第32話
「順二、君は……!」
「ごめん、盗み聞きしてたんだ」
エリが心配で、こいつも病院にやって来たのか。しかし、盗み聞きされていたとは思わなかった。病室の防音性は高いと思ったのだが。
「流石にあれだけ叫んだら、誰が何を言っているのか分かっちゃうよ」
「ん、うん……」
やはり廊下にまで響いてしまっていたのか。僕は自分があれだけ叫んだことを恥じた。
しかし、順二は
「あんなにエリさんのことを想っていたんだね……」
と言って俯いてしまった。我を忘れて喚き散らしていた僕を責めることもなく。
「順二、君は何を言いたいんだ?」
僕は慎重に、ガラス細工を扱うような気持ちで言葉を紡いだ。
すると順二は僕のそばに立ち、エリに向かって
「エリさん、この前は一緒に食事に行ってくれて、本当にありがとう。でも、君には優希くん、いや、優希の方が相応しいと、僕は思っているんだ」
「どうしてだ?」
「何故?」
同時に問いかけた僕とエリ。エリは純粋に疑問の色を、僕は怪訝な気難しい表情を浮かべていたように思う。
そんな僕たちに交互に視線を遣りながら、順二はふっと微笑んだ。
「理由なんて簡単だよ」
順二はすっ、と息を吸ってから、
「優希の方が、僕なんかよりもずっとエリさんのことを大切にしているからさ。そうでなければ、あんなに必死に行動することはできない」
「必死に、行動……?」
「やっぱりね」
優希は気づいていなかったのか。そう言って、順二は肩を竦めた。
「エリさんが飛び降りたことは、僕も気づいたんだ。だけど動けなかった。怖かったんだよ、エリさんが死んでしまったんじゃないかと思って。だけど、優希は違った。すごい勢いで階段を駆け下りていく姿、僕ははっきり見ていたんだ」
「僕が、階段を駆け下りていく姿……?」
順二は頷いてみせてから、
「すごい形相だったよ、優希は。自分の命が懸かっていても、人間なかなかあんな顔はできないんじゃないかな。誰か、愛する人を守ろう、っていう気迫があった」
「なっ!」
僕は息を詰まらせた。
「あ、愛する人って……」
愕然とする僕を気にもかけずに、順二は続けた。
「ただ『好き』っていう感情じゃないよ、優希が抱いているのは。守りたいんだよね、エリさんのことを。きっと同じ病気だからってこともあるんだろうけど」
「い、いや、エリが転落したのは事故で――」
「石塚先生はそう言ってたけどね」
聞けば、『エリの飛び降りが事故だった』という説明を、大方のクラスメートは信用している。
だが、順二には石塚先生の嘘は通じなかった。それだけ僕の様子が尋常ではなかったということか。
「自殺と言えば、否が応でも優希のことが思い浮かんだよ」
確かに、僕が精神疾患を患っていることを知っているクラスメートは順二だけだったはずだ。
「お互いのことを理解し合うには、やっぱり同じ境遇の人同士の方がいいと思ったんだ。だったらやっぱり、スポーツ馬鹿をやってる僕なんかより、優希の方がエリさんの気持ちに寄り添ってあげられるはずだ」
順二はエリにそう語りかけてから、はっきりとした決意を持って僕を真正面から見つめた。
「優希、親友としての頼みだ。エリさんを、必ず幸せにしてあげてほしい」
「……」
何と答えたらよいか分からない、どころの騒ぎではなかった。僕の心臓は異様なまでに跳ね上がり、頭の中が真っ白になる。一方、胸中では言葉にならない疑問や反論が、どろどろと渦巻いていた。
僕は自分の足元を見つめ、ベッドの端に目を移し、それから順二の決意のこもった眼差しに撃たれ、再び視線を落とす。
よくよく考えてみれば、ただの笑い話にすぎないのかもしれない。高校二年の段階で、愛がどうの、幸せがどうのと語るのはあまりにも次期尚早だ。
しかしそれを口にしているのは、誰あろうあの小河順二。僕の唯一無二の親友だ。彼の本気の懇願を一蹴できるほど、僕は冷淡な人間ではない。
「君は……」
「何だい、優希」
「悔しくないのか」
「何が?」
「だって順二、君だってエリのことは好きだったはずだ、それなのに――」
すると順二はすっと手を上げて、続く僕の言葉を制した。
「僕はエリさんに、世界のどこかで笑顔でいてほしいと思ってる。だからエリさんに相応しい相手を、心のどこかで探していたのかもしれない。僕以上に、エリさんのことを想ってあげられる誰かを」
出会ってたった十日くらいで、こんなことを言うのも変な話だけどね。
そう言って、順二は後頭部に手を遣った。
「そんな……。お前はそれでいいのかよ!?」
僕の問いに、今度こそ順二は視線を落とし、口元に手を遣った。これから恐ろしいことを口にしてしまう。そんな気配で。
「僕には、耐えられない」
「ど、どうしたんだ? 何が――」
「自分の好きになった人が、自殺してしまうなんて。そんな願望を抱いてしまうなんて」
順二は自分の広い肩を抱くようにして、首を左右に振った。
「君だってそうだよ、優希。僕は君が中学時代、悩みに悩んで自殺を考えていた、ってことを知ってる。僕の親友が、どうしてそんなに追いつめられなければならないのか、分からない。分からないことが、怖いんだ」
やがて視線を一点、僕の足元に定めてから、順二は
「自分の親友や家族や恋人が、知らないうちに死にたくなってしまうなんて、こんな世の中、間違ってる。そうは言っても、僕には立ち向かう意志も度胸も信念も、これっぽっちもない。でも君は違うんだ、優希」
「違う……って?」
「君なら、自殺したくなる人の気持ちが分かる。助けてあげることができる。優しくできるんだ。だから……だから僕は、エリさんの幸せのために、エリさんを諦める」
僕はゆっくりと顔を上げ、順二の目を見つめた。そこには確かに、光るものがあった。
身を裂くような沈黙が、この病室を埋め尽くす。
順二はもう、何もかも言い切ってしまったような態度。それに対して僕は、まだ何も言えないでいる自分を罵るような気分でいた。
沈黙を破ったのは、渦中の人物だった。
「ありがとう、二人共」
エリはそう言って、順二にそっと手を差し伸べた。
順二ははっとして、エリから距離を取ろうとした。エリの腕を気遣ってのことだろう。
だが、それでもエリは無言で無事な左腕を突き出してくる。
「順二くん、腕を」
すると、ふっと順二の右腕が浮いた。そこには何の抵抗感も拒絶感もなかった。まるでエリの言葉で魔法にかけられたかのように、順二は右腕を差し出したのだ。
エリは軽く、しかし眩いばかりの笑みを浮かべた。いつか僕が、向日葵のようだと思った笑みだ。
そのままエリは、左手を添えて順二の手の甲を上に向けた。
そこにそっと、口づけがなされる。
不思議と、嫉妬に駆られはしなかった。むしろ必要な儀式のように見えた。立場は逆だが、高貴な男女がそうすべき礼儀作法のように思われたのだ。
エリは順二の手を離し、
「ありがとう」
と一言。順二は感情を隠しきれず、ゆっくりと手を戻しながら顔を逸らした。
「……優希は、僕の家に天体望遠鏡があるのは知ってるよね」
「あ、ああ」
「天文部の活動は、僕が協力してあげられる。心配しないで、任せてくれ」
言葉に詰まった僕に代わり、エリは再び『ありがとう』と一言。
すると、
「じゃ、じゃあ、僕は学校に行くから」
そう言って順二はエリに背を向け、個室から出て行った。ドアが閉まりきる直前、順二が制服の袖でぐっと目元を拭うのが見えた。
再び、しかし今度はどこか暖かな雰囲気で沈黙が舞い降りた。
いつの間にか立ち上がっていた僕は、ゆっくりと丸椅子に腰を下ろし、エリと視線を合わせた。
「エリ、本当にあれでよかったのかい?」
「うん。私も、私には優希くんがいると思ってるから」
「そうか」
僕は頷き、
「ちょっと頭を整理する必要がありそうだな……。今日は帰ろうと思うんだけど、エリの方から話したいことはあるかい?」
「ううん」
エリはゆるやかに首を振った。しかし、それは僕を拒絶してのことではない。その証拠に、エリはずっと穏やかな笑みを浮かべている。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
僕はしっかりと頷いてみせてから、潔くエリに背を向けた。
どうしても相談したい相手が、僕にはいる。『彼』なら頼りになってくれる。
エリを幸せにしたいという使命感と、その使命感がもたらしてくれた喜びを胸に、僕は病院を後にした。
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