第28話

 数秒かの時間が過ぎた。まさか一分以上は経っていなかったはずだ。僕は階段をとって帰し、二段飛ばしで駆け下りた。

 校内の掲示板を見る男子、トランペットを握った女子、窓の外を眺めるカップル。そんな彼らをかわし、ぶつかり、しかし謝罪の言葉を述べる間もなく、僕は猛ダッシュをかける。

 昇降口からシューズのままで飛び出した僕は、グラウンドに背を向けて校舎を回り込んだ。これでエリの落下地点に着くはず――。


 エリの姿はすぐに見つかった。横に倒れ、胎児のようにうずくまっている。しかし、彼女が身を横たえているのは地面ではない。車の屋根だ。先ほど聞こえた無機質な衝突音の発生源はこれか。

 車は誰か先生のものと思われ、グラウンド拡張工事の邪魔にならないよう、ここに停車されていたのだろう。エリも、飛び降りる直前まで下に何があるのか把握していなかったに違いない。

 もし車があることを知っていたら、エリは飛び降りを断念したはずだ。車がクッションになって、飛び降りの妨害になるであろうことは察せられただろうから。


 しかし、今はそんなことはどうでもいい。


「エリ! エリ!!」


 僕は自分の掌にガラス片が刺さるのも気にせず、前部ボンネットによじ登った。リアウィンドウは粉々になっている。ちょうど天井の中央で、エリは横たわっていた。


「エリ!!」


 僕は思わず、彼女の肩を揺さぶってしまった。しかし出血はあまり見られない。

 その時だった。


「君、離れなさい!」


 と言いながら何者かが僕の腰を抱え込んだ。小柄な僕は呆気なく引き剥がされる。


「こちら瀧山高校、負傷者一名。飛び降りの自殺未遂かと思われます。――了解。ただちに市立病院へ搬送します」


 僕はぺたりとへたり込んでしまっている。すると、僕に影を投げかけるように、隣に誰かがやって来た。

 石塚先生だった。しかし先生は僕に気づかなかったようで、


「た、竹園! 竹園っ!!」

「下がってください、先生! すぐに救急車で搬送しますから! おい、担架だ!」


 救急隊員たちが、キビキビとエリを抱きかかえ、車から降ろし、担架に乗せて救急車に運び込む。


「私は彼女の担任です、病院まで同行します!」

「分かりました!」


 先生に頷く隊員。


「僕も!」


 僕は慌てて立ち上がった。周囲から、怪訝な視線が飛んでくる。だがそんなことに構わず、僕は


「僕は彼女の飛び降りの現場にいました! 何があったか、皆さんにお伝えする義務と、エリが無事かどうかを確かめる権利があります!」

「先生、彼は……?」


 困惑した隊員に、先生は


「彼が望むなら、同行させてやっていただけませんか?」


 すると隊員は素直に頷き、


「じゃあ、君も乗ってくれ。ところで、君は彼女の何なんだ?」

「護衛要員です」


 と、僕は躊躇いなく答えた。


         ※


「まさに奇跡的としか言いようがありません。竹園さんの命に別状はありませんよ」


 その医師の言葉こそ、僕にとっては奇跡だった。福音と言ってもいい。


「ただ、車の天井にぶつかった時、身体の下側になっていた右腕を骨折しているようですので、しばらくは動かせなくなりますね」

「そう、ですか……」


 石塚先生は複雑な表情で医師の言葉を聞いていた。ほっと胸を撫で下ろした様子ではある。しかし、それでも自分が担任を任された生徒が自殺とは……。後々の先生のメンタルに支障をきたさなければいいのだが。


 僕はと言えば、もちろん安堵はしていた。しかし、すぐにその『奇跡だ』という言葉は、『どうして?』という疑問に切り替わっていた。

 確かに、転校に伴う緊張、異文化への馴染み方、僕の目まぐるしい態度など、思い当たる節はある。だが、それだけで自殺などと短絡的に考えるだろうか? エリのような聡明な少女が?


 エリが治療室から個室へと移されていく。僕がそっと覗き込むと、人工呼吸器の類は取りつけられておらず、しかし瞳は閉じられていた。鎮静剤でも注射されたのだろう。

 担架に続いて手術室から出てきた医師が、


「すまないね。数時間経てば目を覚ますだろうが、誰よりも先にカウンセラーに会ってもらうことになる。ボーイフレンドとしてはもどかしいところだろうけれど――」

「いえ、そんな……」


 ボーイフレンドなどではない。そんなことを引き受けられるだけの能力はない。それを思い切って告げてやろうと思った、その時だった。


「い、いや、ですからここから先は……」

「何故だ! 何故娘と会うことすらできないんだ! ここは刑務所か!」

「一目顔を見るくらい、どうしてできないのよ!」


 女性看護師が、廊下の向こうで誰かを引き留めようとしている。が、看護師を突き飛ばすような勢いで、一組の男女が廊下の角を曲がってきた。

 二人共若くはない。五十代前半といったところだろうか。あるいは服装のせいでより年配に見えるのかもしれない。看護師との遣り取りから、僕はこの二人がエリの両親であると察した。

 父親は、俳優と見紛うほどの紳士的な雰囲気を漂わせていた。強引に看護師につっかかりながらも紳士的に見えるということは、かなりの自信と信念を持ち合わせているのだろう。日本人離れした顔つきが、余計にそう見せているのかもしれない。

 母親もまた、父親に負けず劣らず意志の強い態度で振る舞っている。父親と同様に、縋りついてくる看護師を振り払い、廊下をこちらに向かってくる。フォックススタイルの眼鏡が攻撃的な印象を与えた。


「エリは? エリはどこだ?」


 ここが病院だということを忘れているのだろうか、父親は堂々と大声を上げる。


「担当の医師に会わせてもらいたい。どこにいる?」

「私です」


 この両親を治めるためだろう、医師が姿勢を正して両親と向き合った。

 その時、


「春島」


 僕は石塚先生に小突かれた。立ち上がる先生の様子から、僕も立ち上がった方がいいだろうと判断。すると、先生は深々とお辞儀をした。

 僕はぼんやりしていて礼をしそびれたが、そのせいで両親が先生に一瞥をくれるのが見えてしまった。明らかに、軽蔑の念が込められていた。

 それも一瞬のことで、医師が両親の対応をし始めた。

 と言っても、エリの右腕が折れたこと、命に別状はないこと、今は鎮静剤で眠らされていること、と端的な説明だった。


「まさか医療ミスなんてことはあるまいな? もし事故で頭を打っていて、脳に障害が残ることになっていたら、裁判沙汰だぞ」


 何なんだ、このふてぶてしい態度は。僕はキッと目を細めた。

 しかし、事故? 父親は今、『事故』と言ったな。自殺未遂ではなかったのか?


「おい、君は何者だ? 学生のようだが、名乗りたまえ」


 父親の視線が僕のそれと衝突する。母親もまた、僕を睨みつけてきた。


「竹園エリさんの護衛係です」


 気後れはしなかった。事実を述べたまでだ。

 さらに続けて、僕は


「お二人は、どちら様ですか?」

「おい、春島!」


 小声で僕を止めようとする先生を無視して、僕はじっとエリの両親を睨み続けた。

 喧嘩? いくらでも買ってやろうじゃないか。


「子供を相手に名乗る名はない。ただ事故の現場に居合わせただけなのだろう? すぐに帰りたまえ。エリの治療の邪魔だ」

「ただの事故、だって?」


 僕はぐっと半歩前に出た。

 自分の脳内のことを、口内に封じていられなくなったのだ。


「あれは事故なんかじゃない、エリの必死の叫びだったんだ!」

「何を言い出すのかね?」

「あんたたちは、エリと別居中だったとはいえ両親だ。それなのに、どうしてエリのことに気をかけてやらなかったんだ? 何故心配してやらなかったんだ? 自分たちはエリの自殺未遂に無関係だとでも思ってるのか?」


 僕は畳みかけた。しかし父親は、


「君は年上の人間を敬う気持ちを持ち合わせていないのかね?」


 と言って唇の端を歪ませた。だが、それこそ僕の嗜虐心に火をつけることとなった。


「ああ。そんなくだらない考えは、もう忘れたよ」

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