第33話

 僕は一旦伯父さんの家に戻り、制服に着替えた。それから、勉強机にノートを開いて自分の心境と問題点を綴り出してみた。

 それだけでも、心と頭を整理するには十分だった。相談する相手に対して、スムーズに自分の気持ちを伝えたい。そんな考えがあった。

 しばらくの間、ゆったりとした時間が流れた。先日のこともあってだろう、伯父さんも伯母さんも僕を独りにしておいてくれた。昼食を食べるよりも大事なことを行っている――それが僕の態度から伝わったのかもしれない。


「……ふう」


 僕は額から後頭部にかけて、すっと髪を撫でた。ノートを見下ろす。見開きになったノートの上では、僕にしか判別できないであろう速筆の文字と、何本もの矢印が踊っていた。それがページを遡るごとに、異なった様相を見せる。どうやら僕の思考のアウトプットは、ノート十数ページに及んでいたようだ。

 ところどころに『優希』『順二』『エリ』の名前が書かれ、それが円に囲まれている。矢印の先には、主に僕の感情が書かれていた。『好き』とか『理解』とか『友情』とか『申し訳ない』とか。

 ふっと顔を上げると、時刻は既に午後四時を回っていた。『彼』も恐らく、授業を終えたところだろう。僕は腰を上げた。


「あら優希くん、今から学校?」

「ええ、まあ」


 伯母さんは目を丸くした。しかし、僕が何らかの問題にぶつかっていることを察してか、


「そう、気をつけてね」


 と笑顔で送り出してくれた。感謝するしかない。この問題に深入りする人間は、できるだけ少ない方がいいとも思っていたし。


「いってきます」


 と告げて、僕は玄関から足を踏み出した。


         ※


『彼』の姿はすぐに見つかった。


「あ、あのー……」

「……」

「聞こえてます? っていうか大丈夫ですか?」

「……見ての通りだ」


『彼』――嵐山先輩は、グラウンドに置かれたゴミ箱に頭を突っ込んで、だらんと両足をゴミ箱の淵からぶら下げていた。『頭隠して尻隠さず』の縦バージョンだ。

 僕は軽くため息をついて、ゆっくりとゴミ箱を横倒しにした。まさか頭が引っかかって出られない、などというわけではあるまい。先輩がもぞもぞと頭を引っ張り出すのを、僕はゴミ箱を両腕で固定して援護した。


「ぶはっ! げほっ!」

「大丈夫そうですね、先輩」

「い、いや、そこは疑問形にしてくれよ……」


 ゴミや埃の代わりに、穴の開いた野球ボールや羽のちぎれたシャトル、それに砂がばらばらと先輩の制服から舞い落ちる。


「それで、先輩に相談したいことがあるんですが」

「あん? 相談?」


 先輩はぱたぱたと学ランを叩いていたが、


「何の相談だ?」


 と言った直後に表情が引き締まった。それだけ僕が真剣な表情をしていた、ということなのだろう。


「どうした?」


 先輩は再び、しかし今度はしっかりと目を合わせて、再び問うてきた。


「エリのことです。先輩の方が恋愛経験が豊富でしょうから、相談に乗っていただきたくて」

「あー」


 先輩は、しかし間抜けな声を上げて後頭部に手を遣った。


「お前がそんな相談をする、ってことは、お前とエリちゃんはそれなりの仲だ、っていう認識でいいんだな?」

「はい」


 大きく頷いてみせた僕を前に、先輩は肩を落とした。


「そうかー、あのエリちゃんがねえ……」

「何ですか、その親父臭い台詞は」

「なんてな」


 すると先輩はにかっと白い歯を見せて、


「まあ、そこのベンチを借りようぜ」


 と言って、率先して歩を進めた。


「よっこらせっと……」

「腰、どうかしたんですか?」

「さっき京子に後ろから蹴り飛ばされた」

「ああ、いつもの」

「まあな」


 心配してくれ、と言い出さないあたり、嵐山先輩も自分の現状に納得しているらしい。


「お陰で綺麗な放物線を描いて、ゴミ箱に真上から突っ込むことになった」

「なるほど……じゃなくて!」


 僕はがばっと先輩の方に振り向いた。鞄からノートを取り出し、


「僕とエリだけの話じゃないんです。順二……僕の親友も絡んだ話です」

「ほう」


 先輩はこちらに一瞥もくれなかった。しかし、その横顔が厳しく真剣になるのを見て、僕はノートを見ながらゆっくりと話を始めた。


 僕がこだわっていた、エリとの関係。それは、果たして本当に僕が、順二のいう『エリにとって相応しい相手なのか』。この一点だった。

 一言で言えば、自信がなかった。持てるはずがない。今朝突然に、親友から意中の女性を助けるようにと言われても、一体どうしたらいいのか。

 無論、順二がバックアップしてくれるとのことで、天体観測をするのはいい。だが、その後はどうなる? エリは転校させられてしまうのに?


「なーるほーどねー」


 先輩は両肘を両膝の上に載せ、その掌の上に顎を乗っけた。


「エリちゃんと離れ離れ、か」

「ええ」


 そう首肯した直後、先輩が言葉を続けた。


「この話、優希にしたっけ? 俺が京子を振った、って話」

「……は?」

「だから、俺が京子に別れ話を持ちかけたんだよ。お前の耳は節穴か?」


 それを言うなら『耳』ではなく『目』だと思うのだが、今はどうでもいい。

 しかし俄かに信じられなかった。嵐山先輩と風間先輩がかつて付き合っていた、ということは知っている。

 だが、


「僕はてっきり、風間先輩が嵐山先輩を捨てたんだとばかり……」

「ひでえこと言うなあ、おい!」


 先輩は僕を肘で小突いた。


「実際、俺も悩んでたんだよ。本当に俺が、京子を幸せにしてやれるのか。まあ、三角関係にはなってなかったけどな」


 その先輩の言葉に、僕は呆気にとられた。と同時に、途轍もない焦燥感が胃袋の底を焼き始めた。


「それで、答えは出たんですか?」

「だから別れたんだろ」


 素っ気ない風を装って答える先輩。しかし、どうして『風間先輩には自分は相応しくない』という答えに至ったのだろう。

 先輩はぎょろりと目玉を動かして、


「ちゃんと説明しろ、って顔してるな」


 僕は大きく頷いた。ここで遠慮してはいられない。


「俺と京子は、お前とエリちゃんの関係とは違う。幼馴染だ。幼稚園の頃から一緒だった」


 ここから先は、僕にとっては未知の領域だ。

 一言一句を聞き漏らすまいと、僕は先輩の方に聴力を集中させた。


「ま、当時はそれほど意識していたわけじゃなかった。男女問わず、グループで遊んでいたからな。でも中学の時、だんだん俺と京子の間に距離があることが分かってきた。この年頃だと、男女は大抵別れて各々のグループを作るだろ? って、お前はずっとぼっちだったから分からんか」

「余計なお世話です」


 僕は先輩に睨みを利かすように目を細めた。しかし『そういう奴もよくいるから安心しろよ』という言葉に、幾ばくかの安心を得て気持ちを静めた。


「で、話の続きだ。男女の間に壁ができてくる、ってのは何となく分かるような気がした。『分かる』ってのは『許せる』って意味だ。けど、どうしても京子のことだけは心に引っかかっていた。情けねえ話だが……俺は、京子ともっといろいろ話をしたかったし、そばにいたかった。その点だけは『許せない』『譲れない』気持ちだったな」


 それが恋ってもんなんだろうな、と先輩は呟く。『恋』という言葉が、今の僕には胸に刺さるように感じられた。


「で、告白したわけだ。京子と意気投合していたのは昔っからだし、何を今さら、って感じではあったけど。取り敢えずOKが出て、俺も京子も高校進学は地元で、って話だったから、この高校を受けたわけ」


 理解したことを示すために、僕は数回、軽く頷いてみせた。しかし次の瞬間、


「ただな、問題があった」


 先輩の言葉のトーンが切り替わった。それは何とも形容しがたい声音だったが、古傷を庇うような暗さ、もの悲しさが込められていたように思う。


「言ったっけ? 俺が心療内科医になりたい、って話」

「はい」


 今度は一度だけ、大きく首肯する。


「俺が医療の道に進みたいと思った時、世界中を飛び回りたいとも思ったんだ。俺が悪ガキだった頃、面倒を見てくれたドクター……。彼、実は日系アメリカ人でな。もちろん日本語はペラペラだったから、診てもらうのに支障はなかった。それよりも俺が感じたのは、『夢』の広さだ」


 何だそりゃ? 『夢』の広さ、と?

 疑問が顔に出たのだろう、先輩はふっと軽く噴き出してから、『これから教えてやるよ』と一言。


「どうしてアメリカじゃなくて日本で患者を診ているんだ、と訊いたことがある。そうしたら彼は、『日本人の自殺者が多いのが心配だったから』と答えた。逆に言えば、自分の力でより多くの人々を救えるんじゃないか、と思ったとも考えられる」


 なるほど、確かに。


「だから俺は、そんなドクターの考えに共鳴して、世界を飛び回る医師になりたいと思った。最近じゃ、中東なんかやたらと物騒だろ? 『国境なき医師団』とかに加盟して、戦争で心に傷を負った人たちを助けたいと思った。だから嫁さんを貰うのは諦めたよ」


 ふうん……って、え?

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