第36話

「そうだね。せめて一緒に天体観測をしたかったんだけれど」


 僕ははっとして顔を上げた。

 今すぐ一緒に逃げよう! ――そんなドラマチックなことが言えたなら、どれほどマシだったろう。だが、エリは今安静にしていなければならないし、退院はもう明日の夕方に迫っている。天体観測なんてしている時間は、ない。

 せめて明日の夜だけでも。だが、それすら僕は諦めてしまっていた。エリの両親の態度を見てしまえば。

 それに、エリの本来のボディーガード兼監視者であるところの黒服たちが黙っていないだろう。僕が立ち向かっても、一人として倒すことは当然できない。

 極めつけは、まさにエリの父親から言われたことだ。気に食わない言い回しであったが、エリは『彼らの』守るべき一人娘なのだ。『大人』ではなく『親』としての意地を見せつけられたように思う。まあ、教育方針には大いに問題があるだろうが。


「僕は、無力だ」

「……?」


 エリが首を傾げる気配がする。僕はいつの間にか再び俯き、おまけに


「優希くん、どうして泣いてるの?」

「えっ……」


 涙など、昨日の夜中に出し尽くしてしまったものと思っていた。しかし、そうでもなかったらしい。いやそもそも、涙というものは有限なのだろうか。無限だったとしたら、僕は一生目を見開くことはできなくなる――そんなことまで考えてしまった。


「悔しいんだ」


 僕はぽつりと呟いた。涙が滴り、リノリウムの床に落ちる。

 いや、こんなことではいけない。僕は手首を瞼に押し当て、涙を拭おうとした。

 しかしその直前、カチャリ、と軽い金属音が響いた。前方からだ。

 気づけば、いつの間にかエリは立ち上がり、こちらに歩んでくるところだった。


「エリ……?」

 

 するとエリは、


「私にも分かるよ、優希」


 そう言って、自由の利く左腕を僕の背中に回した。


「悔しいよね。私が子供だっていうだけで何でもかんでも拘束されて、それがお前の幸せのためだって言われたら反論できなくて……。本当、悔しいよね」


 エリは声を震わせた。


「エリ、泣いている、のか」


 返答の代わりに、エリは鼻をすすった。

 そんな彼女を前にして、しかし僕にはもう、エリに触れる権利はない。そう思われた。

 最早、僕はエリの護衛係ではない。友人でも何でもない、ただの知り合いだ。

 エリの僅かな、そして切なる願いの一つも叶えてやることができないのだから。


「僕なんかいても、空気みたいなものなんだよな……。君のために何もしてあげられない」

「そんなことないよ、優希」


 今さらながら、僕はエリにファーストネームで呼び捨てにされたことに気づいた。


         ※


「流石にこれ以上休まれると、私もカバーしきれないな」

「当然、そうですよね……」


 僕は職員室の、石塚先生のデスクの前にいた。エリの病院に行った後、その足で学校に出向いたのだ。

 石塚先生は、少しは気力を取り戻したらしい。タフな人だ。


「竹園のご両親から電話が来たよ」


 僕はびくっ、と肩を震わせた。


「これ以上、この学校の特定の生徒が娘のところを訪れるようなことは止めてもらいたい、とのことだ」

「そうですか」


 予想通りと言えば、その通りだった。


「本当にすまなかったな、春島。私も努力したんだが……。結局どうにもならなかったようだ」

「そうですか」


 僕は同じ言葉を繰り返した。

 先生に謝られるのはこれが最初ではない。それでもこれほど気遣われるとは。それほど僕は、憔悴した様子に見えているのだろうか。


「ただし、もう会えないというわけじゃない」


 先生は言葉を繋いだ。

 

「明日、竹園は一旦病院から自宅に戻るそうだ。まあ、お前が行ったという自宅も、竹園家の内の別荘みたいなものなんだが……まあいい。その竹園邸から移動する前なら、少しはお前をエリに会わせてやってもいい、というのがご両親の意向だ」

「はあ」


 エリに会えるのか。それも最後の最後で。

 先生からは、夜の七時頃にエリと両親が竹園邸をあとにすることが伝えられた。そのタイミングでまた竹園邸に行けば、エリに会える。

 でも、そうしてしまったら余計にエリのことを忘れられなくなるかもしれない。


 ん? 待てよ。

 僕はエリのことを忘れたいのだろうか?

 離れ離れになってしまうのを悲しむならば、忘れてしまった方がいい。


 では質問を変えてみよう。

 僕はエリのことを忘れることができるのか?

 否。無理に決まっている。できるはずがない。

 何故かは分からない。だが、僕にとってのエリはただの友達でも、恋人でも、護衛対象でもない。

 エリは。エリは。エリは――。


         ※


 翌日。

 僕は重い足を引きずって登校した。エリの見舞いには行っていない。

 これ以上問題を複雑にしないためには、そうするしかなかった。


 昨日、一晩中考えていたこと。それはやはり、『今晩エリに会いに行くか否か』だった。授業中も休み時間も、僕は一つ前の座席をじっと見つめていた。まるでそこに、エリが座っているとでも思い込んでいるかのように。

 僕の思考は、一切が停止してしまっていた。そういえば、いつも声をかけてくるはずの順二の姿が見えないな。そう思ってあたりを見回すが、こちらを見返してくる者はやはりいなかった。

 皆にはどう説明がなされるのだろう。エリはここ一、二週間程度しか登校していない。これほどすぐに転校してしまうなんて、誰だって怪しいと思うだろう。

 

 ふと、僕の脳裏に、嵐山先輩と話した時のことが湧いてきた。先輩の言葉を脳内再生する。

 確か、『今のお前には制約がないから、だったら本気で事に臨め』――そんな趣旨の言葉だったはずだ。

 

『本気』とはどういう意味だろう。僕にできることは。いや、僕がしたいことは。

 僕はガタン、と音を立てて、勢いよく立ち上がった。既に授業は全て終わり、帰りのホームルームを残すのみとなっている。


 僕は僕に問いかけた。

 ――お前は一体何者で、一体何を望んでいる?


 僕は僕に答えた。

 ――僕はエリの護衛係で、彼女と共に生きていくことを望んでいる。


 突然僕が立ち上がったことで、教室が少し静かになった。するとタイミングを見計らったかのように、


「よーし、ホームルームやるぞー。皆、席につけー」


 石塚先生と、目が合った。

 先生は一瞬、何事かと問うような視線を向けたが、構わずに僕は大きく頷いて


「行ってきます」


 と一言。すると先生も、待ってましたとばかりに笑みを作り、


「よし、行ってこい」


 と言って僕の背中をバシンと叩いた。勢いそのままに、僕は教室を後にする。


「せんせーい、春島くん、何かあったんですかあ?」

 

 という声が追いかけてきたが、あの場は先生に任せて大丈夫だろう。そのくらい力強い笑みを、先生は浮かべていたのだ。


         ※


 僕は足早に歩道を歩き、夕焼けに染まりつつある街を闊歩した。幹線道路を挟んで田舎地帯と市街地地帯が分離しているが、駅は市街地地帯に入ってすぐそばにある。

 僕は券売機で三百円のチケットを買い、軽く握りしめて改札へ向かう。普段登校に電車は使っていないのだ。

 そして再び、嵐山先輩から貰った地図をよく見て道順を何度も何度も確認した。

電車が目的の駅に着くと同時、午後六時を知らせる市内放送の音楽『蛍の光』が流れ始める。

 僕は必要もないのに駆け足で、竹園邸を目指した。

 この角を曲がれば見えてくるはず――と思ったその時、


「ん?」


 僕は急ブレーキをかけた。呼吸が乱れ、心臓が祭り太鼓のように脈打っているが、そんなことは気にかけない。問題は、竹園邸そばに駐車している引っ越し業者のトラックだった。

 流石に、ここの竹園邸を『別荘』と呼んでいるだけあって、転居に伴う荷物は多くない。

 誰に責められるわけでもなく、僕は角に突っ立っていた。そしてじっと、荷物の積みこまれる様子を、ひいてはエリの生活感が失われていく様子を見つめた。

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