第34話
「そ、それがどうして結婚に関わるんですか?」
すると先輩は振り向き、『決まってるじゃねえか!』と一言。
「そんな危ねえところに、京子を連れては行けねえだろう?」
待て待て、どうしてそうなる?
「飽くまで『場合によっては』ってことになるが――。難民キャンプや病院が、軍に誤爆される可能性もあるだろう?」
僕はおずおずと頷いた。
「俺一人が死ぬなら構わない。けど、京子と結婚していたらどうなる? 京子は真っ直ぐな奴だ、旦那に死なれたとあっちゃ、一生立ち直れない。だから俺は、京子とも、誰とも結婚はしない」
しかし次の瞬間、僕の脳内で何かがショートした。
「だったら中東なんて行かなければいいじゃないですか!」
意外なほど、大声になってしまったが、正直僕は言葉通りのことを思っていた。わざわざ異国の地に乗り込んで、人助けをしてから死ぬ。英雄気取りなのか?
「先輩が行かなくたって、誰かが行きます。先輩は日本で、いや、平和な国で風間先輩と仲良く暮らせばいい!」
するとゆっくり、先輩は腰を上げた。
「お前、俺を舐めてるのか?」
「……え」
「俺の覚悟のほども知らずに、何を言ってるんだと聞いてんだよ、馬鹿野郎」
先輩の顔を見上げる。ぎゅっと結ばれた唇、荒い息をつく鼻先、そして燃えるような瞳。
そこに、僕に対する軽蔑はなかった。ただ、今まで見たことのないような純粋な『怒り』だけがあった。
夕日の逆光になった暗い姿は、どこか仁王立ちになった禍々しい彫刻のような風格を湛えていた。
すると僕が瞬きをする間に、先輩はぐっと右腕を突き出してきた。僕の胸倉が掴まれる――と思ったが、その手はすぐに引っ込められた。
「……悪い。今はお前の相談に乗っているところだったな」
先輩はばつが悪い様子で目線を逸らし、再びベンチに腰を下ろした。
「まあとにかく」
先輩はぐしゃぐしゃと自分の髪をいじりながら、
「俺は人助けをするか、普通の家庭的な幸せを取るか、相当迷ったわけ。で、人助けを選んだのさ。さっき言ったな、優希? 『俺が行かなくても、誰かが行くだろう』って。だが、日本で見聞きしてるよりも現場はずっと過酷なんだ。何人、何十人、いや何百人行っても足りないくらいだ」
ここで先輩は腕を下ろし、はあ、と大きくため息をついた。
「だから、俺が行くことには意味があるはずだ。世界のどこに行くことになるかは分からねえけど。かといって家族と離れ離れにはなれない。いくら通信メディアが発達しても、家族は家族だ。一緒に飯を食うくらいのことはできねえとな」
「先輩、家族思いなんですね」
すると先輩は、自嘲的な笑みを浮かべ、
「ただの寂しがり屋だ。だからこそ後ろ髪が引かれないように、生活拠点は決めない。家族とも会わない。親父とお袋は分かってくれてる」
僕は、何とか言葉を紡ごうとした。先輩、あなたはそれでいいのですかと。しかし、それでは今度こそ胸倉を引っ掴まれるだろう。
「でもな、京子はまだ納得しきれてないみてえなんだ。だからこそ、情緒不安定なんだな」
いつもだったら、それは嵐山先輩がふざけてばかりだからですよ、とでも言ってやることができただろう。だが、先輩の悩み抜いた結論を笑いの種にするなど、僕にはとてもできなかった。いや、そんな考えに至ってしまった自分が許せないほどだ。
「でも、お前は違うんだろう?」
「え?」
突然声を掛けられて、僕は狼狽した。
「お前はまだ、自分の進むべき道が分かっていない。だったら『今』すべきことをやるだけじゃねえのか」
「今、すべきこと……?」
「こいつをやるから、何かやってみろ」
先輩から手渡されたもの。それは――。
※
僕は地図を見ながら電車に揺られていた。午後六時を回ったところで、あたりは夕日の残滓に僅かに照らされるほどになった。
嵐山先輩が僕に渡したのは、一枚の地図だ。その右端に、確かに『竹園』の名前がある。
エリの住まいは、僕の『一軒目の』実家のそばのマンションだが、本家は地図にある方だ。両親とはしばらく距離を取った方がよい、という精神科のドクターの診断を、エリは受けている。そのため、別居しているエリの両親と話をつけるには、多少足を延ばす必要があった。
そう、『話をつける』のだ。
この前の病院での一件を詫び、エリに対する僕の意志を伝え、何とかエリを転校させるのを止めるよう嘆願するつもりだった。
もちろん、それは屈辱的なことだった。あんな大人のエゴを見せつけられてしまっては。
だが、喧嘩を売って火に油を注ぐようなことは避けねばなるまい。
僕にできるのは、誠心誠意、自身の全身全霊をエリの両親に見せつけることだけだった。
普段は方向音痴な僕だが、意外なほどすぐに竹園家は見つかった。いや、竹園『邸』と呼ぶべきか。
西洋建築二階建ての、品のよい住まいだ。玄関前には、アーチを描くような形の鉄柵が設けられている。僕はそのそばの、インターフォンのボタンを押した。
《はい、竹園です》
この声は、母親だろうか。
「夜分に恐れ入ります。私は瀧山高校二年の春島優希と申します。エリさんのことでご相談したく、お伺い致しました」
ギクリ。そういって、インターフォンの向こう側で何かが蠢くのを僕は感じ取った。
《只今玄関を開けますから、お入りください》
素っ気ないというより、怯えているような声音。だからどうしたというわけでもないが、僕はずんずんと竹園邸に足を踏み入れた。
奥向きに開いていた鉄柵を通り過ぎたところで、家屋の玄関扉が開くのが目に入った。そこから顔を覗かせたのは、エリの両親が二人共、だった。
「うちの娘がお世話になっております、春島さん。先日は失礼した」
重い口調で父親が言った。僕は『いえ、こちらこそ』と短く答えるに留めた。
よくよく見れば、父親は随分と身体を鍛えている様子だった。突然の僕の訪問に、クールビズのような格好で出てきたが、それ故に身体のラインがよく見える。
しかしエリの両親は二人共、玄関から動こうとしない。招かれざる客だった、ということらしい。――構うものか。
「僕は今日、先日のお詫びと、一つのお願いをしにやって参りました。前もってアポイントメントを取れなかったこと、心より申し訳なく思っております」
僕の殊勝な態度に軽い驚きを覚えたのか、父親は
「病院でのことは気にしないでください。それで、『お願い』とは?」
僕は顔を上げ、エリの両親の間に視線を走らせた。そして、
「エリさんを、瀧山高校から転校させないでください」
と言って、腰を九十度に折った。
突然の申し出に面食らったのか、母親が
「な、何をおっしゃっているの、春島さん? エリが転校するのは、えっと、私たちの家庭の都合で――」
「よせ」
先ほどよりも重苦しい声で、父親は自分の細君の言葉を封じた。
「確か、春島優希くんと言ったな?」
「はい」
「君には隠し事はしまい。全て話そう」
父親は語りだした。
エリが転校してきてから、毎日楽し気であること。
しかし時折、思い詰めたような態度で自室にこもるようになったこと。
以上を鑑みて、『悪い虫』がエリに接触しているのではないかということ。
「だから、私たち家族は瀧山高校が、エリには相応しくない場所だと判断したのだ」
「え?」
「同居しているわけでもないのに、何故エリの動向を知っているのか、という顔だな」
僕は石化したように動けなくなった。まさか――。
「ずっとエリの動向を探っていたんですか?」
父親は腕を組んで頷いた。
「エリは私たち夫婦の間に産まれた、かけがえのない一人娘だ。そのくらいして当然だろう?」
「それでストーカーを雇ったんですか!?」
「ストーカーだと!?」
父親は目を見開いた。
「エリの周辺警備にあたっているのは、私の企業の傘下にある警備会社のエージェントたちだ。ストーカーではない!」
「でも、誰のことも好きになるな、というのは言い過ぎです! あんまりだ!」
すると今度は、母親の方がごくり、と唾を飲んだ。
「まさか貴様……。お前がエリに付きまとっている『虫』か?」
「……!?」
何だって?
「お前はエリの、何なんだ?」
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