第31話

「春島優希くん、ね? 石塚先生から話は聞いてるわ」


 病院の受付で、女性看護師がにこやかに僕を出迎えた。僕は学生証を提示し、単純に『友人としての見舞い』という言葉で来院意図を告げた。


「竹園エリさんは、五階の五〇一号室。個室になってるわね。案内しましょうか?」

「いえ、大丈夫です」


 僕は軽く頭を下げてから、エレベーターへと向かった。

 石塚先生の話では、今朝には鎮静剤の効果が切れて、エリは話せる状態になるという。看護師に引き止められなかったところから察するに、エリの意識は戻っているということだろう。

 エレベーターを降りてすぐの部屋が、五〇一号室だった。思ったより緊張はなく、それよりも早くエリの回復した姿を見たいという気持ちの方がずっと強かった。

 真っ白な扉を、軽くノックする。返事はなかったが、ドアに施錠はされていなかった。


「失礼します」


 ぶっきら棒な口調だったが、取り敢えず僕は挨拶をしてドアをスライドさせた。

 すると、


「どちら様ですか?」


 という弱々しい声が僕の耳を撫でた。エリは自分の右半身をドアに向け、視線だけをこちらに遣ろうとした。首も動かさない方がいいのだろう。


「僕……春島だけど」


 我ながらか細い声で答えると、


「優希くん?」


 と思いの外元気そうな、少し驚きの混じった声がした。


「入っても、いい?」

「うん」


 僕は慎重に足を運んだ。まさかとは思うが、僕が歩いた振動がエリの怪我に響いてしまうのではないか、などと考えていた。

 しかしそれも、エリが軽くこちらに微笑んでみせるまでのことだった。


「来てくれたんだね。鼻の具合はどう?」

「大丈夫。あんまり痛くなくなってきたから。それより、僕がお見舞いに来て、迷惑じゃなかったかな……?」

「どうして?」

「いや、僕が酷いことを言ったから、エリさんはあんなことを……飛び降りなんかしたんじゃないかと思って」


 すると、エリは表情を曇らせた。しかしそこに、僕に対する敵意や警戒心はない。


「私が、悪いんだよ」

「どうして?」


 今度は僕が問いかけた。


「私、優希くんに好きって言ってもらえて、すごく嬉しかった。でも、友達として、っていうことかと思って……。だから、小河くんが食事に誘ってくれた時、断らなかったの。小河くんも、私の大事な友達だったから」

「ん……」


 僕は言葉に窮した。きっとイギリスでは、異性に向かって『好き』という言葉を放つ時、それは『恋人になってほしい』という意味だけではないのだ。『love』と『like』の違いなのだろう。

 僕の告白を、エリは『like』として、つまり友人としての言葉だと思ったのだ。


「ごめん、僕がちゃんと、しっかり伝えればよかったんだ。日本人が相手を好きって言う時は、その人と――」

「お付き合いしたい、っていうことなんでしょう?」


 僕ははっとして顔を上げた。


「……知ってたの?」

「ごめんなさい。私、しっかりした受け答えができなくて……」


 僕は首を横に振った。君に責任はない、ということを示すために。


「でもね、優希くん。一つだけ聞いてほしい」

「うん」


 その時になって、ようやく僕はベッドそばの丸椅子に腰かけた。


「私、人を好きになったことってなかったの。優希くんに告白された時、嬉しかったけどどう答えたらいいか分からなくて、だから『どういう意味?』って訊き返したの」

「えっ……」


 意外だった。僕たちくらいの年代の人間なら、恋愛の一回や二回、経験しているものだと思っていた。それは国が違っても、個人差があっても、当たり前のように僕には思われていた。

 だが、次にエリから発せられた言葉は、全く常軌を逸したものだった。


「私、パパ……じゃなくて父親によく言われていたの。しっかりした人を好きになりなさい、お金を稼げる人と結婚しなさい、だから大人になるまでは、誰のことも好きになってはいけない、って」

「……」


 言葉を失った。そんなことを教え込まれて、エリは生きてきたということか。自分の、いや、人間にとってとても大切な『好き』という感情を封印されて。


「優希くん?」

「え? あ、ああ」


 僕は自分の頬が痙攣しそうになるのを必死で抑え込んだ。


「少し、頭がごちゃごちゃになっちゃってね」


 そう言って時間稼ぎをしつつ、僕は現在の状況を考えた。

 この場でエリの父親を罵倒したいのは山々だった。もっとも、父親は今ここにはいないのだが。しかしそれでは、傲慢な態度をとり続けた父親と同じくらい、自分の身を貶めることになる。それだけは避けなくては。

 僕は君の両親とは違う。君の味方だ。エリにはそう伝えたかった。

 だが、一体僕にエリの何が分かるというのだろう? 出会って十日ほどしか経っていないのに?


「ごめんね、優希くん」


 はっとして目を上げると、エリは目に涙を浮かべていた。上半身を左腕で起こし、ベッドの上に座り込む。さらに足を動かして、今度は真っ直ぐに僕の方を見つめてくる。


「優希くんは、誰よりも私に優しくしてくれた。それなのに、そんな人の前で死のうとしただなんて、私、どうかしてたんだと思う。きっと、私が弱い人間だから。ごめん。ごめんね……」


 その直後、


「止めろよ!!」


 びくり、とエリは大きく肩を上下させた。


「人間、生きていれば自分で責任を取らなくちゃならない時が必ず来る。でも、でもな――」


 僕は大きく息を吸い込み、


「絶対に自分を責めるようなことがあっちゃいけない!!」


 エリは目を丸くしたまま、瞬きすら忘れてしまったようだ。


「自分が悪いと考えてしまったら、誰にも相談できなくなってしまうじゃないか! だから自殺なんて、恐ろしいことを考えてしまうんだ! そんなの、止めろよ!! 頼ってくれよ! 僕は君の護衛係じゃないか!!」


 しまった、と思った時にはもう遅かった。病院でこれだけ喚き散らしてしまったら、やはりエリの父親と同じ、傲慢で野蛮な人間というレッテルを貼られてしまう。

 悔しかった。それこそ本気で、僕は自己嫌悪に陥りそうになった。こんな形でしか、自分気持ちをエリに伝えることができないだなんて……!


 今度は僕が、涙を流す番だった。

 自分の膝に手を載せて、思いっきり頭を下げた。エリに謝ったわけではなく、エリを直視できなかったからだ。


 その時、そっと僕の右頬に、柔らかくて温かな何かが触れた。これはきっと、エリの左手だ。

 僕は慎重に、その手の甲に自分の手を重ねてみた。すると、今度は左頬にも何かが触れた。掌よりも繊細で、より柔らかな『何か』が。

 それがエリの唇であることを認識するのに、しばしの時間が必要だった。


「エリ……」


 僕がつぶやくと、エリはふっと唇を離し、


「よくアメリカのホームドラマで観るから、真似しちゃった」


 そう言って、悪戯っ子のように幼稚で無邪気な笑みを浮かべた。正直、エリがそんな表情をするなんて、僕には思いもよらなかった。

 そんな僕の困惑をよそに、エリは


「でも、自分を責めないようにするには、どうしたらいいの?」

「そ、そうだね……」


 僕は再び、答えが浮かばず狼狽えた。

 他人のせいにしてしまうのは簡単だ。しかし、エリは――そして僕も――そもそも責任感が強い方で、それ故に心が折れてしまう、というきらいがある。他人に責任を押しつけたり、悪意を向けたりするのは何の解決にもならない。


「じゃあエリ、君は今、一番何がしたい?」

「天体観測」


 まさに即答だった。


「でも、まだ学校の屋上は使えないし、それに――」

「タイムリミットはあと三日、なんでしょう?」


 僕が顔を上げると、エリは


「さっき看護師さんたちが廊下で話してるのを聞いちゃったの。私、転校させられちゃうって。だからせめて、優希くんと一緒に星を見たい」

「……」

「無理、かな」


 ここで無理だと突っぱねる気はさらさらなかった。しかし、どこでどうすれば天体観測を――。


「じゃあ、うちの屋上を使いなよ」


 突然背後からかけられた言葉に、僕は慌てて振り返った。


「じ、順二……」

「小河くん……」

「うちのマンションの屋上なら、気兼ねなく使えるでしょ? 二人共」

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