第29話 I miss you !

「完全に俺の負けだ」

 香夏子が顔を上げると秀司は穏やかな表情をしていた。それから黙って空っぽの手のひらを差し伸べてきたので、香夏子はポストカードをその手に返した。

「俺はずっと二人から仲間外れにされていると感じていた。だがそれを素直に認めることができなかった。カナを自分のものにすればその疎外感はなくなると思ったのに、それはまったく見当違いだった」

 秀司は自分のデスクに向かい、引き出しにポストカードを戻した。

「湊の指摘したとおり、俺は逃げた。それに時間が経てば多くのことは自然に解決する。俺に必要なのは時間なんだと思い込んでいた。だが、これもまた見当違いで、結局俺は嫌でも現実と向き合わなければならなくなった」

 こちらへ振り向いた秀司は、香夏子にソファーに座るよう顎で示す。ぼ―っと突っ立っているのも居心地が悪いので素直に従った。

「正直に言えば、俺は聖夜よりもカナを深く理解していると思っていた。そして頼りないカナを守ってやるのは俺だと自惚れていた。聖夜はいつも一歩離れたところにいて、何を考えているのかわからないし、いつかふらふらといなくなりそうな男だと思い込んでいたからな」

 香夏子は思わず笑った。事実、聖夜はいなくなってしまった。

「だけど、アイツのほうがウワテだった」

 少し首を傾げてその言葉の意味を問う。

 だが、秀司はそれには答えず、話を逸らした。

「それにしてもお前らには呆れたな。恋愛感情より友情を優先するヤツがどこにいるんだ? しかもお互い気がついてないんだから重症だ。でも、カナはすぐにボロが出たな」

「そうなの?」

 秀司は自分の椅子に座ると足を組んだ。

「お前は湊が絡むと、俺に対する気遣いが疎かになる。傷つきもしたが、諦めもついた。湊にも感謝しないとな」

「私……ごめんなさい。ずっと秀司に甘えてた」

「俺は謝らないぞ」

 くるりと椅子を一回転させて香夏子に向き合うと、ニヤリと笑った。

「カナと聖夜に言いたいことは山ほどある。だけど、一番言いたいことは『ごめん』じゃない」

 香夏子は秀司をじっと見つめて続きを待つ。だが、いつまでたっても続きが聞こえてこない。痺れを切らして続きを催促した。

「……じゃあなんなの?」

「お前らが無事に結婚できたら、結婚式のときに言ってやるよ」

「け、結婚……、いや、私、恋愛とか結婚とか、もうどうでもいいって思ってるし」

「じゃあ、明日からどうするんだ」

 秀司は問いかけておきながら返事を待たずに背を向けてデスクに向かう。引き出しを開けたり、ペン立てからペンを取り出したり忙しいが、その背中に香夏子は言った。

「実家に帰ることにした」

「ほう」

 何か書き物をして顔を上げると、すくっと立ち上がり香夏子のほうへ向かってきた。そしてメモ用紙を差し出す。

「来月からはここにいる。何かあったらいつでも連絡しろ」

「……秀司」

 渡されたメモ用紙に並ぶアルファベットをしばらく眺めてから、改めて秀司を見上げた。

「ありがとう」

「カナはバカだ。日本国民は日本国憲法第十三条において幸福追求の権利が尊重されているんだぞ。好きな人と結婚すれば幸せになれると思うなら諦めるな」

(……憲法!?)

 香夏子は怪訝な顔で秀司を見返した。

「そんなこと言ったって、私一人じゃどうにもならないでしょ」

「そこに立て!」

 秀司のこめかみに青筋が走ったようだ。香夏子はメモ用紙をハーフパンツのポケットにしまい、びくびくしながら立ち上がる。

 すると秀司は目の前に立ち、両手で香夏子の頭を押さえつけ上を向かせた。香夏子は目を見張り、慌てて両手の束縛から逃れようと頭を振ったが、秀司の腕の力は予想以上に強い。しかも秀司の顔が間近に迫ってきた。

「ちょっ、キ、キスは、やめっ……!」

 ゴン、と額同士が激突する鈍い音がした。

 脳天にチカチカと星が飛ぶ。

「いったーい! 何すんのよ!」

 額を押さえてへなへなとソファーに座り込んだ香夏子は横に立つ秀司を睨む。

「視野が狭すぎるんだ。目を開いてよく周りを見てみろ! お前が自分のしたいことをして、文句を言うヤツが何人いる?」

「…………」

「少し頭を冷やして来い」

 秀司は顎でドアを指し示し、研究室から出るよう促した。

 まだズキズキと痛む額を押さえながら香夏子は渋々ドアを開ける。その途端、ドアの横に人の気配を感じ、驚きのあまり短く声を上げた。

「た、高山さん?」

「ちょっとお話があります」

 酷く思いつめた顔の高山は香夏子の腕を掴み、引っ張りながら廊下をズンズンと歩いていく。香夏子は仕方なく高山に従った。


「僕は不思議で仕方がなかった」

 カフェテリアに連れてこられた香夏子は、高山が勝手にコーヒーを二つ注文したので、その一つを口にした。

 高山はいつになく真面目な顔で興奮気味に話し始める。

「先生と湊さんのあんなあやしい場面を目にして、香夏子さんが言った言葉が『よくわかんない』ですよ? そりゃ確かによくわからない。だけどあなたはわからないくせに、案外平然としている。全然関係ない僕が見ていても『なんだそりゃ!』と思わずツッコんだというのに。香夏子さんの頭の中は一体どうなってるんだ、と僕はあなたの神経を本気で疑いました」

「……はぁ」

 気の抜けた返事しか出来ない。高山から言われると確かにそうだと思うが、自分の言動の意味を説明するのは難しい。湊にも同じように怒鳴られたことを思い出し、やはり自分の神経はおかしいのかもしれないと思った。

「でも、よく考えれば香夏子さんは最初からそうでした。一番最初に研究室でお会いしたとき、『眠り姫』の話をしたのを覚えてますか?」

「勿論」

 香夏子は頷きながら答えた。目覚めるのが遅すぎたと言われたことを思い出し、なんとも情けない気分になる。

「あれはハッタリなんですよ」

「……はい?」

「僕は口から生まれてきたようなこういう性格で、イケメンでもなければ背が高いわけでもない。ぶっちゃけ女性には面白いと思われるか、キモいと思われるかのどちらかなんです」

「……そう?」

「そうですよ。しかもキモいと思う女性のほうが圧倒的に多いです。だから、先生が香夏子さんを雇うと聞いたとき、お互いのために最初にはっきりさせておいたほうがいいと思ったんです。そうすれば僕も香夏子さんに対する態度を決められるでしょ。キモいと思われたらあまり研究室には顔を出さないようにしよう、とかね」

(そんなことを考えてたんだ)

 改めて真剣に語る高山の顔を見直した。フンと鼻から息を吐いて高山はコーヒーをすする。

「でも、香夏子さんの反応はどっちでもなかった。僕は『まずい、滑った』と思いました。言わなきゃよかった、明日からどんな顔しよう、とさんざん悩みましたが、翌日の香夏子さんはやはり平然としていた。しかも、僕のことには無関心。だけどシカトするわけじゃない。普通は『高山さんってどこの出身? 高校は? 兄弟は? 血液型は?』とかあれこれ話をするはずなのに、あなたは自分のことも話さないし僕のことも興味なし。でも、接する態度は愛想よく、僕に対して嫌悪感を抱いてる様子はない……」

 高山の観察眼に驚きつつ、香夏子はなるほど、と思う。普通はそうやって知り合ったばかりの相手のことを知ろうとするものかもしれない。

(普通……って何かよくわかんないけど)

 そういう意味では自分はズレているのかもしれないと香夏子は思う。

「ま、僕も悪いんです。香夏子さんを最初に見たのは飲み会でぶっ倒れたときでしたから、どうせ電話番くらいしかできない、かわいいだけの女性だろうと完全になめてかかってました。で、僕が以前何の仕事をしていたのか、と聞いたときに香夏子さんは『大して役に立たないスキル』だとか言って、自分のことを卑下してましたよね?」

「うん。何のために仕事しているのかわからなくなっていて……」

 高山は頷いた。

「正直『ああ、やっぱりこの人は底が浅くて、ファッションに時間とお金を費やすのが趣味のキラキラふわふわ世界の住人だ』と勝手に定義しました。先生もこういう女性が好きなんだ、と意外に思ったりして」

「……高山さんから見て、女性はみんなそういう世界に住んでるんだ……」

「そうですよ。ま、香夏子さんはケバケバしくはないですが、綺麗ですからね。でも大して何も考えてないように思えました」

 その言葉はグサリと香夏子の胸に突き刺さったが、高山の見方は正しいと思い、視線をテーブルに落とす。

「でも、それは大いなる誤解でした」

 香夏子は思わず顔を上げて高山を見た。

 彼は悲痛な面持ちで自分のコーヒーカップを見つめている。

「僕は今朝先生から、来月からアメリカに行くが一緒に来る気はあるか、と訊かれました。勿論です、と即答しました。そして先生に尋ねました。『香夏子さんは?』と」

 そこで一旦口を閉ざし、嘆息を漏らした。

「先生は『連れて行く気はない』ときっぱりおっしゃいました。一瞬、僕の頭の中は真っ白になった。何が起こったのか自分でもよくわからず、茫然としているところに香夏子さんがやって来た。そして先生に『今日で辞める』と自分から言って、僕は……」

(えっ……!?)

 見ると高山の目が充血していて、彼が泣いているのだということに気がついた。

「僕はね、先生と香夏子さんがいるあの研究室が大好きでした。居心地が良くて。先生はあんな言動で誤解されやすいですが、僕が偉そうで意地悪な教授陣にけちょんけちょんにされたときも、必ず最後に僕が得意で答えやすい観点の質問をして窮地を救ってくれるんです。他の学生にだってそうです。わざと意地悪な質問をすることもありますが、学生が答えられなかったり、間違っていても、最後は絶対に助け舟を出してくれる、そういう人です。だから僕はずっと先生について行きたいと思ったんです。でもね、香夏子さんのことは……まさか自分がこんな気持ちになるなんて思ってもいなくて、こんなに動揺したのは初めてですよ。好きな女の子と別れるとき以外に、こんな寂しい、離れたくないと思うなんて……」

「ちょ、ちょっと、高山さん」

「違いますよ、断じて。僕には彼女がいますし、香夏子さんにも好きな人がいますし、これが恋愛感情だなんて思ってません。いや、ある意味そうかもしれませんけど、でも違います」

 高山はきっぱりと断言した。香夏子も頷いて了承する。

「香夏子さん、あなたは自分のことが何もわかってない。あなたはもっと自信を持っていいんです。あなたには、他人にあなたと一緒にいたいと思わせるあなただけのスキルがあるじゃないですか」

(私と一緒にいたい……?)

「僕のこういうどうしようもないところをあるがまま黙って優しく受け容れてくれる、そういう人は世の中にそんなにたくさんはいないんです。そりゃ僕の家族がどうだとか僕の情報をたくさん持っている人は他にたくさんいますけど、僕がどんな人間かを理解しようとする人は多くない。そして僕がどんな人間でも、それでもいいよと言ってくれる人は滅多にいないんです。それが明日からなくなってしまうなんて……」

 そこまで一気に言うと、高山はテーブルに備え付けのナプキンで鼻をかんだ。

 香夏子はじわじわと涙がこみ上げてきて、同じくナプキンで目を押さえる。

「英語で“I miss you.”という言葉を知ったとき、いまいち理解できなかった意味が、今、めちゃくちゃわかります……」

「高山さん、ありがとう。すごく勇気付けられた。私もここで何とか仕事ができたのは、高山さんがいてくれたおかげだと感謝してます」

「香夏子さんならどこに行っても大丈夫です。もうこうなったら、聖夜さんと幸せになっちゃってください!」

「それは……」

「違った! 香夏子さんにはこう言わなきゃダメなんだ」

(……ん?)

「香夏子よ、幸せになれ! ……命令形。……あれ、なんか違うな。呪文みたいになっちゃった」

「……っぶ!」

 思わず吹き出した。高山も赤い目のまま満面の笑みを浮かべた。

(知らなかったな……)

 高山が秀司を師匠と慕い、湊がタイプの女性だということは知っていたが、香夏子に対してそこまでプラスの感情を抱いてくれていたとは思いも寄らなかった。そして、彼が自分を認めてくれたことが素直に嬉しい。少しだけ、こんな自分も悪くないと香夏子は思った。


 昼休みの時間を狙って、香夏子は教授の研究室へと向かった。タイミングよく教授は在室していて、今日は淡い黄緑色のシャツにやはりテディベアがプリントされたものを着用している。濃茶色のスーツによく合い、秋にふさわしい色合いだった。

 香夏子は今日で辞めることを伝え、昨日実家に戻った際に横井の和菓子屋で購入してきたどら焼きを手渡した。

「それはとても残念ですね。今日は少し晴れやかな顔をしているように思いますが、悩みごとのほうは?」

 どら焼きの入った紙袋を受け取った教授は愛想よく言う。

「それが、まだ……」

 考えてみれば、恋愛も結婚も幸せも諦めて実家に戻るという決断をしてここへやってきたはずなのに、秀司と高山から諦める必要はないと言われ、香夏子もついそんな気持ちになってきていた。

(でもどうしたらいいんだろう……)

 恋愛も結婚も一人ではできない。努力してどうにかなるものだろうか、と香夏子は自分の盛り上がっていた気持ちにブレーキをかけた。

「見当違いかもしれませんが、聞いて下さい。私が研究で行き詰った生徒にかける言葉なんですけど、悩んで悩んで悩み続けるんです」

「……はい」

「そうすると、あるとき突然降ってくるんです」

「降ってくる?」

「そうです。探していた答えがまるで天からの啓示のように……」

 手のひらを上に向けて両腕を開き、天を仰ぐように宙の一点を見つめる教授を、香夏子は少々怪訝な目で眺めながら、一週間前に見た痛い夢のことを思い出していた。

(いや、あれはソフトボールの球だし……)

 関係ないとは思うものの、何かひっかかるものがあった。

「考え続ければいつか答えを見つけることができますよ。諦めたらそこですべて終わりです」

「はい」

 教授の言葉を有り難く胸にしまい、香夏子は秀司の研究室へと戻った。


(諦めるなってみんな言うけど、どうしたらいいんだろう)

 新たな悩みに悶々としながら香夏子は自分の使用していたデスクを片付けて、時計を見た。そろそろ就業時間だ。

 香夏子が荷物を持って立ち上がると、秀司と高山も立ち上がって香夏子のほうへ向いた。

「短い間でしたが、本当にお世話になりました。あまりお役に立てませんでしたが、私は二人からたくさんのことを学んで、ここで働かせてもらって本当によかったと思ってます。どうもありがとうございました。秀司も高山さんも向こうに行っても身体に気をつけて頑張って……」

 挨拶を終えようとしたとき、研究室のドアが予告なしに開いた。

「あ、すみません! やり直し」

 慌てた女子学生の声がして、ドアはまた閉められた。

 室内の三人はそれぞれ顔を見合わせる。

 すると、トントンとドアがノックされた。秀司が「どうぞ」と返事をする。

 ドアを開けた女子学生はペコリとお辞儀をして「失礼します」と元気な声で言った。

「トモミちゃん!」

 高山が思わず大きな声を上げた。

 トモミは緊張した面持ちで研究室におずおずと入ってきて、驚いたことに秀司を素通りして香夏子の目の前で立ち止まる。そして後ろに回していた右手を香夏子の前に差し出した。

「お疲れ様でした。短い間でしたけど、お世話になりました。……あと、先日は失礼なことを言ってすみませんでした」

 トモミの右手には小ぶりだがかわいらしいブーケが握り締められていた。 

 香夏子はまったく予想外の出来事に、万感の想いが胸に迫り、涙がこぼれるのを抑えることができなかった。

「ありがとう」

 ブーケを受け取ると、トモミは恥ずかしそうに頭を下げて逃げるように退室した。だが、ドアを閉める前には小さな声で「失礼しました」と言うことは忘れなかった。

「カナ、お前はワンコじゃなかっただろ?」

「は? 先生、ワンコってなんですか?」

 高山が早速食いついてきた。香夏子はクスッと笑ってブーケに鼻を近づける。清々しく上品な香りを吸い込みそれに酔う。配色や花の選び方にセンスを感じ、香夏子は少し感心した。

 それに気がついた高山が言った。

「トモミちゃんって花屋でバイトしてたことがあるらしくて、香夏子さんが今日で辞めるのを知って買いに走ったんですよ。たぶん自分で選んだんじゃないかな」

「そうなんだ」

 仕事を辞めて花束を貰うのはこれで二度目だ。

 前の職場で貰った花束はこの何倍も大きかったが、香夏子にとってはこの小さな花束のほうが何倍も嬉しく、一生心に残る思い出となった気がする。

 このたった数ヶ月、香夏子の人生の中で一瞬と言ってもいいような短い間に得た多くのもの、そして大きな友情に感謝し、大学を後にした。


 翌日から本格的に部屋を片付け、週末には実家で不要な家電等をリサイクルショップに引き取りに来てもらい、残りの荷物は小さな引越屋に頼んで、慌しく引越しを終了させた。

 手伝いに来てくれた湊は香夏子の荷物をあれこれと物色しながら、ちゃっかりと気に入った雑貨類を紙袋に三袋、ぎっしりと詰め込んでいた。

「でも寂しくなるなぁ。もう『今から飲みに行こう』とか気軽に言えないじゃない」

 ガランとした部屋の真ん中に座り込んで湊は言った。

「そうだね。でも湊にはすぐ彼氏が出来るから寂しくないって」

「それはどうかなぁ。もうそろそろ本腰入れて探さないと」

「ん? 結婚相手?」

「そうよぉ。あのね、今、大手商社のまぁまぁかわいい顔の人と、大手通信会社の顔はまぁ……なんだけど趣味が合いそうな人と、他にいくつか優良物件をキープしているところなんだけど、結婚となるとねぇ」

 湊は指を折って数えながらため息をつく。香夏子は少し驚いて言った。

「湊も結婚を考えてるんだ? する気がないのかと思ってた」

「うーん。結婚という形にこだわってないけど、できればずっと一緒にいてくれる人がほしいな。それに最近育休終わって職場に復帰したママがいるんだけど、その子どもがすっごくかわいいの! ああ、やっぱり私も自分の子どもがほしいかも……」

 香夏子は甥と姪を思い浮かべて沈痛な顔で同意した。

「確かに。ウチの甥と姪なんか少し自分に似てる気がして、自分の子どもでもないのに世界一かわいいって思う。よその子どもがかわいいと思うのと全然違う次元……」

「うわぁ、そうなんだ。自分の子どもだったらなおさら、だよね。……それで」

 と、湊は改まった声で言った。

「香夏子はどうするの?」

「どうって……」

「聖夜くんを待ってるの?」

 香夏子は下を向いて考え込んだ。この何日か、ずっと考えていたことだが、結論はまだ出ない。

「考えているうちに混乱してきて、聖夜のことが好きなのかどうか、だんだんわからなくなってきた」

 湊はフッと笑った。

「私もそういうときがあったな」

「えっ?」

「連絡が来なくなってしばらく会わないでいると、本当にあの人のことが好きなのかなって考えることがあったよ。でも考えてるってことは好きなんだよね。好きだから意味もなく考えちゃったりしてさ」

 やはりそうか、と思いながら香夏子は天井を仰いだ。

「私が聖夜くんはやめたほうがいいって言ったのは、ずるいって思ったからなんだよね」

「ずるい?」

「男の人って待っていてほしくてもはっきりと言わないからさ。気を引くようなことを言って、こっちに気を持たせておいて、自分に都合のいいときだけ連絡をよこす、とか。あ、これは私の経験談なので、聖夜くんがそうとは限らないんだけど、何だか似てるような気がしたの」

(はっきりと言わない……か。やっぱりあれは謎かけだったのかな)

 聖夜の残していった言葉とポストカードに書かれた言葉の意味を考えていて、突然気がついたことがある。

(聖夜が『秘書に向いてない』とか『秀司のところにいるって考えただけでもイライラする』と言ったのは、私に秀司の秘書をやめろと言いたかったと仮定すると、『今、何してる?』は……)

「やっぱり催促!?」

「いきなりわけのわからないことを叫ぶのはやめてよ。びっくりするじゃない」

 迷惑そうな顔の湊は身体を引き気味にしたが、香夏子は思わず湊のほうへ身を乗り出した。

「ごめん。でも湊のおかげで、私、自信が出てきた」

「……はぁ? アンタってホント、意味不明なんだから」

 呆れている湊を尻目に香夏子は不敵に微笑む。

 秀司に送られてきたポストカードの言葉が、香夏子の自信を更に後押ししてくれるような気がした。

(私は私の道を行こう)

 もう三十路の人間が今さらそんなことを思うなんて遅すぎると言う人もいるだろう。だが、今の香夏子は不思議と、それがどうした、と言い返したい気分だった。

 他人を見ると羨ましく思う気持ちは今もある。しかし、香夏子は他人の人生を生きることはできないし、他人も香夏子の人生を生きることはできないのだ。

 そんなに華々しくなくてもいい。ドラマティックでなくてもいい。地味でもいい。

 うさぎと亀なら、香夏子は確実に亀だろう。のんびりとしか歩けないならのんびりと、でも着実に歩いていけばいいのだと思う。

 自分にしかできない不器用な生き方をこれからも続けていこう。

 いつの間にか香夏子の中から敗北感はすっかり退散し、目を閉じるとまぶたの裏に透き通った明るい青空が見えた。

(そういえば……)

 いつからか夕暮れにカーテンを閉めた聖夜のことを思い出さなくなっていた。それもそうか、と香夏子は思う。なぜなら隣家の窓のカーテンは取り払われてしまっていたのだ。

 もうあのカーテンが香夏子と聖夜を隔てることはない、ということに香夏子は今、気がついた。


 秀司と高山が出発する日はあいにく土曜で、パソコン講座があるため香夏子は見送りには行けなかった。

 その日、講座を無事に終え、今頃二人はもう飛行機に乗っただろうかと思いながら教室で生徒を見送っていると、生徒の中でもどこか態度に余裕が感じられる年配の男性から声を掛けられた。

「先生は教員免許も取得されているそうですね」

 彼は単刀直入に言った。

「ええ、一応ですが……」

 教員になりたかったわけではなく、進路指導のガイダンスで資格は取れるだけ取ったほうがいいと聞いたので従っただけの話だ。それより彼がどこでその情報を入手したのかということに警戒心を抱いた。

 香夏子の表情が硬くなったので、少し慌てた男性は笑顔を作って「実は私はこういう仕事をしていまして」とスーツの内ポケットから名刺を取り出した。

 それを受け取った香夏子の目に、市内の私立高校の名称と教頭という文字が飛び込んできた。

「教頭先生……」

「いやはや恐縮です。パソコンはほぼ初心者でして……」

 照れたように後頭部に手を当てたが、すぐに真剣な顔に戻り、話を続ける。

「実は当校でもパソコン学習の授業を行っているんですが、来年度からその授業の助手をしていただける講師の方を探していまして、もし先生さえ宜しければ来ていただけないかと思いましてお声を掛けた次第なんですが」

 香夏子は驚きながらも冷静に言葉を選んで言った。

「とても有り難いお話ですが、この場ですぐにお返事することはできません」

「ああ、勿論今すぐお返事をいただこうというわけではないので、また採用の時期が近づいたらお知らせしますし、詳細は学校までお電話いただければいつでもご説明いたしますので、どうかご一考ください」

 教員らしい丁寧で誠実な口調でそう言うと男性は一礼した。

 香夏子は立ち去ろうとした男性に向かって急いで言った。

「あの、教員免許のことはどこで……?」

「それが、実はこの講座の担当が私の倅でして、大変失礼なこととは思いましたが先生の経歴をうかがったというわけです」

(あのいつも額が痒いひょろひょろの担当者が、この人の息子とは……。ていうか、私の個人情報は保護してもらえないのか)

 愛想よく男性を見送り、心の中でいくぶん憤慨しながら帰り支度をする。

 だが、悪い話ではない。実家のクリーニング店もバイトの採用を進めているので、それが決まり、スーパーへの出店も軌道に乗れば、香夏子が今ほど手伝わなくてもやっていけるはずだ。

 来年のことなどまだわからないが、それまでにやりたいことが見つからなければ有力な選択肢の一つになるかもしれないと思いながら帰路に着いた。


 母から頼まれていた食品類をスーパーで買い込んでぶらぶらと家の近くまで来た。

 なんとなく家の玄関のほうではなく、クリーニング店が面している商店街を通りたい気分だったのでわざとそちらの道に足を向ける。

(あれ?)

 クリーニング店の前に来て、香夏子は立ち止まった。目は聖夜の実家のほうへ向く。

 隣の空き店舗に貼ってあった「テナント募集」のポスターがなくなっている。

 香夏子は隣の店舗を覗き込むように見てみたが、特に変わったところはなくガランとしていた。

 怪訝な顔のまま建物の間の通路を通って玄関に向かう。何だかいつもよりタバコ臭い。気が急いたが買い物袋が重くて走ることはできなかった。

 家に入るなり母を呼ぶが、母ではなくもうすぐ臨月の義姉が姿を見せた。茜の顔を見るなり香夏子は言った。

「隣、決まったの?」

「え? どうして?」

 茜は何も知らないらしく不思議そうに聞き返してくる。

「いや、ポスターがなくなってたからそう思っただけで、違うかもね」

「ふーん。それより香夏子ちゃんの部屋の窓が開けっ放しみたい。買い物袋は預かるから部屋を見てきたほうがいいよ」

 香夏子はキッチンまで買い物袋を運び、後は茜に任せて手洗いとうがいを済ませて急いで二階の自室へ駆け上がった。

 部屋のドアを開けて、香夏子は目を見開いたまま固まる。自分の目を疑いながらも、香夏子にはもうそれ以外のものが見えなくなった。

「おかえり」

「……ただいま」

 開け放たれた窓の向こうには、隣家の窓に肘を突いてタバコを吸う聖夜の姿があった。

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