第38話

 僕は焦った。どうにかして無線機を奪うか、破壊するかしなければ。だが、そんな方法は全く思いつかない。

 と、その時だった。


「ぐっ!」


 黒服が呻いた。暴れだした僕の足が、ちょうど彼の足を踏みつけたらしい。僅かに黒服の腕力が落ちる。その隙に、僕は思いっきり肘鉄を黒服の腹部に叩き込んだ。

 しかし、そこは護衛のプロだ。彼の腹筋を前に、僕の肘鉄は全く通用しなかった。

 直後、


「うわっ!?」


 僕は腕を解かれた。暴れていた反動で、僕は頭から天井に倒れ込んだ。


「ぶふっ!」


 傷口が開いたのか、鼻から出血する。その隙に黒服は無線機に目を落とし、口元に当てた。


「止めろっ!!」


 血をダラダラと流しながら、僕は振り返って黒服に向かおうとした。しかしその時、


「でやあああああああ!!」


 黒服の背後から、エリが突進してきた。右半身を庇っているし、左肩だけでアタックする。そんなものが、黒服に通用することはあるまい――もし、彼が無線機に気を取られていなければ。


「えいっ!」


 エリの左拳が、がむしゃらに黒服の背を叩く。その勢いで、黒服の手元から無線機が落ちる。カタン、といって無線機が着地する。


「うわあああああああ!!」


 僕は猛ダッシュし、無線機を蹴りつけ、今度はその後を追った。


「待て! 無線機を返せ!」


 誰が返すものか。無線機のそばに辿り着いた僕は、思いっきり足を振り上げ、これ以上ないほどの勢いで振り下ろした。


 ガチャン、という無機質な音を立てて、無線機から部品が飛び散った。


「このっ! このっ! このっ!」


 僕は無線機の残骸を踏みつけ続ける。これで黒服は、仲間との連絡が取れなくなったはずだ。


「貴様! 自分が何をしたのか、分かっているのか!!」


 黒服が叫ぶ。しかし、それに答えたのは僕ではなかった。


「もう止めなさい、エージェント!」


 エリだ。エリが、険しい声音で、厳しい目つきで、エージェントを圧迫している。


「し、しかしお嬢様……」

「あなたたちが契約したのは私の父だったはずよ。私の指示は聞けないでしょうけど、かと言って『私を守る』という名目で私を捕らえることはできない」

「……」


 エリを正面から見つめると、まるで後光が差しているかのように見えた。


「消えなさい、エージェント。でなければ、応援を呼んでくることはできないわよ」


 すると黒服は、僕とエリの間に視線を往復させてからエレベーターに向かった。


「エリ、大丈夫か?」

「優希こそ血が出てる。平気?」

「ん? ああ、この前ほどじゃないから……」


 と言いながら、僕はエリの見ている方に振り返った。そこには、


「天体望遠鏡……」

「これでやっと、優希と二人で天体観測ができるね」

「ああ……」

「さっきニュースで見たんだけど、今日は流星群がよく見えるんだよね。一緒に観測しよう?」

「……」

「優希?」

 

 エリに顔を覗き込まれて、僕ははっと我に返った。


「ああ、うん。今セットするから」


 僕は少しエリから距離を取り、望遠鏡の整備に取りかかった。

 すると、いつの間にかエリはすぐそばに立っていた。よほど早く星が見たいのだろうか。


「ねえ、優希は知ってる?」

「何だい?」


 僕は顔を上げ、エリと目を合わせた。


「あのね、『愛し合う』っていうのは、互いを見つめ合うことじゃなくて、同じ方向を見つめることなんだって。だから、同じ星を見つめていられたら、私たち、お互いを愛してるってことだよね」

「!?」


 僕は思わず噴き出した。鮮血が飛び散る。


「あっ、ごめんね優希、大丈夫?」

「あ、愛って……」


 僕たちには、『恋』はありこそすれ『愛』という言葉を使うのは早すぎるような気がした。エリも背伸びをしているのだろう。だが、エリの言うことは、まさに的を射ていた。

『同じ方向を見つめる』か……。天体観測という行為には、確かに『愛』という言葉が合うのかもしれない。


 結局望遠鏡を覗いても、何を見ているのか僕には分からなかった。あまりにも突飛なエリの言葉に、心が浮ついていたのだ。

 ただ、エリが喜んで夜空を見上げる様子を微笑ましく思っていた。そう思える自分が心のどこかにいたことに、僕の胸は喜びと驚きで一杯になった。


 しばらくしてから、


「エリ、流れ星だ! 流星群が見られそうだよ!」


 そう言って僕は、そっとエリの肩を叩いた。

 望遠鏡から視線をずらしたエリは、


「わあ……!」


 と息を飲んで夜空を見上げ、目をまん丸に見開いた。


「望遠鏡を使わなくても、こんな景色が見られるなんて……」


 僕は半歩、横歩きしてエリとの距離を詰めた。


「エリ、日本ではね――」

「流れ星を見ながら願い事をすると、それが叶うんでしょう?」


 ああ、やっぱり知っていたのか。それともこれは、万国共通の言い伝えなのか。

『流れ星に願いをかける』ということを、単なる迷信だと一蹴してしまうのは簡単だ。だが、今の僕にはどうしてもそれができなかった。

 何故なら、エリが願い事をしているからだ。

 片膝をついて手を組み、そっと目を閉じる。日本人ならやらないような、大げさな所作だ。しかし今回は、僕もエリと同様にひざまずいてそっと胸中で言葉を紡いだ。


 ――いつかエリと、一緒に暮らせる日が来ますように。


 それは既に『恋』という感情を超えていた。しかし、そうとでも思わなければ、自分の中で湧きあがってくる喜怒哀楽を説明できない。


 エリとここにいられる喜び。

 エリとの間を引き裂かれることに対する怒り。

 それに伴う哀しみ。

 しかし、エリがそばにいてくれることによる楽しさ。


 あらゆる感情がごった煮状態になっていたが、それは何か、満足感や充実感を伴うものだった。


 すると、鈴の音が屋上出入り口から響いてきた。

 黒服だ。黒服たちが、一斉に屋上を占拠しにかかった。

 そのスーツの黒さはどこか暴力的で、この美しい星空を汚してしまうように思われた。

 しかし、不思議と不快感や恐怖感は湧いてこない。

 そうだ。これこそが、僕が為すべきエリとの思い出作りだったのだ。


「お嬢様、車を用意しております。ご同道を」


 すると、黒服の中から先ほどのひょろい男が一人、僕に向かって歩いてきた。


「君はお嬢様の護衛係だと名乗っていたそうだな」

「はい」


 明快な肯定の言葉が出たことに、自分でも少し驚いた。


「私も君に何と言ったらよいか分からないが……。取り敢えず感謝はさせてもらう」

「は?」


 それだけ告げると、男は回れ右をして他の黒服たちと一緒にエレベーターへ向かった。

 感謝、だって? どうしてそう思ったのだろう。もしかしたら、彼もまた、竹園家の教育方針に対して思うところがあったのだろうか。

 僕は気まずさから、同じエレベーターに乗り込むのを諦め、隣のエレベーターが到着するのを待った。


         ※


 翌日。


「やあ、優希」

「おはよう、順二」


 僕は相変わらず、一人で読書にいそしんでいた。『相変わらず』というのは、エリと出会う前と変わらずに、という意味だ。


「心配したよ、順二。停学処分くらいは喰らうと思った」

「まあね、あんな状況だったから」


 順二が軽く肩を竦めたのと同時、教室の前方のドアが開き、


「おーしお前らー、朝のホームルーム、始めるぞー」


 と言って石塚先生が入ってきた。

 

 登校前、先生から電話があった。それは、『昨日のことは心配しないでほしい』という趣旨の連絡だった。

 嵐山・風間両先輩も、石塚先生も、それに順二も、何らかの罰則を受けるのではと考えていた僕には全く意外なことだった。

 しかし、実際は先生も順二もケロッとしている。先生曰く、『エリの両親が特別不平を訴えなかったから』らしい。教育委員会も沈黙を保っているとか。

 もしかしたら、あの時の背の高い黒服の男が、便宜を図ってくれたのかもしれない。

 

 だが、かと言ってエリの転校までは防ぐことができなかった。昨日の事件とエリの転校は、全くの別問題だ。そこまで口出しできるほど、世間は甘くないということか。

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