際に着用してみると、もうこれしかないという気持ちになる。

 香夏子はまさに憧れのお姫様になった気分で、激しく興奮していた。

「これ、すごくいいよ! まるで私のために作ったみたい……」

 聖夜は吹き出した。言ってから失言だったと気がついたが、香夏子も笑うしかなかった。

「気に入ってくれたならよかった。まだ細かく注文もできるから、希望があったら何でも言って」

 頷いてから意味もなく裾を持ち上げてみたり、いろいろな角度から眺めてみたり、ひとしきりお姫様気分を堪能する。

「そういえば、ポストカード、ちゃんと届いたんだ」

 スカートの裾をめくり上げて中の構造に感心していた香夏子に、聖夜は思い出したように言った。

「うん。……ていうか、何、あれ?」

 首の後ろに片手を当てて聖夜は眉を上げて見せる。

「特に意味はない」

「そうなの? 私、『早く秀司の秘書を辞めろ』という意味かと思ったんだけど、深読みしすぎたかな」

 クックッと笑い出した聖夜は、しばらくするとこらえきれないように声を上げて爆笑する。香夏子はその様子を複雑な気持ちで見守った。

「あの……大丈夫?」

「うんうん。カナってすごいね」

 目尻に浮かんだ涙を擦りながら聖夜は言った。

「俺たち、結構うまくやっていけるかもね」

「……え?」

 心臓がバクバクと鳴った。次の言葉までの短い沈黙が香夏子の緊張を否応なしに高める。

「俺と結婚しよう」

 自分の喉がゴクッと音を立てた。

「そろそろ覚悟を決めて、俺のものになりなさい」

「……はい」

 聖夜が真っ白なドレスに身を包んだ香夏子の前に立つ。香夏子は姿勢を改めてじっと聖夜の目を見つめた。素肌の肩に聖夜の両手が置かれて、うやうやしく口づけを交わす。

 唇が離れて、香夏子は小さく息を吐くと、急に不安になって言った。

「でも私、聖夜と違って将来のこととかまだ考えている途中で、やりたいこともよくわかってないし、すぐにあれこれ目移りするし、全部が中途半端なの」

 黙って聖夜は頷く。

「だから……」

「だから?」

 優しく聞き返されて、香夏子は何を言いたいのかわからなくなってしまった。

 聖夜はほんの少し首を横に倒した。

「カナのいいところも悪いところも全部、俺が知っていればいいことでしょ」

「え?」

「だから、カナにも俺のいいところも悪いところも全部知っていてほしい」

「それは……うん。いろいろあると思う。何を考えているのかよくわからないとか、悪いところはたくさん……」

「これからはちゃんと話すから大丈夫。それにいいところも一つくらいはあるでしょ?」

「うん」

 香夏子は大きく頷いた。それは言葉にはしなくてもいい。香夏子自身が知っていればいいことだ。

「でも、カナはパソコン講師っていう新しい道があるのに、まだ迷ってるの?」

 聖夜は自分の着ていた上着を脱いで、冷たくなった香夏子の肩にかけた。

 それに笑顔で感謝すると、香夏子はこの数日考えていたことを思い切って口にする。

「パソコン講師もいいけど、実は弁護士になって湊の幼馴染と法廷で戦って仇をとってやるぞとか、教員を目指してこれからの子どもたちに大切なことを伝える仕事もいいなとか、でもやっぱり年齢的に自分の子どもが先かなとか……」

 笑われるかと思ったが、聖夜は案外真面目な顔で「ふーん」と相槌を打った。

「カナって実はものすごく正義感の強い人だよね」

「……笑わないの?」

「笑わないよ。そりゃあ、カナが弁護士になるよりも俺が宝くじに当たる可能性のほうが高いかもしれないけど、カナが本気なら俺も本気で支えるよ」

 香夏子は重いドレスを着ていることなど忘れて、聖夜の首に手を回し抱きついた。

「こんな私だけど……ずっとそばにいて」

 耳元で「うん」と囁くような返事にくすぐったくて身を捩ると、聖夜の腕が香夏子を逃すまいとぎゅっと強く締まる。

 しばらくすると聖夜は少しだけ腕の力を緩めて香夏子の顔を覗きこんだ。

「俺ってもしかしてあのとき一万円でカナに将来を買われたのかな?」

 香夏子は目をぱちくりさせて、冗談を言って少し得意げな聖夜の顔をじっと見る。

 そして突然思い出して叫んだ。

「あーーーっ!」

 聖夜は片手で耳を押さえ、怪訝な顔をした。

「突然、何?」

「あのね、私、お金あるよ! 前の会社の退職金が一千万……」

 聖夜の怪訝な顔が、酷く嫌なものを見たかのように歪む。

「いや、いらない」

「え?」

「カナがお金出すとロクなことにならないから。一万円でアレだから、一千万なんて何が起こるか想像もつかないじゃん。それは大事に取っておきなよ」

「うん……」

 なぜだかとてもがっかりした香夏子は聖夜の胸に顔を埋めた。慰めるように優しく温かい手が香夏子の頭を撫でる。

「それにお金のことは心配しなくても大丈夫。カナは何も心配しなくていいから、自分のことを一生懸命悩んでていいよ」

「……なにそれ」

「ん? 俺、変なこと言った?」

「……なんか今、すごくバカにされた気がする」

「気のせいだって」

 口を尖らせてふくれ面のまま香夏子は聖夜の身体にもたれかかった。その間も聖夜の手は途切れずに香夏子の髪を上から下へと繰り返し往復する。黙ってされるがままに任せていると、そのうち刺々しい気持ちは溶けるようになくなり、次第に全て聖夜に委ねてもいいような心地よい気だるさが全身を包んだ。

 ふと見るともなしに見ていた部屋のくすんだ壁紙が見覚えのある模様だということに気がつく。

(ああ、そうだ。ここは……昔、子ども部屋だったんだ)

 聖夜と二人で昼寝をしたこともあったな、と目をつむり懐かしく思う。

 遠くまで来たのだとばかり思っていたが、そうではなかった。

 ――今はこんな遠回りな人生も悪くない……

 あのとき聞いた教授の言葉が、突然香夏子の脳裏によみがえった。

 そして聖夜の優しい手を感じながら、自分はどれだけ遠回りをしてもきっとここに帰ってくる運命だったのだ、と何の根拠もないのにそう確信していた。

 また真っ青な空を想う。

 あまりにも遠く、あまりにも広く、あまりにも澄んだ天上の世界。今まではただその懐に抱かれることを夢見ていたような気がする。だが、今なら両手を広げればその全てを抱き締められそうだ。これまでの消してしまいたい過去も、他人に対する醜い嫉妬も、これからの未来へのそこはかとない不安も、この世の中のありとあらゆる善と悪をも――。

 だが目を開けると、それはやはり得意の勘違いに思えてくる。

 それでも聖夜の穏やかな目に見つめられていると、心の底から言葉にし難い大きな想いが湧き上がってきて、その勢いで香夏子は思い切り背伸びをして自分から聖夜にキスをした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺のものになりなさい 北館由麻 @emma_nishidate

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ