第27話
教室に入ると、あまりの『いつも通りさ』に拍子抜けした。
なんだか僕は、悪い夢を見ていたようだ。エリと順二以外は僕の病気を知らないし、何も変わりようがない。まあ、当然といえば当然なのだ。
僕はエリの視界に入らないように、教室後ろから自分の席へ。本当はずっと気づかれないでいたかったけれど、変にこそこそするのも躊躇われた。結果僕は、いつものように音を立てて椅子を引き、腰を下ろして鞄を開いた。
すると、
「あっ、おはようございます。春島さん」
「お、おはよう」
エリは振り返って挨拶をした。しかしその態度はよそよそしく、ぎこちなくもあり、その顔に笑みはなかった。
だよな。そうなるよな。僕は相変わらず、『諦めによる落ち着き』を維持して隣席を見た。
「おはよう、順二」
しかし、
「やあ、優希くん」
順二にもまた、元気はなかった。てっきりエリと歓談しているものかと思っていたが。
朝電話した時は、順二は平常心を維持していた。それが凹んでいるところを見ると、やはりエリとの会話が上手く進まなかったのだろう。
僕は、エリをお前に任せると言ったんだ。僕は彼女のことは諦めたんだ。それなのに、その様はなんだ。彼女を幸せにしたいとは思わないのか。
視線を前方に戻し、目頭を押さえた。一体僕は、何をやっているんだ――。
僕が困惑と狼狽と猜疑心に苛まれているうちに、その日の授業は全てが終わっていた。本当に、いつの間に何があったのか分からない。実感できるのは、その『分からない』という感覚だけだ。
「ねえ、優希くん」
「何だい、順二」
気のない返事に対し、順二はずいっと顔を近づけてくる。
「ちょっといいかな。体育館裏まで」
「うん」
そっと立ち上がったエリの背中を見ながら、僕は頷いた。
※
「エリさん、何かあったのかな?」
「何もないよ」
完全に日陰になっている校舎裏。グラウンドの反対側だ。木々の香りが爽やかな一角だが、残念ながらそれを味わうだけの余裕は僕にも順二にもない。
「ふうん、おかしいな……」
順二は顎に手を遣った。しかし、僕は違和感を覚えていた。
『何かあったのか』という問いに対して、即答で『何もない』というのはなんとも奇妙な会話ではないか。それとも、順二はそれほど僕を信頼しているのか。こんなに論理性の欠けた会話をしても平気なほどに。
だとしたら、彼は馬鹿だ。もちろん僕も。
エリのことを、自分勝手に順二に任せてしまった。これでは以前の石塚先生と同じことをしているではないか。
思いの外、僕の黙考は長かったらしい。
「おーい、小河! 練習始めるぞ!」
「はーい! ごめんね優希くん」
「何が」
「いや、なんだか悩ませちゃって……。夜電話するよ」
「ああ」
「それじゃ!」
結局、僕は順二に伝えることができなかった。お前は僕の敵なのだということを。
『敵』というのも大層な呼称だが、『ライバル』などとは到底捉えられなかった。そんな眩しいものではなかったのだ。
今や僕に対する小河順二の立場は、親友どころか友人ですらなかった。極めて無機質なモノだ。
その後ろ姿を見つめながら、僕は突っ立っていた。動くことができなかった。エリも順二も、僕から離れていくような気がして。
もちろん、原因は僕だ。だが、自己嫌悪に走ったり、責任を感じたりすることはしなかった。
できなかったのだ。ドクターから言われたように、自己嫌悪に走ってしまうと周囲に助けを求めることすらままならなくなってしまう。それだけは、なんとしてでも防がなければ。
その時、
「!」
驚いた。ああ、スマホのマナーモードの振動か。
通話。風間先輩からだ。
「もしもし」
《あっ、もしもし、優希くん? ちょっと連絡が遅れちゃったんだけど、今いい?》
「はい」
《今日は、園芸部の資材の買い出しを手伝おうと思うの。肥料とかを含めると、結構な荷物になるから。石塚先生が車で運んでくれるって言うんだけど、駐車場からプレハブまで運ぶのが大変なのよねー。エリちゃんにも伝えてもらえる?》
「分かりました」
《……。じゃあ、よろしくね》
プツッ、といって通話は切れた。僅かな沈黙があったのは、もしかしたら先輩も僕の異状を察知したからかもしれない。まあ、どうでもいいのだけれど。
そういえば――。エリは僕と順二が教室を出る時、既に席を立っていたな。どこへ行ったんだろう? いや、今やそれこそどうでもいいことだ。
僕は、素直に先輩の提案に従う気にはなれなかった。だって面倒じゃないか。天体観測とも無関係だし。行くとすれば、屋上か。少し風通しのいいところに行けば、気分が落ち着くかもしれない。
僕は相変わらず無意識的に、上の空状態で屋上へと向かった。
三階から屋上へ出る階段へと足を踏み出す。そこで、初めて僕の注意が引かれるものがあった。
「……ん?」
立ち入り禁止のテープが切られている。階段両側のスロープに両端を結ばれたテープが、ハサミか何かのようなもので破られているのだ。
誰かが、この先にいる。
しかし、何のために? いや、そもそも誰が?
僕の心臓の鼓動が早まる。
僕は階段を足早に、一段飛ばしで上った。
勢いよく扉を押し開ける。
そこには、
「あ、優希くん……」
「エリ、さん……」
エリは、僕が凹めて接続が悪くなったフェンスの前に立っていた。こちらに背中を向けるようにして。
いや、フェンスはない。フェンスのその部分は、今は取り外されている。つまり、エリが一歩踏み込めば、立派な飛び降りになるわけだ。
まさかフェンスに工事の手が及んでいたとは思わなかった。恐らく、それが原因で天文部に活動休止指示がなされていたのだろう。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
「エリさん、そこで何してるの?」
「さあ……」
エリは相変わらず可愛げに首を傾げた。だが、そう見えて彼女はリストカットの常習者だ。自傷行為や自殺というものを考えるうちに、抵抗がなくなってしまったのかもしれない。
もしかしたら、それがエリの望みなのか――?
「待ってよ」
僕は端的に声を上げた。
「何が?」
エリは真っ直ぐこちらを見返してくる。『何が?』と尋ねられて、『自殺するつもりなんだろう?』とは言えなかった。僕はエリの足元で、シューズが綺麗に揃えられているのを見た。
「ちょっと待って。僕、そこに行くから」
「大丈夫だよ。だって、一歩踏み出すだけだもの。優希くんに手伝ってもらわなくても平気だよ?」
平気? 平気だって? この状況下で、エリは一体何を言っているのだろう?
その疑問が、一瞬で僕の状況認識を改めた。
はっとした。
しかし、僕が目を見開く間に、エリは再びこちらに背を向けた。
「待て、エリ!!」
僕は全身全霊で駆け出した。エリの腕を握ろうと、片手を突き出しながら突進する。しかし、間に合うはずがなかった。
その時エリがどんな表情をしていたのか、僕には分からない。
ただ、確実なことが二つある。
僕は思いっきり、前転の要領で転倒したということ。
そして、エリは見事に飛び降りを成功させたということだ。
同級生の自殺というものを目にして、結局ドラマチックなことは何一つ起こらなかった。
僕がエリを引き留めることも。エリが躊躇することも。奇跡が起こって、エリが飛び上がってくることも。
スローモーションをかけられたような僕の五感の中で、まともに機能したのは聴覚だった。エリが飛び降りた場所の真下から、グシャリ、という音が響いてくるのを感知した。
あまりグロテスクな音ではなかった。金属製の何かが潰れるような。
すると、外国のアクション映画で聞くような車の警戒音が鳴り始めた。
ピューン、ピューン、ピューン、ピューン――。
無機質な音に交じって、生々しい悲鳴が聞こえてきたのは直後のことだ。
それでも、僕の心は無機質なまま石化してしまったかのようだった。
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