第30話
「私の姉は、大学生の頃に自殺したんだ」
先生の口調は重かった。しかし、これは聞いたことのある話だ。
僕は驚くこともなく、先生の言うことに黙って耳を傾けた。
「当時の私は中学生で、地質学者を目指していた。何にも分からなかったよ。自殺する人間の気持ちというものがね」
先生は儚げな笑みを浮かべた。ずっと分からないままでいたかった、とでも言いたげだった。
「しかし、私は高校生になった時、急に世の中が恐ろしくなった。何となくだが、自分が追いつめられた時にどうなるのか、誰にも助けてもらえないんじゃないか、逃げ場がないんじゃないかと思ってな」
「何かあったんですか」
「いや。歳をとったというだけかもしれないし、思春期だったからということもあるかもしれない。だが、姉ちゃんが――姉がどうして命を絶つ道を選んだのか、ピンときたんだ」
僕は軽く身を乗り出し、先生の次の言葉を待った。しばらく唇を閉じたり開いたりしていたが、『そうだな』と言って目を上げた。考えがまとまったらしい。
「幸か不幸か、私が通っていたのは東京の立派な進学校だった。そこで勉強についていけなくなってね、辛くて辛くて……。死にたくなった」
何だと?
「先生ご自身が、ですか」
先生は頷いた。はっきりと。
「もちろん、世の中高学歴者たちばかりが優遇されているわけじゃない。世界は広いんだ。だが――私の頭の中に、退学や転校という道は存在していなかった。それから先の将来のことも」
一種のプライドにしがみついていたかったのかもしれない。そう言って、先生は自嘲的な笑い声を喉から漏らした。
「実際、退学や転校を親から勧められた時の衝撃といったらなかった。自分の今まで築いてきたアドバンテージ、努力、存在意義が、全て水の泡になってしまうような気がしてな。だから私には、その高校に通い続けるか、命を絶つか、どちらかしか想像できなかった」
だが、それはあまりにも極端な考え方だ。
その思いが僕の顔に出たのか、先生は再び僕と視線を合わせた。
「幸い私は高校卒業に漕ぎつけることができた。しかし大学入試の時には二年浪人した。今までの無理がたたったのかもな」
先生は僕の机から、一本のボールペンを取り上げた。くるくると弄ぶ。
「ま、私は運がよかった。自分の好きだった地学を教えながら、過去の自分と同じような境遇の生徒をフォローすることもできる。だから、私は今とても幸せだ」
そう言われても、僕には到底納得できない。先生の顔つきは、去年担任してくれた時からは想像できないほど険しく、厳しく、そして儚げだった。
「今も竹園は鎮静剤で眠らされている。本人と言葉を交わすことができない以上、誰かの力を借りなければと思って、な……」
「先生?」
僕がそっと顔を覗き込むのと、先生の瞳から涙が滴るのは同時だった。
先生ははっとして身体ごと顔を逸らし、ハンカチを目元に当てた。
「おかしいな、いっつも生徒には舐められないように、空元気でも、泣かないように、していたんだけどなぁ……」
僕は急に、自分の中での石塚先生のイメージが崩れるのを感じた。あれだけ元気にクラスを盛り立てていた、石塚清美先生が――。
だが、イメージの崩壊は悪い意味ではなかった。先生が本音を打ち明けてくれたことに対する感謝と、同情の気持ちが湧きあがってきたのだ。
「石塚先生」
僕は努めてしっかりした口調で、先生に呼びかけた。
「僕にも、エリを自殺未遂に追い込んだ責任があります。片棒を担がせてください」
「春島……?」
「自分を責めるのは止めましょうよ、先生。それより、今はエリのこれからをどう支えていくかが重要なんじゃないですか」
先生は上目遣いに僕を見た。その表情に、いつもの快活さはない。だが、思いがけず救いの道を見出したかのように、先生は目を見開いた。
「いいのか、春島? お前だって大変だろうに……」
僕は軽く息をついて、
「何言ってるんですか、先生。エリの護衛任務を僕に出したのは先生でしょう?」
それからしばらく、先生はこくこくと頷いた。
「そう……だな。そうだよな……」
「先生には、まだまだ手のかかるクラスメートたちがいます。やんちゃしてますが、皆気のいい連中ですから、ちゃんと面倒みてやってください」
「生意気だぞ、担任教諭に向かって」
先生は苦笑しながら、僕の額に軽くデコピンを喰らわせた。
「僕には僕で、エリについて思うところはあります。明日も学校、休ませてもらえますか?」
「何をするつもりなんだ?」
「エリと話します」
僕は背筋を伸ばして言い放った。
「エリの両親がいくら強気に出ても、病院に圧力をかけたりはできないでしょう? 不自然な理由で、エリへの面会謝絶はされないはずです」
「私にできることは?」
「念のため、先生には僕がきちんとした瀧山高校の生徒であることを証明する書類を作ってほしいんです。病院に前もって連絡しておいてもらえますか?」
「分かった」
まだ涙の筋は残っていたが、先生はしっかりと首肯した。
「では私は、また学校に戻ってそのように取り計らうことにしよう」
「お願いします」
「だが春島」
回転椅子から腰を上げながら、
「どうしてそんなに、竹園にこだわるんだ?」
「好きだからです」
「恋愛感情があってのことか」
「はい」
すると、先生は軽く噴き出した。
「せ、先生?」
「いや、悪いな春島、お前がそんなに自分の意志を通せる生徒だとは思っていなかったのでな」
「そ、それは……」
突然、自分の頬が紅潮してくるのが感じられた。が、こればっかりは止めようがない。
急に気恥ずかしさが胸中で弾け、僕は顔を逸らして俯いた。
そんなことを知ってか知らずか、
「竹園を、いや、エリを頼むぞ、優希」
そう言って、先生は僕の肩を叩いて退室した。
※
翌日、僕を起こしたのはスマホの着信音だった。
時計を見ると、午前六時半。誰かと思って画面を覗き込んだ僕は、一気に眠気が消し飛んだ。通話開始ボタンにタッチする。
《朝っぱらからすまない、春島》
「どうしたんですか、先生?」
《緊急事態だ》
先生は一つ、咳払いをすると、
《竹園が転校させられることになった》
「……!?」
《ご両親の意志だそうだ。ちなみにエリ自身には、そのことは全く伝えられていない》
「無理やりエリを僕たちから遠ざけようってことですか!?」
《そうらしい》
僕は自分の膝がくずおれるのを感じたが、どうにも止めようがなかった。
《春島?》
「……」
これが大人の力なのか。子供を想う親のエゴか。
《……残念だが、こればっかりは私たちの権限ではどうにもできない。すまない、春島》
先生は続けた。
昨日の夜中、先生の携帯に直々にエリの父親から電話が入ったこと。
市の教育委員会に抗議したと告げられたこと。
そして、エリが退院し次第、東京都内の進学校に転校させる予定であること。
先生は話のところどころに『すまない』という言葉を挟んだ。
その度に、僕はぐっと心臓を握り潰されるような感覚に襲われた。
僕は一体どうしたらいい? エリのために何ができる? どうしてエリは、こんなにも追いつめられなければならないんだ……?
《春島? おい、春島?》
「先生、僕の面会は許可が下りたんですよね?」
《あ、ああ》
「だったら……」
僕は唇に歯を立てて、はっきりと言葉を紡いだ。
「エリが退院するまでの間、僕はずっと彼女のそばにいます」
《しかしなあ春島、毎日通っていたら流石にエリの両親にバレるぞ。最悪、面会謝絶にされてしまうかもしれない。それにそもそも、エリが退院するのは三日後だ。そうしたらすぐに、エリは両親の元に戻されて……》
「構いません」
すっ、と息を吸うこと約三秒。
「その三日の間に、エリに最高の思い出をプレゼントします。一生忘れられないように」
電話の向こうで、先生が息を飲む気配がした。
「まずは話をするところからですね。面会は確か午前十時から午後五時までですよね」
《どうするつもりなんだ、春島?》
「気持ちでぶつかっていくだけです」
それだけ告げて、僕は通話を終えた。
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