第37話
そこから先の時間経過はよく覚えていない。気づいた時には、黒塗りの高級車が僕を通り越して竹園邸に向かって行くところだった。
はっとしてスマホを見ると、十八時五十五分。きっと引っ越しは業者任せで、今の高級車にエリや彼女の両親が乗っているのだろう。
僕は慌てて、高級車の方へと駆け出した。僕の数十メートル先で、その後部ドアが開く。そこから降りてきたのは、紛れもなくエリだった。右腕は相変わらず肩から吊ったままだったが。
確か石塚先生は、今なら話すチャンスがあると言っていた。エリがそれを望んでいるかどうかは分からなかったけれど、とにかく僕は駆け出した。
「エリ!」
黒服の男性数名が振り返る。
「エリ!!」
彼らを父親が制する。すると同時に、
「優希……?」
エリがいつものように首を傾げながら、こちらに視線を寄越した。その瞳が見開かれるのを、僕ははっきりと見て取った。
僕は黒服たちに包囲されるような形で、エリのそばまで駆けてきた。
「エリ……」
『会いに来たよ』と言いたかったが、すんでのところで口ごもった。これからなされるのは、出会いの喜びを共有する会話ではなく、別れの言葉の応酬だからだ。
「ごめんね、優希。こんな別れ方になっちゃって……。私の両親を説得しようとしてくれたんでしょう?」
そうか、エリには知らされていたのか。
確認の意味も含めて、僕はこくこくと頷いた。
「今まで本当にありがとう、優希。私、あなたのことは絶対に忘れないから」
だがそれは、エリをずっと苦しめ続けることにならないか。
「僕のことは忘れるんだ、エリ。君にはもっと相応しい出会いがある。ご両親の言う通りだよ」
僕が苦しみぬいて、自分のエリへの想いを曲げてまでこの結論に至ったことを、エリは分かってくれるだろうか。
僕はエリを見つめ返すこともできず、その足元に向かって語っていた。
流石に急かすのは酷だと思ったのか、誰も僕とエリの会話を止めさせようとはしなかった。
その時だった。
ばしゅん、と何かが発射される音がした。映画やアニメで聞くような拳銃の音ではない。何とも間抜けな、気の抜けた音だった。
黒服たちも、僕とエリの挙動に気を取られてそちらに対する反応が遅れたらしい。気づけば、点火して放り込まれた打ち上げ花火が火を噴くところだった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
僕とエリの前に黒服たちが立ちはだかる。しかし、
「まだまだ行くわよ!」
「出血大サービスだぜ!」
先輩? いや、間違いない。確かに風間先輩と嵐山先輩の声がした。
今度は地面を這うような細長い花火が駆けてきて、黒服たちの足元で炸裂する。
「奴らだ、捕まえろ!」
父親が腕を伸ばして黒服たちに命令する。
僕とエリがおどおどしていると、
「優希、こっちだ!」
「順二!?」
「さあ、エリさんも!」
黒服たちが行ったのと逆方向に僕たちを誘導しようとする順二。僕は咄嗟に振り返り、エリに頷いてみせた。エリは頷き返してくる。
「誘導してくれ、順二!」
行先も訊かずに、僕は駆け出した。そっとエリの左腕を取りながら。
あたりは色とりどりの火花が足元で飛散し、誰もが煙に巻かれている。僕は必死に目を擦りながら、順二の背中を追いかけた。
すると今度は、
「お前ら、早く乗れ!!」
「石塚先生!?」
先生が待っていた。見たことのない真っ赤なスポーツカーの運転席から顔を覗かせながら。
「急げ!」
横づけに駐車された車の後部座席に、僕たちは飛び込んだ。
「出してください!」
順二が叫び、バタンとドアを閉める。
「全員シートベルトを締めろ! 飛ばすぞ!」
「うっ!?」
ぐっと背中が座席に押しつけられ、車が猛スピードで発車する。
「エリ、大丈夫か?」
「ええ!」
「荒っぽくなってしまってすまないな!」
先生が運手席から叫ぶ。
「先生、順二も……いや、先輩たちまで、一体どうしたんですか!?」
「どうしたも何も――」
順二は遠心力でバランスを崩しながらも、
「優希とエリを助けに来たんだよ!」
助けに? どういう意味だ?
「君たち、僕の家のマンションの屋上で天体観測をやるつもりだったんだろう? エリさんが転校してしまうのは避けられなかったけど、せめて今日は二人で過ごしてほしいんだ!」
「順二、どうしてそこまで……!」
僕が目を丸くしていると、
「言ったじゃないか」
順二は暗い車内でも分かるほどニヤリ、と顔を歪め、
「エリさんに相応しいのは、やっぱり君なんだよ、優希。だから助ける。他に理由が必要かい?」
不敵な笑みを浮かべる順二に向かい、
「順二……」
僕は応答することができなかった。
それにしても、すごい速度で車は走っていた。まるで石塚先生の猛進性を表しているかのようだ。
「何かに掴まれ!!」
幹線道路に出た車は、何度もクラクションを鳴らされた。しかしそんなことはお構いなしに、車線変更を繰り返していく。
「もうじきだぞ!」
と、先生が言い終える間もなかった。車は勢いよくカーブを切る。キュルルルッ、とタイヤの擦過音がする。気づいた時には、
「着いたよ、二人共!」
順二に声をかけられて、僕とエリは恐る恐る顔を上げた。車は停車しているが、先生は
「ほら! さっさと降りろ!」
怒声を上げた。
「後は頼むぞ、小河!」
「了解です! さ、こっちだ!」
順二は僕の腕を引いて、座席から僕とエリを引っ張り出す。
「大丈夫だったかい、エリさん?」
「ええ、大丈夫」
順二の気遣いに、気丈にも答えるエリ。
「エレベーターまで案内するよ、ついてきて! もう望遠鏡は準備してあるから!」
順二が言い終える前に、先生のスポーツカーは猛スピードで発進した。どうやら陽動のつもりらしい。
思えば、順二の家に遊びに来たことはほとんどなかった。
案内されたのは、エントランスを抜けた先の大理石のホールだった。エレベーターが並んでいる。順二が上のボタンを押すと、すぐに鈴の音が鳴ってエレベーターの扉が開いた。
「屋上のボタンを押してくれ。すぐにつくよ」
「あ、ああ!」
すると、ぐいっと僕は肩を掴まれた。
「エリさんを頼むよ、優希」
そう言って、順二は一歩、引き下がった。『ここから先はお前に任せる』――そういう思いでいるのだろう。
再び鈴の音がして、エレベーターの扉は閉じられた。
ここに至って、僕はようやく自分が息切れしていることに気づいた。ごくり、と喉を鳴らして唾を飲んでから
「大丈夫か、エリ?」
「ええ!」
右腕の方は大丈夫だったようだ。後は屋上まで、移動はエレベーターに任せていればいい。
三度目の鈴の音がして、扉が開いていく。今もまだ少し肌寒いくらいの風が、僕とエリの頬を撫でる。
僕は勢いよく屋上へと一歩踏み出した――その時だった。
「待て」
低い男性の声がした。ぞっとして振り返ると、
「そこまでだ、春島優希くん。エリお嬢様、ご両親が心配しておられます。すぐにお戻りください」
まさに闇に紛れた真っ黒なスーツ姿で、男性はぬっと視界に入ってきた。例の黒服のうちの一人だ。他の黒服より背が高く、ほっそりとした印象を与える。
こんなところにまで手が及んでいたとは。
「何だお前ッ!」
驚いたのも束の間、僕は気が高ぶっていて、邪魔者はとにかく押しのけるつもりでいた。思いっきり拳を振りかぶり、駆け出す。が、僕の拳は空を切った。
「あまり騒がないでくれ」
気づいた時には、僕は前のめりに転びかけていた。が、さっと後ろに回り込んだ黒服に、わきを支えられるようにして動きを封じられた。
「この野郎! 離せッ!」
「優希!」
小柄な僕は、軽々と片腕で抱えられてしまった。
すると黒服は、懐から何かを取り出した。無線機だ。これを使われたら、ここの場所がバレてしまう――。
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