第29話
言うが早いか、僕は思いっきり床を蹴って、エリの父親の懐に飛び込んだ。
僕は腕っぷしは強くない。いや、そもそも喧嘩自体したことはない。だが、それでも僕の身体は止まらなかった。
「この野郎! それでもエリの父親かっ!」
僕は怒鳴りながら、がむしゃらに腕を振り回した。
まさか僕のような華奢な生徒が襲ってくるとは思わなかったのだろう。父親は、驚いて身動きが取れなくなった様子だ。
ちょうど彼の懐に飛び込み、何のテクニックもなく拳を突き出す。これがいわゆるアッパーなのか、ストレートなのか、ボディーブローなのか。そんなことはどうでもよかった。
僕の脳裏にあったのは、ふっと学校の屋上から地面に吸い込まれていくエリの背中だ。
あんな行為を――自己嫌悪の極みとも言えるであろう自殺行為を、事故としか認識しない父親を、僕は許すことができなかった。
「ま、待つんだ春島!」
「くっ! 何をするんだ、小僧!」
「小僧じゃない! 僕はエリの護衛係だ!」
先生に引き留められたせいで、僕は腕が使えなくなった。ちょうど僕の鼻先に、僕を振り払おうとした父親の肘が突きつけられる。
「ッ!!」
僕は思わず鼻を押さえた。今までにない激痛に僕は涙を堪えきれず、その場に膝をつく。
幸いなのは、父親が自分から攻撃をしてこなかったことだろう。世間体を気にして、正当防衛だけに留めた、というところだろうか。
掌を顔から離してみると、つつっ、と赤い液体が滴った。
「君、鼻の骨が折れてるじゃないか!」
医師が僕の顔を覗き込みながら声を上げた。
「あ、あ……」
満足に喋ることもできず、僕は中途半端な息を口から出し入れした。
「致命傷ではないだろう。今すぐ処置するから、すぐに治療室へ来てくれ」
それから、
「石塚先生、彼をお借りします。しばらく時間がかかるかもしれません。処置が終わったら、家まで送ってあげてもらえますか?」
「わ、分かりました……」
先生の口調からして、未だに驚きを隠せない様子だ。それはそうだろうな。春島という生徒は、目立たないことを優先しながら生活してきたのだから。それが突然、同級生の父親に殴りかかったとしたら。
もしかしたら、僕は一時的に鬱病がぶり返したのかもしれない。それに伴う、一過性の破壊衝動も。
僕は医師に手を引かれ、涙で見えづらくなった瞳を何度も瞬かせながら、一般治療室と思しき部屋に連れ込まれた。
僕は促されるまま、時には手探りを交えながら歩いていく。
「はい、ゆっくり腰を下ろして」
看護師の指示に従い、僕は医師の前の丸椅子に腰かけた。
ドアが閉めきられる直前、
「これは然るべき筋を通して抗議するからな!!」
という父親の怒声が耳に飛び込んできた。
僕は振り返って再び飛びかかりたい衝動に駆られたが、まともに目の前も見えない状態ではどうしようもなかった。
「春島くん、今から頭部麻酔をした方がよさそうだ。意識もなくなるから、そのつもりで。怪我は残らないだろうから、しばらく我慢して」
「ふ……」
「ああ、無理して喋らなくても――」
「へひ!」
僕の鼻から鮮血が飛び散った。
「おい春島くん、駄目だよ! おとなしくして」
看護師に後ろから肩を掴まれる。しかし、僕は強引に首を回してもう一度喉を鳴らした。
「大丈夫だ、誰も君を訴えたりしないから!」
僕の意志は通らなかった。
僕の処置をする暇があったら、エリの治療にあたってくれ――。
そう伝えたかったのだけれど。
首筋に軽い痛みを伴って、僕の意識は闇に落ちていった。
※
「頭はもうはっきりしたか、春島?」
「ええ。最近は目覚めのいい麻酔薬もあるそうなので」
「そうか」
夜の幹線道路を走っていく。僕は前方を見たまま、石塚先生のハンドル捌きに身を任せていた。暗い車内、リアウィンドウの左端には、交通安全のお守りと一緒に小さな熊の縫いぐるみがぶら下がっている。
鼻の治療が終わり、意識が戻ってから、僕はカウセリングを受けた。幸運なことに、担当は原田ドクターだった。連絡がつき、わざわざ休診日だったのに来てくれたのだという。
ドクターは真っ先に、僕の精神的ダメージを測ろうとした。正気でないと思われたのかもしれない。未遂とはいえ、同級生の自殺現場を目撃したとあっては。
しかし、僕は何も言葉にすることができなかった。起こってしまった自殺未遂よりも、今現在、そしてこれからのエリのことばかりが心配だったのだ。
「そんなに先々のことを気に病むことはないよ」
ドクターは自分の膝に両手をつき、身を乗り出してそう言った。
「竹園さんのことが心配なのは分かる。しかしこればかりは、私との話し合いでも投薬でも納得する結果は得られないだろう。今の君に必要なのは、休息だ」
そういうわけで、今僕は言葉少なに先生の車に揺られている。
「あー、春島」
「はい」
「今日は、その……どっちに?」
「伯父さんの方にお願いします」
「分かった」
「すみません」
心ここにあらず、ではあったものの、先生の気配りを僕は嬉しく思った。
しかしその思いも、まるで池に張った薄氷のように、見る間に溶けてなくなっていく。
「エリ……」
その呟きと一緒に。
※
翌日は学校を休むことにした。
万が一にも事故に遭わないとは限らないし、顔の中央を真横に走る医療テープは余計にクラスメートの心配を煽るだけだ。
取り敢えず、一人くらいは放課後に見舞いに行かせる、とは石塚先生の言葉。
恐らく順二あたりが来るのだろうが、どんな顔で会えばいいのだろう。
「はあ……」
僕はベッドで仰向けに寝転び、相変わらずの天井の木目を見つめた。
そういえば、ここは和室だ。天井からもそれは察することができるし、何より床が畳だ。何故ベッドが置かれているのだろう?
ああ、そうか。両親が伯父夫婦に僕を任せる際に、少し改装したのだったか。随分と気を遣わせてしまったな。
その時、控えめなノックの音がした。
「優希くん、起きてる?」
「はい」
ひどい鼻詰まりを起こしたような声で、伯母さんに応じる。
「入っていいかしら?」
「ええ」
すると、伯母さんはゆっくりと襖を引き開けた。正座をしている。そのそばには、
「おじや、作ってきたんだけど、食べられる?」
「……」
正直、食欲はなかった。しかしそんな理性の囁きを無視して、ぎゅるるる、と間抜けな音が響いた。
身体は正直だ。いや、嘘をつく必要はないのだが、理性と本能が乖離していることが証明されてしまった。
伯母さんはふっと口元をほころばせ、
「自分で食べられる?」
僕はこくこくと頷いた。
それからいつもの倍近い時間をかけ、少な目に調整されたおじやを完食した。
食器を下げに来てくれてたのを最後に、伯母さんは、そして伯父さんも僕を独りにしてくれた。正直、ありがたかった。もしかしたら、原田ドクターが根回しをしてくれたのかもしれない。
僕は食事に使った勉強机から腰を上げ、スマホをチェックした。順二が『心配している』という旨のメールをくれていたが、僕は『大丈夫』の三文字で答えるにとどめた。
それからしばしの時間が流れた。久々に引っ張り出した松本清張短編集が面白く、僕は黙々と読みふけっていた。
昼食を勧めに伯母さんが来てくれたが、その時は断った。
再び腹の虫が鳴いた頃――午後五時を回ったところで、僕の耳がある音声を捉えた。玄関先で、伯母さんが誰かを促している。控え目な声音だったが、誰なのかはすぐに判断できた。
僕は回転椅子を回し、その誰かが階段を上ってくる音に集中する。襖が開けられた時、そこには僕の予想通りの人物が立っていた。
「やあ、春島」
「こんにちは、石塚先生」
「少し話をしたい。入っても構わないか?」
「ええ。どうぞ」
僕は回転椅子を先生に譲り、自分はベッドに腰かけた。
「随分いろいろ読んでるんだなあ」
先生は椅子に腰かけながら、僕の本棚を眺めた。
「おや? 太宰治は? 『走れメロス』だけか? 『人間失格』とかは?」
「なんだかタイトルが気に入らなくて」
「そうか」
軽く頷いてみせてから、先生は僕と向き合った。カーテンの隙間から差す西日が、先生と本棚の間を裂いている。
「春島、勝手に押しかけてしまってすまない。だが――事情の分かる人間の助けが必要だ」
先生は真摯な、しかしどこか不安げな眼差しで僕と目を合わせた。
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