第26話

 驚いたショックによってだろうか。僕は少しばかりの落ち着きを取り戻した。


「エリさん、どうしてここに……?」

「優希くん、私のお世話係をしてくれてるでしょう? だからお礼がしたくて……」


 エリは一旦着替えてきたのだろう、水色の清楚なワンピース姿だった。


「これ、優希くんに」


 エリが洒落た鞄から取り出したもの。それは、ラッピングされた小さな箱だった。

 僕はおずおずと手を伸ばし、ゆっくりと受け取る。


「気に入ってくれるといいんだけど……」

「開けてもいい?」


 エリは少しばかり、もじもじと手先を擦り合わせたが、


「うん」

「じゃあ、遠慮なく」


 その箱に入っていたのは、


「手作りだけど、どうかな……?」

「……」


 クッキーだった。香ばしい、食欲をそそる匂いが漂う。

 エリは黙って、僕を見つめている。味見してほしいのだろうか。しかし、今? この場で?


 エリの期待と不安の入り混じった瞳。それを見て、僕は今日あったことを思い返していた。

 普通だったら、嬉しさのあまり舞い上がって我を忘れてしまうところだろう。

 だが、今の僕はどこか狂っていた。


「順二とは……」

「ん?」

「順二とは高級パスタで、僕にくれるのはクッキーだけか」

「え? それってどういう――」

「どうして順二なんかと一緒に食事に行ったんだ!!」


 僕はクッキーの箱から手を放した。座り込んだ姿勢だったことで、中身が散らばらなかったのは幸いだった。しかし、勢いよく立ち上がった僕の気迫に、エリは明らかに怯えの表情をみせた。


「僕は君の護衛役だ! 同じ部活にも入ってる! 毎日一緒に登下校してるし、君は僕を抱きしめてくれたんだ! それに、君は知ってるだろう? 僕が君のことを好きなんだ、っていうことを! それがどうして、どうして順二なんかに! 順二なんかと一緒に食事に行ったりなんかしてるんだ!」


 この一連の言葉を、僕はその日のうちに酷く後悔することになる。

 僕とエリの接点がどうあれ、エリのプライベートは守られて当然だ。

 傷ついた人――今回は僕――を抱きしめてくれたのも、欧米ではよくあることだ。親密なスキンシップがあったとて、そこにエリの恋心があったとは言い切れない。

 さらには、エリは僕が『どういう意味で』好意を抱いているのかを把握しきれていなかったのだ。『好き』と言っても、それが友人としてなのか異性としてなのか、困惑していたに違いない。その疑問を呈する姿は、僕も確認している。


 つまり、僕にはエリと親交を深める上で、順二に対し何のアドバンテージもなかったわけだ。それを、勝手に都合よく解釈して、勘違いして、文化の違いというものを分かろうともしないで……。


 だが、それをその時の僕に理解しろ、というのは無理な注文だった。

 エリの優しさが、僕の胸中をぐしゃぐしゃに粉砕していく。


 エリは微かに肩を震わせている。僕にあれほどの啖呵を切らせた責任を感じているのだろう。無論、恐怖心や申し訳なさというのもあるはずだ。

 しかしエリは気丈にも、僕に声をかけてきた。


「ごめんなさい。私、イギリスにいた期間が長かったから、いつの間にか優希くんを傷つけていたみたいで……。ただ、これだけは信じて。あなたが私に愛想を尽かしても、私はあなたを信頼してる」


『信頼』か。


「分かったよ」

「何が?」


 エリはいつものように、しかしやや不安の色を浮かべて首を傾げてみせる。


「君にとって、僕はその程度の存在だった、ってことが」

「その程度って……悪い意味?」


 僕は勉強机の前の椅子に腰かけ、肘を机につけて額に手を遣った。


「帰ってくれ」

「でも私、まだきちんと謝ってないから……」

「帰れって言ったんだよ!!」


 僕は机に向かったまま、唾を飛ばしながら怒号を上げた。

 感情に任せただけの言葉は、エリの心を瓦解させるのに十分な破壊力を伴っていた。


「さよなら」


 エリはそれ以外の言葉を思いつかなかったらしい。余計な言葉を付け加えることなく、すぐさま踵を返した。


「はあ……」


 僕は大きなため息をつきながら、エリと僕の接点のことを考えた。後悔したというのは、それからのことだ。

 しばらくして、部屋のドアがノックされた。


「優希くん、今いいかしら?」


 伯母さんだった。僕は顔を上げず、身体を向けることもしなかった。


「エリちゃんがちゃんと家に帰ったかどうか、確かめてあげてほしいんだけど……」

「すみません。伯母さんからお願いできますか。ちょっと、今は話せないんです」


 すると伯母さんは、何も訊かずに了承してくれた。エリの携帯番号を教えると、すぐに僕をまた独りにしてくれた。


 その後、僕の記憶は断続的になった。それが病気のせいなのかストレスを回避するためなのか、そもそもそれを判別できるのか、僕にはもう何も分からなかった。


         ※


 翌朝。

 僕はエリの登校護衛役を順二に任せることにした。スマホを手に取り――幸いまともに起動した――、順二に電話する。昨日、エリとのことで怒鳴ってしまったことについては適当に流した。


《え? でも僕が代わってもいいのかい? エリさんのマンションはスマホですぐ探せるけど……。優希くん、体調を崩したとか?》 

「いや、そういうわけじゃないんだけどね。まあ、学校で会おう」


 僕がこんなに落ち着いた会話ができたのは、諦念に囚われていたからだ。

 僕はエリには相応しくない。こんな精神を病んだ男子が、『護衛役』などという大役を担うべきではなかった。

 しかしそこに、石塚先生を責める気は全くなかった。何故かそんな気が起きなかったのだ。僕を護衛役に仕立てたのは先生だが、力不足だったのは僕が病人だからだ。

 今日のホームルーム前にでも、こちらから先生に謝りに行こう。


「それじゃ、いってらっしゃい」

「気をつけてな。無理はするなよ」

「ありがとうございます。行ってきます」


 僕は伯父さん・伯母さんに見送られて家を出た。トントンとつま先を地面に打ちつけ、踵を靴へ入れる。

 ふっ、と息をつきながら伸びをする。

 ゆっくりと空を見上げ、青い空気を吸い込む。


「はあ……」


 僕は落ち着くための二、三の所作を行った後、ゆっくり、エリと出くわすことのないように足を踏み出した。


 風の強い日だった。小学生の集団登校の列が、車道の反対側を歩いていく。新一年生も慣れた様子で、きちんと上級生の持つ旗にくっついていく。

 彼らもいつか、僕のような苦しみを味わうことになるのだろうか? 勉強で。学校で。恋愛で。もしかしたら、精神疾患で。


 僕にできることは何もない。でも、なんとか僕と同じ思いはしないでほしいと、他人事ながら僕は思った。彼らはあまりにも無垢で、何もかも知らなすぎる。知らぬが仏で時間が過ぎてしまうのも、悪いことではないのかもしれない。

 そうは言っても、僕にできることは何もない。おっと、これでは自問自答が止まらないな。僕は俯き、視線を逸らした。


         ※


「そうか」


 石塚先生はそう呟いて、コトリとマグカップを置いた。


「迷惑をかけたな、春島。すまなかった」

「いえ」


 僕は短く答えた。


「先生は、大丈夫ですか」

「なんだ、生意気だぞ」


 先生はふっと息をついた。自然な笑みを浮かべている。しかし、目の下には隈ができていた。


「……」

「どうした、まだ何か用があるのか? 春島」

「すみませんでした。僕が病人だからっていうことで、ちゃんとお断りすればよかったんです。竹園さんの護衛なんて」

「謝る必要はないよ」


 先生はマグカップから手を離し、回転椅子を回してこちらに身体を向けた。


「私もいろいろと勉強になった」


 ポンポンとデスクを叩く。そこには、精神疾患に関する書籍が積み上げられていた。

 地学の先生なのに、授業準備とは別にこんな勉強をしていたのか。


「これからは、竹園の手伝いは小河に任せていいんだな」

「はい」

「……分かった」


 先生は一瞬言葉に詰まった。それはもしかしたら僕の恋心を、そしてそれが諦念に代わってしまったことを、察してくれたからなのかもしれない。


「それじゃ、教室に戻ります」

「ああ。私もすぐに行く」

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